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第4話

 本当は頼むメニューは決まっていたけど、口からはなぜかその通りの言葉が出て来なかった。 「いえ、まだです、すみません」  すると森下くんは、「あれ?」と首を傾げた。 「いつも、ランチメニューのたらこパスタですよね? ミニサラダと、アイスティーのストレートで」  カーッと首の辺りが熱くなるのを感じ取った。  大正解だ。  毎回この人が注文を取りに来る訳じゃ無かったのに、まさか覚えられていただなんて。  もしかして、噂になってたのかな。たらこしか食べない眼鏡の人がしょっちゅうやってくるとか……  いくらたらこパスタが好きだからと言っても、たまには他のものを頼むべきだったと今更後悔しながら「はい、そうです」と小さく言うと、森下くんは「ですよねー」と言いながら注文表にペンで文字を記入していた。  あぁそうだ。この人は左利き。  なにもかもが格好良く見えてしまう。  僕、けっこう重症かもしれない。  思わずぽーっと見つめてしまったが、ハッとしてメニュー表を手に取り、森下くんの方へ差し出した。 「ではそれで、お願いします」 「かしこまりましたー。あの、もしかしてこのモール内で働いてます?」  いきなりそう付け加えられたものだから、とっさに反応出来なかった。  メニュー表を握りしめたまま固まってしまったので、受け取ろうとしていた森下くんは不思議そうな顔をしていた。 「よく来てくれてますよね。いつもお洒落にしてるし。どこかのショップで働いてる方ですか?」  頭のてっぺんから靴の先まで視線を滑らされて、ますます胸がドキドキしてしまう。まるで裸を見られているみたいだ。  彼が僕の事をお洒落だと言ってくれた事に、子供みたいに内心、はしゃいでしまう。  あぁ、なんて単純なんだろうか僕。 「あ、はい。二階にある北欧風のファッションインテリアのお店で働いてます」 「え、エレベーター乗ってすぐの所? もしかしてsateenkaariってお店?」 「はい、そうです。知っていますか?」 「知ってますよ。たしかそのお店で、あそこにぶら下がってるの買ってきたって店長が言ってました」  向こうの壁を指差される。  天井にフックがついていて、そこから編んだ麻紐で作られたプランツハンガーが吊り下げられていた。中には観葉植物が入っていて、緑色の小さな玉が連なっているからグリーンネックレスだとわかった。  いつも目にしてはいたけど、まさかあれが自分の店の物だとは思わなかった。  ここの店長の顔は、先月の店長会で紹介されたから知っているけど、話した事は無い。  僕はようやく手の力を抜いて、森下くんにメニュー表を手渡す事に成功した。  森下くんはそれを大事に抱えながら、ペコっとお辞儀をする。 「今日からは、レジでちゃんと言ってくださいね。従業員割りきくんですから」  それだけ言い残し、森下くんは戻っていった。  僕はしばらくぼーっとしてしまった。  会話……会話してしまった。  しかも僕の事、知っていた。  どんな風に認識しているのかは知らないけれど、彼の瞳に僕はちゃんと映っていた。  それはとてつもなく嬉しい事だった。  従業員割り引きが使えるのはもちろん知っている。  けれど、ランチメニューの値段でわざわざ使うのもどうかと思い、言い出せなかったのだ。  彼がレジで担当してくれるのならば、言ってみようかな……  そして自然な流れで下の名前とか聞いてみたり……  けれど虚しくも、レジを担当してくれたのは森下くんでは無かった。  僕は迷いに迷った挙句、結局従業員だとは名乗り出ずに店を後にしたのだった。

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