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1-雛未-
「どうしてこんな真似を?」
「……」
「黙秘することを批判はしない。立派な選択肢の一つだ。ところで中等部か?」
常にブラインドが下ろされている実験室。
今は暗幕も引かれて室内後方の照明だけが点灯し、壁際を占領するスチール戸棚では丁寧に磨かれたガラス器具達が眠りについていた。
「私、高校からの外部生です、隹先生」
スティックシュガーを丸ごと一本入れた甘ったるい味わいのホットコーヒーを一口啜り、彼女は、高等部一年生の折戸雛未 はそう答えた。
「俺の自前のカップで悪い」
「え?」
「来客用のカップがここにはないんだ。事務の給湯室から今度くすねてくるか」
雛未の隣に座り、雛未に正面を向け、実験台に片頬杖を突いて長い足を組んだ、お行儀悪い姿勢の見本さながらでいる理科教員の隹。
お決まりの白衣の下には大体ダークカラーのワイシャツにネクタイ、スラックスを着用している。
土足制の学内ではブラックのレザーサンダルを履き、整髪料を軽く馴染ませた髪はベリーショートでもツーブロックでもない適度な短さだった。
「雛未、俺の代わりにくすねてきてくれるか」
見知ったばかりの生徒を下の名で呼び捨てにし、物騒なことを無責任に連ねる不遜な唇。
鋭い双眸の見慣れない青水晶の虹彩に不意に惑わされそうになる。
だからだろうか。
「先生、私、兄のことが好きなんです」
雛未はこれまで誰にも明かしたことのなかった感情を懺悔するように告白した。
「このまま生きていたら、いつか兄のことを追い詰めて、傷つけてしまいそうで。それならいっそ死のうと思ったんです」
本革の細ベルトでウェストを優しく絞った制服は七分袖、膝下丈の黒ワンピースだった。
襟と折り返しの袖は白で、繊細なレースがあしらわれ、ハイソックス、ローファーはどちらも黒。
癖のない前下がりのミディアムボブは俯くと表情を隠しがちだった。
高等部よりも中等部にいる方が自然に見える、庇護欲を掻き立てる弱々しげな骨組みをしていた。
「そうか」
雛未はマグカップを両手で握り締めて目を瞑った。
クラス担任どころか授業担当にもなったことがない教師にどうして打ち明けてしまったのか。
不慣れな青水晶に誑かされたか。
延々と募る行く当てのない恋心と罪悪感が小さな胸では抱えきれなくなり、とうとう氾濫したのか。
誰かに罰してほしかったのか。
「優しいんだな」
雛未は閉じていた目を開いた。
実験室と隣接する準備室で隹が自分のために淹れてくれた甘いコーヒーが視界いっぱいに広がった。
「自分を犠牲にして自分以外を救おうとするなんて」
ふとマグカップに残るコーヒーが重たげに揺らめいた。
雛未の涙が一滴、隠し味さながらに追加されたのだ。
「何もお前一人が犠牲にならなくたっていい、雛未」
隹先生なら、もしかしたら。
「ところで、お前、さっき寮生だって言っていたな。寮の門限は何時だ」
「六時半です」
「大幅に過ぎてる」
「注意されて反省文書くだけだから大丈夫です」
「送ってやる。俺が実験助手として引き留めたってことにしておこう。それにしても、な。どうしてこの場所を選んだんだ?」
死に場所に選んだ理由は、実験室の空気が好きだから、だった。
校舎の隅っこ、いつも薄暗くて、ひんやりしていて。
淡々と授業を進める非常勤講師の説明は上の空で聞き流して、クラスメートの他愛ない私語もあんまり気にならなくて。
「この実験室。水槽の中にいるみたいで好きなんです」
隹が丸椅子から立ち上がり、一八一センチある長身の教師を小柄な生徒はじっと見上げた。
「またここに来てもいいですか?」
隹は頷いた。
床に置かれていた学生鞄を雛未に持たせると「俺でよければいつでも話し相手になる」と告げ、連れ立って実験室を出た。
高台に構えられたキャンパスの外れに建つ学校寮まで隹は本当に雛未を送って行った。
運営スタッフをまとめる寮母に平然と嘘をつき、門限に遅れた自分を庇ってくれた彼の横顔を、掃除の行き届いたロビーの片隅に立って少し離れたところから雛未は眺めていた。
職員会議のある日は部活動も休み、ほとんどの生徒が帰宅して静まり返ったキャンパスを二人きりで十分ほど歩いてきた。
『俺が実験室に戻ってから、二人で実験室を出るまで。あの間に起こったことは俺とお前の秘密にしよう』
外灯にぼんやり浮かび上がる無人のグランド沿い、白衣のポケットに両手を突っ込んで悠々と進む隹の隣をついてきた。
「あ」
厳しい寮母を閉口させた隹に目配せされて、雛未は、思わず小さな声を上げた。
「えっ、隹センセェがいる!」
玄関ロビーを偶然通りがかり、きゃあきゃあはしゃぐ他の寮生らに「しー」と唇前に人差し指をわざとらしく立ててみせ、白衣の裾を翻して隹は去っていく。
寮母に注意されながらも名残惜しげに屯する上級生越しに雛未も彼を見送った。
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