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「ほら」 目の前に翳された携帯電話の画面に雛未は釘づけになった。 週明けの昼休み。 午後一の授業は顕微鏡を用いた「シダ植物の観察とスケッチ」であり、葉の裏側に胞子のうをびっしりつけた、裏庭で隹が採取してきたというベニシダが各実験台に置かれていた。 「お兄ちゃん」 お昼ごはんの入った紙袋が膝から落ちたのにも気づかないで画面に見入っている雛未に、隹は、自分の携帯を持たせてやった。 床に落ちていた紙袋を代わりに拾う。 ついでに中味を勝手に物色した。 「またマフィンか」 「……」 「しかも同じココア味」 「……」 「余程好きなんだな」 「だって、それが一番いっぱい並んでるから」 雛未はやっと返事をした。 カバーケースも液晶保護のシートもつけていない無防備な携帯を両手で持ち直し、久し振りに目にする兄の姿に頬を緩めた。 写真は大学の中庭を背景にして胸から上を撮影したものだった。 カメラ目線とは言い難く明後日の方を向いていて、とてつもなく硬い表情だが、大好きな兄に変わりはない。 幼い頃、兄の式は三つ下の妹のことをとても可愛がっていた。 いつだって優しく笑いかけ、いろんな絵本をたくさん読んで聞かせた。 寄り添って、手を握って、ずっと雛未のそばにいた。 それがいつしか途絶えてしまったことを雛未は遣る瀬無く思っていた。 「お前の携帯に送るか、それ」 兄の写真を撮ってきてほしい。 そんなお願いをすんなり聞き届けてくれた隹に、五分以上も無言で携帯画面に見入っていた雛未は首を左右に振った。 「これって盗撮とかじゃ……」 「さすがにそれは人としてマズイと思って声をかけた」 「兄さんと話したんですね。兄さん、どんなでしたか?」 「どんなって。そうだな。お前と目許がよく似てると思った。兄妹揃ってきれいな目をしてる」 雛未は、また紙袋を落としてしまった。 今度は自分で拾い上げ、近くのパン工房で作られているというマフィンを取り出した。 「隹先生も、目が、ちょっと青くて、きれいな色」 「これは名前も顔も知らない祖父の名残りだ」 「自分のおじいちゃんなのに名前も顔も知らないの?」 「俗に言う、複雑な事情あって、だ。俺の血管を引き裂けば極寒の大国の血がほんの少しだけ溢れ出す。そういえば、お前の恋人だって言ってみたら兄さんは心底驚いていた」 それを聞いて雛未もびっくりした。 「恋人? どうして兄さんにそんなこと言ったの?」 「教師なんて言ったら身構えられそうだろ」 「だからって、なんでそんな嘘、変、おかしいです、隹先生」 頬を紅潮させた雛未はマフィンを頬張った。 いつもなら感じる、ふんわりした甘さがない。 いきなり麻痺した味覚。 気にする余裕もなく瞬く間に完食した。 「変です」 そう言う雛未も周囲から「変わった子」とよく言われたものだった。 親戚からも度々言われた。 すると雛未の母親は「この子の個性であって美点なの」とにこやかに答えていた。 兄の式よりも優しかった、惜しみなく愛情を注いでくれた母親のことが雛未は世界で一番好きだった。 彼女が病気で他界してからは式が一番になったが。 「変です……」 「暇を持て余した変人で悪かったな」 水槽となぞらえた実験室、青く透き通る鱗を彷彿とさせる目をした隹に雛未は再びお願いした。 「先生からもっと兄さんの話を聞きたいです」 「もう兄さんの話は尽きた。写真を撮ったらすぐに帰られたからな。コーヒーでも奢ると言ったが断られたし、怪しまれていたのは確実だ」 「もっと聞きたいです」 「また会いにいけって言ってるのか、雛未」 自殺未遂に至った生徒。 守ってやらなければと教師の隹は思っていた。 夏休み明け直後、近隣の学校で自殺者が出た。 他校の生徒とはいえ、事態を重く受け止めて学校では緊急の職員会議が開かれた。 いじめ対策について改めて考える、ネットマナーを逐一呼びかける。あの日、特に普段と代わり映えしない話し合いが終わって実験室へ戻ってみれば、雛未が手首にカッターナイフを翳していたのだ。 「今度はマフィンじゃなくてサンドイッチがいい」 兄のことを恋い慕う少女。 まやかしにも似た思春期の一過性に過ぎないかもしれないし、本気の想いなのかもしれない。 絶望に急かされて可能性に富んだ人生を自ら終わらせるのではなく、何に対してでもいい、明日に繋がる生への執着を見つけてくれたら。 だから隹は貴重な休みを投げ打った。 雛未のお願いを聞き入れた。 今回も……。 「信憑性をもたせるためにお前の写真も撮っておくか」 いきなり携帯を顔の前に翳されて雛未はキョトンとした。 「兄さんの警戒心を解くためにな」 雛未は「嫌」と言おうとして思い止まった。 「妹を誑かしてるロリコン男みたいに扱われたのは心外だった」 「先生が変な嘘つくからです……」 カメラ機能を立ち上げ、撮影画面に切り替え、写し出された雛未を見て隹は思わず笑ってしまう。 「俯く角度や目線が兄さんとまるで同じだ」 白衣を纏う理科教員にそんなことを言われ、黒い制服姿の雛未は耳朶の隅々まで火照るのを止められなかった。

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