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ーーー父さん! 父さん……! 悪夢は眠りの時間でなくとも、いつでも瞼の裏で息を潜めている。 目の前で、黒々とした煙を吹き出しながら燃えるアパート。 鼓膜を破るような爆発音が鳴り、窓ガラスが次々と割れる。 飛んできた破片の先が、自分の頬を掠め、まっすぐ入った亀裂から血が伝っていくのを感じた。 「…父さん………」 慎也は消防隊員の腕の間から、こぼれ落ちんばかりに目を見開いて、燃え盛るその光景を見つめた。 うそだ。 うそだ、うそだ! 何度も夢だと思おうとした。だが、崩れ落ちる柱の影、眼球まで刺激される炎の熱、逃げ惑う人々の混乱の声。 全てが「現実」だった。 「父さんが…、父さんは足を怪我してて歩けないんだ! 離せ!僕が…僕が行かないと!」 「行っちゃだめだ! 隊員に任せるんだ、君はまだ子供なんだぞ!」 「離せ! 外からいくら水をかけたって意味があるもんか、今すぐ助けに行かなきゃ間に合わない!」 「全ての階にもう火が回ってるんだ、入りたいのは山々だが今は危険すぎるんだよ!」 「そんなの知らない! 離せよ!父さんが…っ父さんが……!!」 ーーー慎也、この仕事が終わったら、日本に帰ろうか。 ほんの数時間前だった。そんな話を父さんとしたのは。 ジャーナリストだった父は、海外出張で5年前に日本からアメリカ・ニューヨーク市へ渡ることになった。 初めは父ひとりの単身赴任の予定だった。それが、父の出張が決まった直後、母が交通事故で突如かえらぬ人となってしまった。 日本には慎也を預けられるあては無く、父は海外赴任に慎也を共に連れて行くことを決め、当時12歳だった慎也は父の手に引かれるまま飛行機に乗った。 慎也にとっては、母親を失った悲しみも癒えぬうちに、母国からも離れなくてはいけないことに抵抗が無かったわけではない。 しかし自分一人国に残されるよりはマシだった。 父は朝から晩までスクープを追いかけ、アパートへ帰ってくるのは週に2,3度ほどしかなかった。 言語も文化も違い、ジュニアハイスクールにはなかなか馴染めず、父も家にいなくてひとりぼっち。アメリカに来てから2年間は、日本に帰りたくて仕方がなかった。 そんな鬱々とした日々の最中、父が事故で足を負傷し、今までのように歩き回ってスクープを追うことが出来なくなった。 仕事が生きがいだった父にとって、自分の足で現場へ行けないことは大きな精神的ショックを与えた。 一時は廃人のようになり、誰かそばにいてやらなくては気を狂わせてしまうほどに心を病んだ。 慎也はジュニアハイスクールを退学した。父の面倒を見なくてはいけないことと、学費を払うことが難しくなったことが理由だった。 2年半も通いながら、全くクラスにも馴染めない有様だったので、辞められて慎也はむしろ嬉しかった。 それに父は外へは出れないので家でライターとして仕事をする。一緒にいられる時間が一気に増えるのだ。 足の怪我のことは慎也も苦しかったが、反面父と一緒に過ごせる時間ができて嬉しい気持ちの方が大きかった。 事故以来、父はライターとしての仕事を夢中になってこなした。何かが乗り移ったようにペンを走らせる姿は、はたから見ていても声をかけるのを躊躇うほど気迫に満ちていた。 何をそんなに必死で書いているのか、慎也は記事の内容を何度か聞いてみたが、はぐらかされるだけで教えてはくれなかった。 仕事中は人が変わったようになるが、それでも、慎也に接する時は父親としての優しい顔に戻った。 夜中にコーヒーを持っていくと、「ありがとう」と目尻にシワをつくって微笑み、慎也の髪を優しく撫でてくれた。 アメリカへ来て3年目以降は、父とのそんな日々を過ごし、慎也にとって楽しい生活に変わった。 車椅子に父を乗せて一緒に街を散策したり、夜中に一緒に本を読んでくれたり、15歳にもなりながら恥ずかしいが、たまに不安で眠れなくなった夜は、慎也が寝付くまでそばにいてくれた。 「慎也、この仕事が終わったら、日本に帰ろうか」 そして今日、いつものように慎也が夕刊の新聞配達のアルバイトに出かけようとしたとき、父は独り言のようにそう言った。 「えっ、日本に?」 「嫌か?」 「ううん…別に。でもどうして急に? こっちで書きたい記事がまだあるって、この前も言ってたじゃん」 「ああ、だから今やっている仕事が終わったら、だよ。それで私のやりたいことは終わりだ」 「タイムズ社からの仕事ももうないの?」 慎也の質問に、父は窓の外に顔を向けてしばらく黙った。 暗くなり始めの空を見て、父が何を考えているのか、慎也はわからなかった。 「…もともと、今書いているものは会社から指示された案件じゃないからね。個人的に気になって調べていた、まあ趣味みたいなものだよ。もちろん、タイムズの方でもコーナーはもらっていたし、惜しまれはしたんだけど、私自身会社で書き続ける意志がそこまでないからね。来月の原稿が上がったら辞めることになっている」 「そうなんだ……」 日本に帰る。 慎也はふくざつな気持ちになった。 前はあれほど日本に帰りたかったのに、今はどっちともつかない曖昧な気持ちだった。 母国への懐かしさはあるし、全く帰りたくないわけでは決してない。 しかしここでの父との暮らしも楽しかった。やっと海外での生活に慣れて来て、アパートのお隣さんとも気軽に会話できるようにもなって、不自由も感じなくなっていたところだ。 こちらの生活に慣れた後、日本に戻って父とこちらで過ごしたような時間をまた過ごせるだろうか? 「…父さんは、どうしても帰りたいの?」 窓の外を見たまま表情がわからない父へ、慎也は小さな声で聞いた。 しばらくなにも返事がなかった。 時計の針の古めかしい音だけが、狭い部屋にさみしく響いた。 「……そうだね。今度はゆっくり、母さんの墓の世話をしてやりたいからな。こっちへくる前はあまり時間がなくて、ろくに見送ってもやれなかった」 「…………うん」 父の静かな一言で、慎也は心の中のアメリカに残りたいというわずかな気持ちを捨てた。 「慎也、こっちにおいで」 「うん」 慎也は帽子を脱いでテーブルに置き、椅子に座る父の元へ寄った。 足元にしゃがんだ慎也を見下ろし、父はいつにも増して愛おしげに息子の真っ黒な黒髪を撫でた。 「ここへ来たころは12歳だったか。すっかり大きくなったね」 「な、なんだよ、今更。僕だってずっと子供じゃないんだ。背だって一年で5センチも伸びたんだよ」 「へえ、私にはずっと子供のままに見えていたよ」 「……それって僕がチビだって言いたいの?」 むっとして慎也は口を尖らせる。 そりゃあ、ここらの連中と背丈を比べられたら、日本人の自分など小学生のように見えるだろう。ましてや童顔の自分は特に。 「ははは、ごめんごめん。そうじゃない。全く…子供の成長は恐ろしく早いというのは、本当だね」 そう言うと、父は腰をかがめて慎也の体をそっと抱きしめた。 大切な宝物を扱うような、繊細な動作だった。 父からこんな抱擁を受けたことは初めてで、慎也は目を見開いたまま固まった。 「…慎也、日本に帰ったら、母さんのお墓の世話は、できれば毎日してあげてくれ」 「え? う、うん…。でも、父さんも一緒に行くでしょ?」 慎也が言うと、耳元で吐息をつくように笑うのが聞こえた。 「…ああ、もちろん行くよ。5年も一人にしたんだから、きっと拗ねてるだろうけどね」 「はは、母さん、寂しがり屋だもんなあ」 慎也は亡き母の拗ねた顔を思い浮かべて、素直に笑った。 おっとりとした低い声音、柔らかな温度、肌の感触。父さんの何もかもを感じたのは、それが最後だった。 ーーーー炎に包まれるアパートの中で、父の座っていた椅子が音を立てて倒れる音を聞いた気がして、慎也は膝から崩れ落ちた。 「ああ……………」 その日、慎也は世界でひとりぼっちになった。

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