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昨年度末(3)
すっかり食べることも喋ることもしなくなり動かなくなってしまった口は閉ざされたまま。所在なさげに腕時計を見た椚田は、突如はっとしたように我に返った。
「そろそろ時間かな」
そのいかにも取り繕った感じが、椚田らしくなく、智はなんとなく嫌な気分になる。さらには、この腕時計。それまで椚田は腕時計をつけていなかったのに、クリスマス翌日からという意味深なタイミングでお目見えしたから嫌でも覚えている。
少し意地悪したくなった。
「その腕時計、ちょっと前までしてなかったですよね」
「あ、うーん、そうかな」
「彼女からのクリスマスプレゼントとか」
ついにズバリと言ってしまった。椚田もさすがに大きく目を見開いている。
「なんで時期まで把握してんの……」
しまった、さすがに引かれてしまったかもしれない。
「椚田さんおしゃれだから、身につけてるもの密かにチェックしてるんです」
「そうなん?!嬉しいわあ、今度一緒に買いもん行く?」
咄嗟の言い訳──嘘ではない──で難を逃れた。それどころか、それどころか。
二人きりでショッピング?
普通なら舞い上がるところだが、智は浮かれた心持ちにはなれなかった。女の子とは面倒、智とならOK。それはつまり、面倒なことになる可能性がない相手だと思われているから。当たり前といえば当たり前だが、完全に対象外だと言われているようなものだ。
聞き出したい、彼女の存在の有無を。
訊いて、どうする?
いなかったら、どうするつもり?
彼女がいるいない以前に、男同士なのに。
ファッション論を熱弁する椚田の話は申し訳なくも耳に入ってこず、ただただブラックコーヒーの苦味ばかりが智の体内に染み渡った。
制限時間の九十分を過ぎて、二人は店を出た。
「すみません、ご馳走になってしまって」
「俺から誘ってんから当たり前やん。ありがとうな、至福のひとときやったわぁ」
まだ余韻に浸っているのか、満足そうに舌なめずりしながら腹をさする椚田はまるで子どもみたいだ。
「椚田さんはこのまま大阪へ?」
「ん、うん」
「じゃあ次ののぞみの指定席取ってきます」
「ごめん俺こだまで帰るねん、もう席も取ってて」
「そう、ですか」
並んで新幹線に乗って帰れるかと思っていた智は少しがっかりした。そしてなぜわざわざこだまで帰るのか不思議に思ったが、そこまで問い詰めるのも良くないか、と言葉を飲んだ。
「じゃあ、また明日会社で」
「あっ俺明日休み取ってるねん。悪いけど頼むわな」
土日にくっつけての有給取得が増えたという、加藤の言葉を思い出す。
今日は、木曜日。
たぶん、これから彼女と会うんだろう。週末を共に過ごすんだろう。彼女は、こだましか停車しないどこかに住んでいるんだろうか。
椚田と別れる頃には、智の心にはすっかり暗雲がたちこめていた。
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