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第10話
着替えを終えた桑嶋がカバンへ制服を押し込むと、ロッカールームの扉が開いて件の男が入ってきたので、二人は顔を見合わせて口を閉じた。
「おやおや、お疲れさん。ああ、オマエは俺の未来のだんな様じゃねえか、これからお帰りかな?」
からかうような口調で言いながら、真新しいロッカーを開いて、詰襟の制服の上着を脱ぎ始める。
同性ではあっても、それまでオメガが着替えたりするのを間近で見たことがない二人は顔を見合わせた。
「ちょっとだんなとか、やめてください。そんなことオレは認めてないですし。勝手にバディに任命とか、オレの都合もあります」
勝手に未来のだんな様と言われて、桑嶋はかなり不機嫌になりながら噛み付くように言い返すと、統久は制服をハンガーにかけながら、無言でシャツを脱ぎ始める。
少し熟成したようなあまったるいにおいに、桑嶋は眉を寄せた。
こんな風にアルファへ餌をちらつかせてくるのは、よっぽど飢えているのか、誘っているのか、どちらにしろ好ましくはなかった。嫌悪感を覚える相手が、運命の番とは考えられない。
「セルジューク・桑嶋、だっけ。付き合っている相手でもいるのか。だとしたら、悪かったな」
「いないですけど。別にオレまだ若いですし、アルファ性なんで、この先にチャンスも沢山あります」
思わず棘のある言葉で返すと、そうだよねと統久は面白がるように笑い、脱いだシャツをリュックにしまう。
「俺もパパから、気に入った奴をバディにしていいって許可もらってるからさ」
パパとか冗談交じりに言うが、総監からバディを決める人事権を与えられているというならば、誰も逆らうことはできない。桑嶋はきゅっと唇をかみ締めた。
統久のむき出しの体は半端なく鍛えられていて、浅黒く光っている。ここまで鍛え上げるにはベータやアルファでもかなりの努力が必要だ。
統久の首筋には、普通のオメガであれば嵌めている様な防護用のコルセットはない。
「……アンタ、コルセットしてないんですか。オメガなのに」
事故で望んでもない番になることを恐れて、未婚のオメガはみな首筋に巻いて守っているのに、それすらしていないなんて、オメガというのも実は嘘なのではないかと桑嶋は疑い始めていた。
においについては、どぎつい香水みたいなものをつければなんとなくソレ風にはなる。だが、そうまでしてオメガを偽る理由はないだろうし、実の弟が彼をオメガだと公言しているのである。間違えはないだろう。
「あ、ああ、コルセットねえ。あれさあ息苦しいし、別にいらないなあ。むしろ、こんだけトウがたってんだし、事故でもどっかのアルファが噛んでくれれば儲けじゃない」
からっと笑いながら、まるで冗談みたいな言葉で返して、選り好みはできないかなと呟いてる様子には、何の裏もないようだった。
「発情期にコルセットしないのは犯罪ですよ。事故でもいいとか、何だよ。それに好きな相手でなくても、誰にでも身を任せるってのかよ。だったら……オレが運命の番とか言ったのは何なんだよ」
全く本意が見えない。
彼が運命の番が桑嶋だと宣言した時、なぜだか何かに挑んでいるように思えたのは、桑嶋の気のせいではないとは思う。
当て馬?
それとも違う何か。
桑嶋の中にある差別意識は、アルファの優位性故にオメガを見下すといったものでは決してなかった。
桑嶋の母親はオメガでシンデレラドリームのように、財閥のアルファに嫁いだ。しかし、結婚相手に運命の番が現れたということで、半ば捨てられるように番を解消されて放り出されたのだ。
行く当てもなく借金を抱えた母親は、人身売買組織に捕まり、気が触れて死んだのである。施設に預けられた桑嶋は、ベータの養父母に育てられ、アルファを恨んで育ったのである。
母親のようにまるで道具のようにされるオメガに対しては、同情や助けてあげたい気持ちと仇をとりたい一心で、人身売買組織を壊滅させたいと、警察に志願したのである。
そして、自分が恨むアルファの血で成り上がってやると心に決めていた。
激昂した桑嶋の様子を意外そうな表情でしげしげと眺めると、統久は視線を逸らしてロッカーに入っていた安物のシャツを引っかぶって、軽く目を伏せて頭を下げる。
「そうね、もう犯罪者にはなりたくないし、発情期前にはさすがに俺もコルセットはするよ。俺は、好きでもない相手でも身を任せたりもする。そんなに、心配して怒ってくれて嬉しいなぁ。ありがとう」
ゆっくりと顔をあげて本当に嬉しそうに笑みを浮かべながら言葉を返され、桑嶋はど一瞬どきりと胸が鳴るのに目を見開いた。
「別に、アンタを心配なんかしてねえよ。アンタがいいかげんなこと言ってるから腹たっただけだ」
「でもさ、運命のなんちゃらのオマエが噛んでくれるなら、喜んで噛まれるどね。ああ、そうだな……オマエになら好きだと言われてから噛んでほしいかもな」
そしてその本心はまったく見えない。
苛立った桑嶋は、我慢できないとばかりにカバンを掴んでいた手を離して、薄手の統久のシャツを掴みあげた。
ふわっと鼻を掠めるにおいに桑嶋は一瞬けどらられたが、それよりも怒りの方が勝っていた。
「馬鹿言ってないでください。オレはあんたのような何の苦労もしてない、いい加減なお坊ちゃんは嫌いなんだ。しかも誰でもいいようなアバズレなアンタを好きになることなんか、決してない」
鼻が触れるかどうかの近さで、桑嶋が宣言すると、人に嫌われたことなどなさそうな綺麗な顔が、僅かに曇る。
統久は軽く目を伏せて、それならよかったと喉の奥で小さく呟くのが耳に入り、桑嶋は目を見開いた。
「そうだろうね、きっと俺は君が嫌いなタイプだろ。何の努力もしていないけど、俺はみんなが欲しがってるもの全部を持っているからね。……さてと、君達も雨が降らないうちに帰ったほうがいい。酸性雨を浴びたらハゲるかもしれないしね」
統久は軽く押さえるように桑嶋に掴まれた手を握って離させる。そしてちらっと自信に満ちた笑みを返すと、薄緑の使い込まれたジャケットを羽織って、ロッカールームを後にした。
「なんなんだ、アイツ。最悪で傲慢なアバズレじゃねえか」
「まあ、アレは相当ひねくれてるね。あんだけ全部揃った上でオメガなんじゃ、ひねくれるのもわかるけどさ」
ゴルデスの言葉に、桑嶋は統久の出て行った扉をじっと眺めて、軽く舌打ちをした。
誰でもいい……とかなら、運命の番とかわざわざ持ち出して、訳のわかんねえこと言ってんじゃねえよ。
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