5 / 9
5
目が覚めて、自分が中崎の部屋で寝ていることを思いだした。
一人で占領しているベッドには、本来の持ち主の姿は見当たらない。
シワの寄ったシャツはだらしなく、ベルトもつけたまま朝まで寝ていたようだった。
のそのそと起き出した俺は、朝のニュース音が漏れるリビングへと向かう。
バリアフリーで広めに造られたオープンキッチンの中には、すでに髪型も服装も整った中崎が料理をしているようだった。
いつもと違うのは、黒淵のメガネをかけていたことだ。
前髪も下ろしたその姿は普段よりも幼く見えて、ふと記憶の中に似た人物がちらついた。
部屋に漂う甘いパンの焼ける匂いと、コーヒーの香りが俺の鼻をくすぐる。
「起きたか、ちょうど朝飯用意できたから。食べるだろ?」
「……うん」
ダイニングテーブルには向い合わせで二脚の椅子があり、俺は窓側の席に促されると湯気の立つマグを手渡された。
「ありがとう」
受け取って熱さを気にしながら啜ると、眠気も覚める濃い味はどこか自分をほっとさせる。
「眠れたか?二日酔いとか、心配いらないよな」
向かい合って座った相手は普段と変わらぬ笑顔を作って、柔らかそうなトーストを頬張っていた。
「熟睡だよ。中崎こそ、ベッド使って悪かったな、どこで寝たんだ?」
「おれはソファで寝たよ。気にするなって、案外寝心地はいいんだよね」
リビングの方を指さしてにこりと笑う中崎に、一瞬ではあるがどきりとする。
「中崎って、普段メガネなんだ?」
ときたま黒いフレームを指の背でくいと上げる相手の仕草が気になって、俺は思わず見とれる。
マグに口をつけたまま、目線だけをこちらに向ける中崎の姿には少しばかり色気があった。
「あ、ああ。前はずっとメガネだったよ。その話、昨日もしただろ。あ、覚えてないんだっけ」
昨晩の飲み始めを思い出して、俺は少々ギクリとする。
何杯目かで記憶はあやふやになり、隣で穏やかに語る中崎の姿だけは覚えている。
けれどその内容までは頭に入ってこず、右から左へと通りすぎていったようだった。
「わるい。酔ってほとんど覚えてない……」
「いいけどさ。……その、おれがしたことも、覚えてない?」
気まずそうに切り出した中崎を正面から見つめると、慎重にこちらを窺っているのがわかる。
期待される答えは持ち合わせておらず、嘘はつかないで素直に答えた。
「……そっちは、覚えてる」
「都合のいいようにはいかないな、ごめん」
無理やり抱かれそうになったことは、もとはといえば俺自身が招いたことだ。
中崎自身に落ち度はないのに、うちに秘めたことを打ち明けることはできなかった。
「いいって、こっちこそ、……ごめん」
何に対して謝罪しているのか、自分でもわからなくなる。
中崎を利用していることへの“ごめん”なのか、はたまた抱かせてやれなくてすまないという気持ちの“ごめん”なのかあやふやだった。
男の経験はないから、本気で狼狽えた自分に嘘はない。
決めた覚悟はどこへいったのか、いざそういう場面になったときの自分はひどく臆病だった。
テレビの音だけが響き渡る部屋の中で、テーブルの上に置いておいたスマホの着信がけたたましく鳴る。
無言だった二人は、同時に視線を光る画面へと向ける。
俺は表示されたメッセージアプリの名前を見て、小さくため息をついた。
「……誰?」
「……課長。今日人事の方と飲み会をするから来いって……。まじか、嫌だな」
あからさまに顔を歪めた俺を心配するかのように窺う中崎は、サーバーに残っていたコーヒーを注いでくれる。
それをありがたく頂くが、まだ暑さの残る中身に口元を火傷しそうになった。
「なんで人事部と飲み会なんだ、何かしたとか?」
「何もしてない。課長同士が同期なんだよ。だから、仲いいんだろ」
定時に上がれなかったことはあっても、何かミスをしたり過ちをおかした覚えはない。
人事部との接点はほぼなかったが、課長同士が特段仲のいいことは見ていてわかった。
たまにこちらの部署へ人事課長が遊びに来ているのは知っていたし、同期なのだと聞いたのも偶然だった。
「他にもくるのか?」
「多分……」
まさか課長二人の席に、自分だけが呼ばれるなんてあるはずはない。
もしそんなことがあったなら、本当に俺は何かしでかしたとしか思えなかった。
「何時からだよ」
「夕方、取引先の店らしいね。ほんと気が滅入る……」
休日にも関わらず、親しくもない職場の上司と飲みだなんて本当にツイていない。
時間が過ぎるにつれ、だんだんと気が塞ぎ混む。
しわしわのスーツで出向くわけにもいかないため、俺は一旦自宅へ帰った。
下ろし立ての、目立たないグレーのスーツに着替える。重い足を引っ張って、取引先の店へと陰鬱な気持ちのまま向かうことになった。
ともだちにシェアしよう!