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雛未の通うミッションスクールでは全校生徒の出席が義務付けられた礼拝が毎朝授業前に行われる。
本棟最上階にあたる、天井の高い広々としたチャペル。
木造長椅子のベンチがずらりと並び、内装は落ち着いた焦げ茶と清らかな白磁の二色でほぼ統一されている。
両サイドに取りつけられたアーチ形の格子窓から穏やかに差し込む晴天の朝日。
正面に段差をつけて設けられた講壇中央にある説教台の後ろには、礼拝の進行を日替わりで担う教員がイスに座って控えていた。
パイプオルガンの演奏が響き渡る中、聖書と讃美歌を携えた中等部と高等部の生徒らがクラス毎に各教室から二列を成して祈りの場へやってくる。
雛未もクラスメートと共に私語厳禁のチャペルへ。
周囲が動じるくらい視線をあちこち行き来させ、お目当ての彼を見つけると、微かな昂揚感に胸を波打たせた。
礼拝前、出席を確認して朝のホームルームを済ませた担任らは、二人の学級委員に先導を任せて先にチャペルへ向かう。
フロアにおける各クラスの配置は事細かに決まっているが、教員は後方のベンチに思い思いに腰かけており、高等部二年の担任を受け持つ隹も白衣を羽織ったまま壁際に着席していた。
足を組み、両腕を組み、宙一点を正視していた隹だが。
チャペルへ静々と入ってくる生徒の列におもむろに視線を投じ、通り過ぎようとしていた雛未と目が合うと、唇の片端を吊り上げてみせた。
「今、隹センセイ、こっち見て笑った?」
前を歩く二人のクラスメートが小声ながらも興奮気味に会話し、すかさず教師に注意され、後ろにいた雛未は「ごめんなさい」と胸の内で皆に謝った。
昼休みになった。
寮のお弁当は注文せずに購買で昼食を買うようにしている雛未は、パンと飲み物を購入し、理科実験室へ足を向けてみた。
「水のない水槽に涼みにきたか」
隹はいた。
新聞紙が敷かれた各実験台にポリエチレン製のバットを配っていたところで、バットの中には鋭く輝くハサミやピンセット、シャーレなどが用意されていた。
「午後一の実験の準備だ」
雛未が近くに歩み寄れば隹は自分の片目を指差した。
「眼球の解剖」
雛未が大きく目を見張らせると「精肉店から調達してきたブタの眼球だ」と答え、手にしていた紙袋が目に留まると「ランチ前にはショッキングな話だったか」と肩を竦めてみせた。
「隹先生、ここでお昼食べてもいいですか?」
ケロリとした様子の雛未に問われ、隹は、朝の礼拝時に浮かべた笑みを口元にリプレイさせた。
「好きにしたらいい」
すぐそばにあった丸椅子に雛未は腰かけた。
生物基礎の実験準備を一通り済ませた隹も隣に座る。
昼休みの喧騒も届かない校舎の片隅。
中庭を過ぎる鳥の囀りと空調の振動が心地いい静寂を際立たせていた。
「昨日のコーヒーのお礼です」
余分に買っていたマフィンを紙袋から取り出し、生理的に躊躇するでもなく、解剖準備が粗方整っている実験台に雛未は食べ物を乗せようとした。
「丁度小腹が空いていた」
薄手の手袋を素早く外した隹は雛未の手からマフィンを直接頂戴した。
一瞬、細かな作業に長けた器用な指が、ほっそりした指を掠めた。
ほんの些細な接触だった。
「ごちそうさま」
あっという間にマフィンを平らげた隹の隣で雛未も同じ味のマフィンに口をつけた。
「昨夜は眠れたか」
「眠れました。でも、兄の夢を見ました」
「件の兄さんか。いくつなんだ?」
「もうすぐ十九歳になります。××大学の文学部に通ってます」
「××? ここから近いな。何回か行ったことがある」
雛未の兄は同市内にある私立大学の文学部日本文学科に在籍していた。
「兄からなるべく離れたくなくて、私、兄が第一志望にしていた大学から一番近いこの高校を受験しました」
大好きな兄の後を追いかけた、それは嘘じゃない。
しかし雛未が地元を離れて寮生活を望んだのにはもう一つ理由があった。
「そうか。確かに週末には会いに行ける距離だな」
「高校に進んでから兄さんとは一度も会ってません」
「一度も? 夏休みはどうしたんだ」
「私は家に帰ったけれど、兄さんは帰ってきませんでした、一度も」
嫌いでも好きでもない学校。
内部進学が過半数を占めるクラスメート。
無難な生活を共にする寮生。
つかず離れずな関係にある教師達。
「そういえば、あのカッターナイフ。刃の部分が錆びついていた。あれじゃあ眼球周りの脂肪を取り除くのも難儀しそうだ」
実験用のコンパクトなハサミの刃先を指先でなぞる隹と、常に薄暗いこの実験室は、延々と繰り返される平穏な日常において異質の存在に思えた。
「きちんと手入れした後、返してやる」
「私がきちんと手首を切って死ねるように?」
「そんなに何かバッサリやりたいのなら来年生物をとれ。新鮮なイカを切り刻ませてやる」
「私、イカとか切り刻みたくない、切り刻んだ後はどうするの?」
「夜に俺がツマミにして食べる」
ブラインドの隙間から洩れる自然光を掬い上げ、冷たげに煌めく青水晶の双眸。
見慣れない虹彩を雛未はまじまじと見返し、リップクリームを使用せずとも瑞々しく潤う唇から本題を切り出した。
「隹先生にお願いがあるんです」
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