4 / 9

4

 時計の針が決まった時間を指すと、周りは立ち上がってオフィスを出ていく。  陽が沈みかけていくなかで、オレンジ色の夕日がブラインドの隙間から差し込こんでいる。  帰宅する人間の波に混りながらエレベーターへ乗り込み、ロビーで待ち合わせをした中崎と合流する。  こちらに気がついた中崎はぱっと表情を明るくしたかと思えば、ご丁寧に手まで振ってきて注目を集めた。  誰に向けてそんなことをしているのかと、その場に居合わせた全員が俺を振り返る。  居心地の悪さは相当なもので、痛い視線を振り払いながら急いでビルを出た。 「あんなところで、手とか振るなよな」  駅の方へ向かって少ししてから、俺は上機嫌の中崎へ呆れたように文句をいった。 「わるい、うれしくってついさ」  詫びれもない様子で、笑いながら隣を進む相手はどこか浮かれている風だった。  このまま放っておけば、鼻歌でも歌い出しかねない雰囲気でさらに呆れた。 「中崎の家って近いの」  地下へ通じる階段を降りて、生ぬるい風が髪を乱した。  適当に並ぶ列の一番後ろにつけて、前後になった中崎を後ろから見上げる。  相変わらず人目を引く端整な顔立ちは、他の列に並ぶ人間の視線を集めて俺を卑屈にさせる。 「ここから二駅だからすぐだよ。何食べる?」  昼休憩の終わりごろ、夕食の約束した俺たちは、仕事中にスマホでどこへいくかを相談していた。  お決まりの居酒屋という案が濃厚だったが、翌日が休みなのを理由に、中崎が自分のアパートで宅飲みを提案する。それを強く推すものだから、俺は断る理由も見つからないためすぐにオーケーを出した。 「適当に買っていけばいいよ。嫌いなものないし」  中崎は楽しそうに、夕飯のメニューを軽快に語っている。  よく動く口は止まらず、俺はそれにリズムよく合図ちを打ち続ける。  薄い唇はほのかに赤く、昼間のキスを思い出した。  自分で引き寄せた結末は、思いの外悪くない。  相手が男だということを含めても、孤独との天秤は大きく中崎の方へと傾いていた。  ひしひしと伝わる好意は俺を打ちのめし続けるが、そんな罪悪感は心の奥へ閉じ込めて、笑いかける相手へ同じように笑みを作った。  アパートというよりはマンションに近い建物は、新築なのかやけに見映えがした。  照明の明るい階段を上り、二階の一番奥まで歩いて、その突き当たりに位置した中崎部屋は広い。  独り暮らしとは思えないほど部屋数があって、シンプルな家具が揃えられたリビングは、ファミリー向けの展示を思わせた。 「適当に座ってていいよ。今グラス持っていくから」  アパートのすぐ側には小さなスーパーがあって、帰る前に半額になった惣菜やつまみを購入した。  冷えたビールも忘れずに用意して、二人で両手に袋を下げた姿は、パーティーでも開くのかというほど大荷物だった。 「すげぇ広いな。ほんとに一人か?」  リビングの中央には大きめのレザーソファが陣取って、その前には低めの長テーブルが置かれている。  買ってきた惣菜をそのまま並べて、ソファの端へと腰を落ち着けた。 「当たり前だろ。管理人が知り合いだから、安く借りてるんだ。別に好きでここを選んだ訳じゃないよ」 「ふぅん。まぁ広いにこしたことはないよな」  俺は大きめのグラスを二つ手渡されて、テーブルの空いたスペースに並べた。  中崎は締めていたネクタイを、するりと引き抜いてソファの背もたれにかけると、俺の隣に間を開けて座る。  無意識に真似した自分もネクタイを緩めながら、互いに冷えたビールを注いで乾杯をした。  しばらくは他愛のない話ばかりが続いて、俺は中崎に告白されたこと自体を忘れかける。  普段と変わらぬ様子で語る相手の話は面白い。  食事よりも進む酒に、どんどん空になっていく缶は、床に転がりあたりを散らかした。  気づけば話すことも億劫になった俺は、ただ隣で話を続ける相手を見つめるしかできなくなっている。  頷くことも面倒で、何を話しているのかさえ頭に入ってこない。 「おい宮下、大丈夫か?」 「……うん」  心配そうに声をかけてきて、肩を叩く中崎の手は温かい。  ソファにもたれ掛かった体は重く、頭だけを動かしてなんとか相手を捉えようと目を開けた。 「うそだね、目が半分寝てる。起きろ、風呂はいいから寝るならベッドで寝ろよ」  崩れ落ちそうな体を支えた相手は、立ち上がって上から声をかけ続ける。 「……めんどくさい、ここでいい」  広いソファのレザーは、肌触りがひんやりとして気持ちがいい。酔いの回った体はふらついて、立ち上がることも困難だった。 「風邪引くって、ほら。肩貸せ」 「……んん、ねむい」  無理やり引っ張られた腕は中崎に抱えられて、宙に浮いたような感覚で歩く。  ほとんど相手の腕の中にいるような格好になり、その心地いいぬくもりにすり寄った。 「……お前、無防備すぎ」  微かにシャツから香る香水の匂いは、いつも側に漂うものと同じだ。  まとわりつくアルコールのにおいが和らいだ気がして、なおさらそのぬくもりを手放すのが惜しくなった。 「宮下、ほら。ネクタイだけでも外せって」 「……中崎は、何で俺のこと好きなの……」  寝付いた子供の面倒を見るかのように、中崎はベッドへ倒れ込んだ俺の首もとを楽にする。  薄目を開けて見上げた相手の表情は、暗い部屋のせいで窺い知れない。 「は、さっき話しただろ。聞いてなかったのかよ」  こんなに面倒見もよく、仕事ができて、人気のある男が俺なんかを好きな理由が見つからない。  すでに中崎の話は、酒を飲み始めて最初の頃しか覚えていない。  俺は理由を聞きそびれて、少しばかり安心した。 「……一人は嫌だ」 「ここにいるって」  一人きりの孤独へ戻らないために利用すると決めた相手の、そんな好意の理由を聞いてしまったら、俺はしまい込んだ罪悪感で殺されてしまう。  目尻にじわりと涙が浮かんだが、気づかれないように腕を回して隠した。 「宮下、……ほんと、おれお前のこと好きなのわかってる?」 「……わかってるよ、聞いたよ」  横になった体の脇に、中崎が座り込むのがわかった。  ベッドが少しきしんで、顔から腕を退けてみれば、すぐ上には中崎の顔があった。  両腕を俺の首元につい立てて、覗き混むように側へ寄ってくる。 「なら、こんな状況で何もないなんて、考えないよな」 「何も……?」  いきなり声を低くして、ぼそりといった相手の表情はいまだに知れない。 「悪いけど、我慢するつもりないよ」 「え、なに……」  いつもとは明らかに違う雰囲気の中崎に、俺は酔いも覚めないまま緊張して、体がさらに動かなくなった。  すると首元に残っていたネクタイを抜き取られて、その感覚に背筋がぞくりとする。 「中崎、なにして……っん」  傍らの存在を確かめるために起き上がろうとしたとき、急に肩を強く押されて、そのまま強引に唇を塞がれた。  驚いて思わず声を出そうとしたのを引き金に、わずかに開いた口の隙間から、相手の熱い舌が無理やり入り込んでくる。  ざらりとした感触の後に、同じアルコールの味を確かめるかのように絡め取られた。 「はっ……なか、ざきっ!」 「宮下、……好きだよ」  無理やりよじりながらキスを逃れて、やっとの思いで呼吸をした。  少し荒い息を整える暇はなく、自らの液で汚した口元をさらに相手の舌が這う。  焦点を合わせた相手を見れば、少し笑った顔でまた囁いている。  その言葉に心臓が大きく跳ねて、胸の奥を締め付けた。 「ま、って……っなかざ……っん」  開いた口はまた塞がれて、強引なところも変わらない。 「まてない」 「ちょっと、ほんと、……まてって……っ」  首筋に顔を埋めてきた中崎は、そのまま喉元を這って唇で鎖骨をなぞった。  空いている手でシャツの前ボタンを外していくのがわかり、感じる熱とは対照的に寒気が襲う。 「だめ、だって!」  精一杯の力を込めて、上に覆い被さった相手を押し抜ける。  くらくらと平衡感覚を失っている体は、高さのある枕へと預けて上体を起こした。  突き飛ばされたまま黙って座り込む中崎は、下を向いて冷静さを取り戻そうとしているようにも見える。  何か言わなければ、そう思ってなんとか姿勢をただす。 「ご、ごめん。……俺、始めてだからさ、その、……心の準備が」  相手を突き放してしまえば、一人になってしまう。  “孤独”という闇がふと思い起こされると、急に頭が冴えて嫌われないための言い訳を考え始めた。  それを覚られないように、平静を装って相手に近づき顔を覗き込む。  微動だにしない中崎の頬に腕を伸ばして、指先が触れる寸前で掴まれる。 「こっちこそ、ごめん。調子にのったな……、お前警戒心なさすぎ」  優しく囚われた手に、相手の微かな震えが伝わる。  顔をあげて笑って見せているが、それは無理やりに作った表情のようだった。

ともだちにシェアしよう!