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第66話 怒らせる

 彼と乃蒼さんが出かけたであろうその日、僕は店にいた。  二人で店に来られたら場合の言い訳はちゃんと考えておいたけど、二人が来ることはなかったし、森下くんから連絡が来ることもなかった。  それが余計に怖かった。  予想では、待ち合わせ場所に来た乃蒼さんから『店長がシフトを見間違えてしまったようで、代わりにここに来るように言われて』と聞かされた時点で僕に電話で文句を言うのかと思っていたのに。  連絡することのほどでもないと思ったのか。  それとも彼は、僕の策略ではあるものの、しっかりと乃蒼さんとのデートを楽しめたのだろうか。  それだったらそれでいいのだけど。  だが次の日。  本社からもらったレイアウト図を参考にしながら店をぐるっと見渡していた最中だった。 「店長」  手元の紙からふと顔を上げると、目の前に森下くんがいたのだ。  森下くんは無表情だが口をむっと尖らせていたので、僕は背中に嫌な汗をかいた。 「どうしたんですか」 「どうしたんですか、じゃねぇよ。一体なんなの?」  いつもよりも強めの口調で責められて、僕はきっと怒らせたんだと悟った。  オープンしてまだ間もない時間なので、店内には人はいない。  スタッフの一人は他店舗へ昨日の売り上げと売れ筋の商品を聞きに出かけているし、もう一人は僕らがいる場所からは死角になっている所でストック整理をしている。  乃蒼さんは、今日休みだ。 「いきなり来て、そんなことを言われも困ります……今は仕事中だし」 「そんなに時間取らせないから答えてよ。どうして俺と映画観たいだなんて嘘吐いたの?」  逃げるようにバックヤードの方へ向かうと、森下くんもその後をピッタリとくっついてきた。 「乃蒼さんに聞きませんでしたか? 僕が行けなかった理由」 「聞いたよ。それって本当の話なの?」 「本当ですよ」  きっと納得していないだろうが、森下くんはそれ以上は詮索しなかった。 「それだったら、事前に言えば良かったじゃん。どうして乃蒼ちゃんに行かせようだなんて思ったの?」  数日前まで名前も知らなかった相手のことをちゃん付けで呼んでいるのを聞いて、そんなに怒っておいて結局は仲良くなったんじゃないかと、こちらもムッとしてしまう。  バックヤードに入ると、彼もそのまま一緒に入ってきた。 「ダメですよ、ここは立ち入り禁止です」 「何がしたかったの?」 「乃蒼さんと、楽しくなかったんですか」 「めちゃくちゃ楽しかったよ」  その言葉と顔が全然マッチしていない。  いつもの爽やかさは何処へやら、今はどす黒いオーラで身を包みながら森下くんは淡々と言った。 「大人だからね。それなりに話を合わせて、それなりに楽しんだよ。でも俺、乃蒼ちゃんと別れた後で一気に虚しくなった。俺と行く気が無かったんだったら、あんな風に店長から誘って欲しくなかった」  行く気がないなんて、そんなこと思っていない。  けれどそういうことにしておいた方が、彼も深くつっこんで来ないんじゃないか。  僕は嘯いて、「すいません」と謝った。  それに続く言葉が見つからなくて、森下くんの言葉を待った。  けれど彼も僕をじっと見たまま、何も言わない。  その代わりに僕の頬に手を添えてきたので、まさかこんなところで、と体を引いて硬くした。 「……ばーか」  ようやく彼の口から出てきたのはそれだった。  それは幼い子供が大人に怒られた後にこっそりと呟くみたいな言い方で。  けれど本気さが伝わってきた。お前は本当に馬鹿でどうしようもない、と心底呆れられたような気分だった。  添えられた手はすんなりと離れていった。 「店長に誘われた時、どんだけ嬉しかったのか分かってないんでしょ」 「……」  彼の気持ちを踏み躙ってしまい、心の底から申し訳なくなった。  けれど仕方のないことだ。僕は森下くんとこれ以上、一緒にはいられない。  森下くんの口元が、わずかに笑みを形作った。 「俺、何だかんだで店長も楽しんでくれてるって思ってたんけど、俺にされてたこと、本当に嫌だったんだね。ごめんね。もう、店長が嫌がることはしないから」  森下くんは踵を返し、ドアを押して出て行った。  しばらく動けずにいたら、ストックを取りにきたスタッフに怪訝な顔をされた。 「大丈夫ですか? 何かありました?」 「ううん、なんでもないよ」  顔を見られないように、バックヤードを出た。  仕事。仕事しよう。  そして彼の店へは、もう行かないようにしよう。

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