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窓のブラインドは上げられていた。 もうじき夜へ移ろいつつある外の世界が色褪せたガラスに写り込んでいる。 壁に沿って縦に五脚並ぶ一人用テーブルに着席し、宮沢賢治の童話集を読んでいた隹は、驚きの余り立ち尽くしている式に笑いかけた。 「名前、初めて呼んでくれたな」 式は我に返り、彼以外に誰もいない閲覧コーナーへ歩み寄った。 「無性に読みたくなって来た」 「わざわざ、この図書館へ? 賢治の本なら本屋さんにだって……」 「あんたに会いにきた」 式の胸底で息を潜めていた感情が大きく渦巻いた。 「本当によく入り浸っているんだな」 「あ……今日は集中講義があって、その帰りに寄りました」 「そうか。昨日は邪魔が入ってちゃんと話ができなかったし、そのことについても詫びたかった。どこかで晩飯でも食おう」 これまで見ていた服装と違い、腕捲りしたワイシャツにネクタイ、スラックスに革靴を履いていた。 昨日と同じくサングラスはかけていない。 仕事終わりに来たのだろう、案外、真っ当な職に就いているのかもしれない。 職業不詳だった隹に否応なしに抱いていた不信感が一つ解消されて、でも胸はざわつく一方で、式は密かに途方に暮れた。 「何が食べたい?」 断るべきだ。 深入りするな。 頭の中で忠告する理性を無視して式の唇は「別に、何でも……」と回答していた。 そのとき。 昼休みにコンビニのおにぎりを一つ食べただけ、一番安いミネラルウォーターで水分補給は心がけていた式のお腹が鳴った。 「す、すみません」 「なんで謝る。じゃあ中華でも食いにいくか。中華、嫌いじゃないよな?」 「嫌いじゃないです……本、借りるんですか?」 「ああ。ゆっくり読ませてもらう」 「外部の人は手続きして利用登録しないと借りられないです」 「利用証は持ってる。更新手続きも毎年欠かさず、な」 素直に鳴った自分のお腹に赤面していた式は、隹に促されて一階へ下りた。 受付カウンターに寄った彼より先に外へ出る。 前から図書館を利用していたのは意外だったが、中庭で素手で蝶を捕まえ、その生態について話していたところを思い返してみると納得できた。 自然や生き物に関心があるのか、精通しているのかもしれない。 「行くか」 図書館の出入り口付近で待っていた式の元へ、童話集を手にした隹が大股でやってきた。 「近くのコインパーキングに車を停めてる」 「車……ですか?」 「ここへはいつも車で来てる」 西の彼方に太陽が追いやられて徐々に薄闇が地上を満たしていく。 大学前の車道はヘッドライトで溢れ返り、歩道では家路を急ぐ者、友人や恋人と決めた今夜の予定を待ち侘びる人々らが行き交っていた。 「支払い済ませてくるから先に乗ってろ」 大学から程近いコインパーキングに停められていた隹の車は、メタリックカラーの単色ブラックで3ドアの外車だった。 丸みを帯びたデザイン、後部座席はこぢんまりしていて、式は久し振りに座る助手席にやや緊張した面持ちで乗り込んだ。 「十分くらいで着く」 音楽やラジオも流さない車内の静寂に隹の声が溶けた。 滑らかな走りで車道へ、混み合う本道を避けて曲がりくねった裏通りを慣れた風に走行する。 トートバッグを膝に抱えた式は、生活圏内から僅かに逸れた、初めて通る脇道の景観へ車窓越しに視線を逃がした。 「暑くないか?」 「大丈夫です……」 片付けられた車内にシトラスの残り香を探している自分をひっそりと自嘲した。 この人は妹の恋人。 俺は兄として心配しているだけ。 何回も心の中でそう繰り返した。

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