15 / 28

今年度、始まる(6)

「あっ」  思わず強引に手を振りほどいてしまい、札がひらひらと宙を舞った。 「あーあーもー」  椚田が慌てて札を追いかけ、地面に落ちた札を拾うためにしゃがみこむ。その背中を見ると、スーツが汚れていた。さっきの店で、壁を擦りながら狭い通路を出入りした時についたものだろうか、濃紺の生地に白いホコリのような汚れが数箇所ついている。 「背中、汚れてます」 「えっどこどこ?」 「このあたり……」  あくまで位置を教えるため、そのためだけに、智は椚田の背中をつんと指でつついた。だがその場所は自分で触れるのは困難な場所。 「はたいてくれへんのかいな」 「え?」 「自分じゃ届かんやん、はたいてとれそうならはたいてよ」  躊躇する智。ついに、自分から椚田に触れる機会が訪れてしまった。それも、こんな人通りの少ない夜道で。 「……わかりました」  だが断るのもおかしな話なので、覚悟を決めることにした。肩甲骨のあたりの、白くなった部分をはたく。普通にはたくより、掌の接している面積が広いかもしれないが、そこは役得ということにしておいてもらう。本来ならパンパンと勢いよくはたくところだろうが、努めて丁寧に優しく、撫でるようにはたいた。本当は、撫でるだけじゃなくて、背骨の一つ一つを指でなぞりたい。もっと意味深な動きで指を這わせたい。  思っていたより案外強靭な、初めて知る背中の感触や温もりに、酔いしれていられる時間はそう長くはない。そして、もう二度と触れることは無いだろう。それならばせめて、指先の、掌の、全てで憶えておきたい。 「取れました」 「ありがとう」  また、歩き出す。他愛のない話をしながら。仕事の話題は殆ど出ず、近所の犬が可愛いだの、今朝電車で隣りあった人が恐ろしくニンニク臭かっただの、本当にどうでもいい話ばかりで、それが智には嬉しかった。仕事以外でも繋がりを持てたような気がするからだ。 「ところで椚田さん、今年の天神祭は行きます?」  何気なく智が訊くと、なぜか椚田は少し噎せた。  縁の深い部署の有志で、天神祭に行くのも習わしとなっている。下っ端社員は花火の場所取り要員に駆り出されたりもする。 「あー、俺たぶんその辺で休み取るつもりやから……」  また歯切れの悪い口調になった。普段歯切れが良すぎるから、わかりやすすぎる。  彼女か。彼女と旅行でも行くのか。それまで上機嫌だった智の心が、いっぺんに薄暗い雲に覆われる。  訊かなければよかった。せっかく楽しい雰囲気だったのに。  椚田と別れたあとの夜道は、それまでよりもずっとずっとどす黒くて、まるで自分の心のようだと智は自嘲した。

ともだちにシェアしよう!