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第8話
彼はショーンに軽く頭を下げてから、歩弓の座る奥の席へと近寄り、局長のネームプレートをしばらく眺めると、意を決したように声をかけた。
「……久しぶり、アユミ。えーと、十年ぶりかな」
ゆっくりと近づいてきた統久に、優しい目で見下された歩弓は僅かに表情を強ばらせた。
全身を支配して沸騰するかのような欲情を覚えて、歩弓は唇を噛み締めて、統久を見返すが昔と同じように優しさをたたえた表情には変化がない。
運命の番を身近に感じて、歩弓はしっかり反応しているというのに、彼はまるで何も感じていないような表情をして立っていた。
「お久しぶりです。統久兄様。貴方がオメガの更生施設に行かれてからお会いしていなかったので、てっきり施設でいいご縁にでも恵まれて、ご結婚でもなさっているのかと思ってました」
大きな声で嫌味にすら聞こえる棘のある口調で、歩弓は統久がオメガであることを周囲に聞こえるように伝えるのに、桑嶋は目を見開いた。
しかも、更生施設帰りのオメガというのは、大声で性犯罪者だと名指ししているようなものだ。
桑嶋自身も差別的な発言はしていたのだが、オメガであることを皆にバラすような発言は、完全なるセクシャルハラスメントである。
先ほどは優秀な人だと擁護するように桑嶋を諭したというのに、まったく逆のことをしているのである。
どちらかといえばクールなタイプの歩弓にしては珍しい物言いに桑嶋は戸惑って、言われた当の本人の顔を見たが、まったく気にしている様子もなく平然としていた。
「ずっと実家に帰ってなかったからって、そんな言い方はねえだろう。それにさ、もし結婚するなら弟のお前を式に呼ばないわけないだろ」
そんなに拗ねるなよと統久は優しげに見える笑みを浮かべ、弟の棘のある言葉を大人の対応でさらりとかわす。
「それに……あの更生施設は内情をオヤジにリークしたんで、1年経たずに追い出されたよ。オヤジに頼んで辺境警備隊に志願したわけ。まあ、見合いもしてたりしたんだが、俺も貴重なオメガだってのに、中々貰い手がいなくてなあ」
統久にも、オメガであるという事を周りに隠す気持ちはまったくないらしい。
嫌味と悪意に満ちた言葉に臆すことなく表情すら変えない兄の様子に、歩弓は眉をきゅっと寄せて青白い顔を神経質そうに歪めた。
「それは大変でしたね。資料を見ると辺境警備隊では大活躍だったようですね。統領に抜擢されたのを断って、本部に戻ってきたのはどういうことです?」
歩弓の嫌味を孕んだ物言いに、統久はため息をもらして斜め上を見上げて、
「そんなもん、統領なんかになったら婚期逃すじゃねえか。海運捜査局は、エリートのアルファばかりだろ。オヤジがさ、種馬探してこいってね。神聖な職場で不純な動機とかって乗り気じゃなかったんだけどね。でも、たった今気が変わったかな」
彼は、ちらっと悪戯っぽく歩弓を見つめて、その横に立っていた桑嶋の腕をグイッと掴んだ。
桑嶋の鼻先にもふわりと甘い香りが漂う。
これは、なんだ。まったく普通の顔しているけど、こいつ発情してるってのか。
「俺の本能が、オマエが俺の運命のなんちゃらだと言っている。とりあえず今日からオマエは俺のバディだ。アユミ、手続きは頼むよ」
あまりに勝手な物言いに、口をあんぐりあけて目を白黒させる桑嶋をちらっと見てから、歩弓は実の兄を眼鏡の奥で強く睨み返して、机をバンッと叩いた。
「それが、貴方の答えですか」
静かにだが恨みを込めたように呟いた歩弓の言葉に、統久は優しい微笑みをただ返した。
「何を言っているのかわからないよ、アユミ」
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