22 / 89
5
『―湊。』
―え…
声がした方を振り向けば、そこにはさっきまでいたはずの海辺ではなく、真っ白な空間に変わっていた。
「あれ、俺さっきまで海に…」
『湊』
「え…君は…」
名前を呼ばれた方を振り向けば、そこに立っていたのは先程海辺にいた…恐らく龍司と思われる少年だった。
怪我をして体中至る所が真っ赤に染まっていたはずの少年は、怪我もなく綺麗な身なりをしていて、良い所のお坊ちゃんの様にも見える。
『泣くな。湊…』
真っ直ぐに湊の方を見つめながら言った言葉は、龍司の言葉だと直感的に思った。
俺だけに見せる優しい表情、慈しむように問いかける声色。
「え…。なんで、俺の名前―…」
少年が発した言葉に思わず目を見開く。
何故、自分の名前を知っているのか。
君は一体誰なのか。
いや、誰なのかなんて聞かなくても、もう確信が持てている。
言葉に詰まる俺に少年は優しく微笑んだ。
『湊…消したはずの記憶が戻ろうとしている。』
切なげに目を伏せる少年が絞り出すように言った。
記憶…?
”―――思い出さなくていい事もあるー…。”
以前龍司に言われた言葉が脳裏に浮かんだ。
「き、おく…?」
龍司もこの小さい龍司も、俺が忘れている俺の記憶を知っている。
それがどんな記憶なのかは――…少年の表情を見れば、良い記憶ではない事が予想できた。
『あの記憶は、お前にとって一生忘れた方がいい記憶だ。思い出せば、また湊は――を失うだろう。あの時は俺が必死にお前を助けたから、今こうして湊と一緒にいられている。――だが、次またあの時と同じようになれば…俺もどうなるか分からない…』
俺が何を失うというのだろう。
肝心な所でノイズが走った様な音が聞こえ、一番肝心な所を上手く聞き取る事が出来なかった。
淡々と話す少年の表情は辛そうで、見ている湊まで辛くなってきてしまう。
「龍司…。俺…、記憶の事を知りたい!」
思わず声に出してしまった言葉に自分でも驚いた。
でも、どんな記憶か知りたかったのは嘘ではない。
それがたとえ、自分にとって死ぬほど辛い記憶だったとしてもだ。
少年の両肩を掴んで声を張れば、驚いたような少年の瞳が、がみるみる内に大きく見開いてきた。
『…馬鹿な事を、言うな…ッ』
次に返ってきた少年の言葉は震えていて、地を這うように低い声だった。
少年の震えた低い声に、湊の肩がびくっと跳ね上がる。
『お前は今、あの時の記憶が消えているからそんな事が言えるんだ!あの記憶がどれだけお前を苦しめてきたと思う!?お前が自我を取り戻すまでどれだけ時間が―――ッ!!!』
少年は小さく舌打ちをすると、苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべ、湊の両肩を掴んできた。
そして、震える小さな手はそれでも手の力を弱める事なく引き寄せると、湊の唇に自分の唇を押し付けてきた。
それは優しい、触れるだけのキス―…。
瞬間、酷い睡魔が襲ってきた。
待って…。
まだ、聞きたい、事…が…
りゅ、じ…―
待って…ッ
瞼が閉じる前に見た龍司は―…
涙を流しているように見えた。
ともだちにシェアしよう!