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「そ…んな…っ」 呆然と立ち尽くしたまま固まる七瀬をじっと見つめると、空だった七瀬のグラスにノンアルコールのシャンパンを注いだ。 グラスに注ぎ込む音が何とも大きく感じる。 「不快にさせてしまったら申し訳ありません。…ですが、おれは結婚を決めた相手とはしっかりとお付き合いを重ねて、よりお互いの事を知った上で結婚したいと考えています」 「!!」 「結婚というのは、生涯お互いを愛し続け、死ぬまで共に添い遂げる相手を決めるものです。結婚をする事で戸籍の表記だって変わります。一生に一度の相手を決める大事な事を、お互いを知らぬまま決める事はおれには出来ません…」 「龍司様…」 七瀬の視線が痛いくらいに感じる。 「…分かりました。私の感情だけで話を進めてしまい申し訳ありません…。そこまで真剣に考えて下さっている事、とても嬉しいです。」 「…」 「龍司様のお気持ちを尊重します。龍司様に私の事をもっと知って貰う為…好きになって貰う為に、私頑張ります」 笑顔を向けて来た七瀬に、龍司は再び笑顔を張り付けた。 「…さぁ、この話はここまでにして今日は食事を楽しみませんか?…婚約はまだ先の話です。先の事など話しても、未来はどうなるかわかりませんし、あなたの事を少しでも知りたいんです。今は―――…」 「…はい…っ」 座ってください。と優しく告げれば、龍司の言葉に顔を赤く染めた七瀬が静かに座る。 龍司は中に秘めた冷めた感情を気づかれないように、笑顔を張り付けながらシャンパンを一口飲んだ。 ―――これで、七瀬を怒らせる事なく自然な流れで婚約の話を免れる事が出来た。 今はこれでいい。 父上はきっと、婚約の話は成立したと思うだろう。 七瀬の方も、結婚に対して真剣だと言うおれの言葉を信じ、七瀬の中のおれへの好感度も少なからず上がったはずだ。 彼女を怒らせたりもしていなければ、悲しませるような事もしていない。 だから会社に影響が及ぶ事は無いはずだし、父上やは母上から家を追い出される事も無いはず。 婚約なんてまだまだ先の事だ。 おれがこの女を好きになる事は、この先一生訪れる事はない。 そもそも、権力を使いおれに婚約を迫る人間など論外だ。 きっと彼女は、おれに好きになってもらおうといろいろと無駄な努力をするだろう…。 最後まで俺の気持ちが動かない事を知らぬまま――。 あの計画が実行するまでは、絶対に下手な真似はしちゃいけない。 龍司は、七瀬と会話を弾ませながら溢れ出そうな感情を押し殺していた。 全ては計画の為に。 悲鳴を上げ、砕け散りそうになっていた龍司の心に、少しずつ亀裂が入っていく。 自分はいつまで、感情を殺し続ければいいのか。 朋也の自宅地下にいる人間達の解放と地下の爆発。 久堂のすべてを両親から剥奪しての会社設立。 朋也から百合亜と湊を助ける事。 これらが全て達成するまで、おれは操り人形を演じなければいけないのだ。

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