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第8話 気をつけろよ

ドン、と部屋に入るなり壁に押し付けられて明梨は驚いて顔を痙攣らせた。 「これで逃げられねぇな…」 「な…何よ?」 「とぼけるんじゃねぇ…沙希に何をさせたか分かってんのか」 「え?え?何のこと?」 「これは…お前が盗ったんだろうが」 沙希から返された出産祝いの封筒を明梨の前に翳す玲司。 「な!…さっき、あの人が認めたって言ったじゃない!」 「ああ、認めてたぜ…最後までな」 「だったら!」 「沙希は…盗んだ金は使えなかったって言ったんだよ、俺が姉貴のために用意した大事な金を使えるわけが無いってな…けど、これは俺が用意した金じゃねぇ…元々、此処に入ってた本物は、あっさり使われたんだろ…沙希でも俺でも無いなら、此処にこの金を入れる事が出来たのは、明梨…お前だけだ」 「どういうこと?!そんなの分かる訳ないじゃない!ちゃんと新札だし、もちろん本物!お金に違いなんかある訳ない!」 「あるからしたんだろ…4は避けるんだよ、出産祝いには縁起が悪いからな」 「え?…よ、4?」 紙幣に振られている番号。出産祝いには死を連想させる4や苦を連想させる9を避けるのが一般的。勿論玲司も、その数字を避けた新札を包んだ。しかし出産祝いの用意をした経験も知識も無い明梨は新札ならば何でも良いと思って4の入った紙幣で祝金を補填したのだ。封筒から出した札を確認した時、玲司は沙希の嘘に気づいた。そして同時に自分が盗ったと言い続ける沙希の背後に、そう言わせている人間が居る事にも。犯人がまったくの他人ならば、沙希が庇う筈はない。ならば盗んだ可能性のある容疑者として残るのは1人だけだ。 「けどよ、盗みの事は今はもうどうでもいい…俺が怒ってんのは自分がやった盗みを関係ない沙希に背負わせて、謝らせた事だ」 「っ…ご、ごめんなさい!お願い、許して!MEMOMで話題の限定コスメが入荷してたの!すぐに買わないと売り切れちゃうと思って…玲司、その日は実家に行くって言ってたし…本当に後で返すつもりだったのよ!」 「一言、連絡すれば良かった話だろ…黙って盗って黙って返せば無かった事に出来ると思ってんのか」 「うぅ…ひっ…く…ごめんなさい!」 顔を覆って泣き出す明梨。 「なぁ、明梨…周りがお前を何と言おうが、俺はお前の良い所を知ってた…俺の帰りに合わせて料理作ってくれたり、作り置きもして行ってくれたりな…例えネットにあげる為でも、普段行かないようなレストランやテーマパーク…あちこち連れ回されるの、俺は楽しかったぜ…そんなワガママな所も好きだった」 「…本当?」 褒めてもらえた事に気を良くして顔を覆っていた手を下げて目元だけ出すと玲司を見上げる明梨。少しも崩れてもいないメイク。涙は流れていなかった。 「ああ、お前は本当に手がかかる恋人で、どうやら俺はそういう奴が好きらしい…」 「私も玲司のことが大好…」 「けどな、沙希を利用して傷つけた事だけは…許せねぇんだよ」 「え?!…許せないってどういうこと?!」 泣いて謝れば許してもらえると思っていた明梨は普段の甘えた声ではなく心底驚いた声を上げた。 玲司は明梨に手を差し出す。 「鍵、返してくれ」 それは、もう部屋に来るなという通告。別れを切り出されて、明梨は顔を覆っていた手を下ろす。その表情は昨日と同じく怒りを貼り付けている。 「待ってよ!お金は返したじゃない!私のこと好きなんでしょ!」 「…好きだったぜ…今日まではな」 「嫌!別れたくない!いつもはどんなに私が悪くても、味方してくれたじゃない!悪かった所はこれから一緒に直して行こうぜって言ってくれた!許してくれたじゃない!それなのに!」 「鍵を返したら、今日は1人で帰ってくれ…これで沙希の濡れ衣を剥ぎ取ってやれる」 「何よそれ…そんなにあの人が大事なの?!私より、あんな顔だけのヒモが!?あの人が部屋に来なかったら、そのぶん浮いたお金でもっとデートに行けるのよ!」 「そうすればもっと写真をネットにあげられる、か?」 「!!」 「答えるまでもねぇな…俺にとってはお前の1000人のフォロワーとやらより、沙希1人の方が大事だ」 「なっ…」 「そして、お前にとっては俺1人より…1000人のフォロワーの方が大事なんだろ」 明梨はバッグからキーホルダーを取り出すと玲司の部屋の鍵を外した。 「最っ低!これからクリスマスに向かうのに!クリスマスに彼氏が居ないなんて無理!私はMEMOMに彼氏とのクリスマスデートやプレゼントを載せなきゃいけないの!急いで次の彼氏見つけなきゃいけないじゃない!」 「…そうかよ、俺が言えるのはこれだけだ…お前は変わる努力をした方がいい」 「うるさい!私に指図しないで!ちょっと有名なくらいで写真も撮らせてくれない役立たずなくせに!黙って私のおねだりを聞いててくれれば良かったのよ!」 玲司の手には渡さず、床に鍵を投げ捨てて部屋を出て行く明梨。バタン!と強く閉められたドア。 玲司は鍵を拾い上げて、ひとつ溜息を吐いた後すぐに部屋を出た。向かった先はすぐ真上の部屋。 しかし何度チャイムを鳴らしても沙希が応える事は無かった。 (…居ないのか?) 明梨と話している間に留守になってしまった2-C号室。玲司は嫌な予感を感じてスマホで沙希に電話を掛ける。それも、呼び出したまま繋がる事は無かった。 夜。営業を開始したrosierで夕こと善は、出勤途中で拾った客をボーイに頼んで個室に通して貰っていた。本来、個室はVIPな客に使う事が多い。普段、回しに注文をつけない善からの珍しい頼みにボーイも訳ありな客なのだろうと承諾した。しかし今日は忙しい土曜の夜。人気のホストは他の指名客も多い。 ずっと1人を相手にする事は出来ない状況だ。 「こっちにおいで沙希ちゃん、座って良い子にしてて」 「ふぅーん…ホストクラブってカラオケも付いてんの?」 明梨に騙され、階段にへたり込んでいた沙希は土曜の為少し早めに出勤しようと出てきた善に遭遇していた。階段に座り込む沙希に、驚いた善は声を掛けた。すると突然、沙希はrosierに行ってみたいと言い出したのだ。いつもは誘っても嫌な顔をして突き放してくる沙希の不意打ちに善は少々困惑した。 結局、押し切られて連れては来たのだが。rosierに限らず夜の店は居れば居るだけ安くない料金が発生する。沙希が長居できる店ではない。 「1セットだけ遊んだら帰ろうか…ね?」 室内を興味深そうに見て回っていた沙希は善に誘導されてソファに座る。 「あはっ、ホストって名刺あるんだろ!見たい!」 「名刺?…はい」 名刺ケースから『夕』の名刺を貰って沙希は満足げだ。 「うわ、テーブルにお酒あるじゃん!どれか作って!それっぽいやつ!」 「どれかって…飲める?ウーロンやノンアルコールもあるから無理に飲まなくても」 「は?飲めるし!余裕!」 「…そう、じゃあ…何を飲む?」 「何…あー…これって選べる感じ?…っと…どれが美味いやつ?」 (…これは飲めないな) 酒の種類も飲み方も分からない様子で飲み放題用のウイスキーや焼酎を見ている沙希に善は飲めないと見抜いて先手を打つ。 「俺が決めていい?」 「あ、うん…任せる、よく分かんないし」 比較的量を飲みにくく悪酔いし難い焼酎を選んで、そしてとても薄めの水割りを作る為にグラスにアイスを入れる。薄いと気付くほど飲み慣れてはいないだろう。適当に飲みやすく酔いやすい酒を選ばれるよりは潰れるのを回避できる。 「…どうしたの、急にrosierに来たいなんて言い出して」 「別に…ねぇ、何で氷だけ入れて混ぜんの?」 「グラスを冷やす為にだよ…じゃあ質問変えようか、どうして階段に座り込んでたの」 善は作りながら明らかに様子のおかしい沙希から聞き取りを試みた。 「なんか、気分で…それ何?水と混ぜてんの?」 「そう、水割り」 「水割り!聞いたことある!」 「沙希ちゃん…どうしたの?」 2回目の質問に、沙希はそれまで楽しそうにしていた表情を曇らせる。 「…どうでも良くなってさ」 「何か嫌な事があった?」 「あはっ、あった…マジで人間不審になりそ」 「…出来たよ、どうぞ」 コースターに乗せられた水割りを手に取って透明な酒を見つめた後、水でも飲むかのように一気に喉に流し込もうとした沙希を善は慌てて止めた。薄く作ったとはいえ焼酎は入れてある。一気飲みは飲み慣れた人でも危険な行為だ。幸い口当たりが悪かったせいかグラスは少ししか減っていなかった。 「うぇ…何これ……まずっ」 「一気に飲もうとしちゃ駄目だよ、ゆっくり飲んで」 「だって飲み放題なんだろ?」 「ソフトドリンクじゃ無いんだから」 「いいじゃん好きにさせろよ、お前ホストだろ」 「ホストだから、お客様を潰さないように気をつけてる」 「ちょっとやってみたいとか思ったけど、なんか大変そ…ホストってキザな事言いながら酒飲んで客の相手してるだけじゃ無いんだな、俺には無理」 「フッ…そんなイメージかもしれないね、実際そう思って入ってくる人もいるよ、だから入れ替わりは激しい…やってみたら思ったより覚える事もやる事も多くてすぐ辞めちゃうんだ…例えばお酒を注ぐ時にラベルをお客様の方に向けなかっただけでも注意されるしね」 「…うわ、細か!」 「沙希ちゃんには今のお洋服屋さんが合ってるよ、いつも楽しそうにしてるのに…どうして急にホストになりたいと思ったの」 「うん、リドラは店長がうるせーけど楽しい…でももう、そこも続けられるか分かんなくてさ…知ってると思うけど、俺…少し前まで馬鹿みたいな生活してたじゃん…あの頃は毎日がどうでも良かった…誰に何を言われても知るかって感じで…働こうとも思わずに親の金で仲間と遊び回って、今が楽しければイイって…」 「…そうだったね」 「でもあの頃の仲間と縁切って、初めてバイトして…やっと自立出来そうな気になってた…けど、そのモチベーションには必要な支えがあってさ…その支えが無いと、俺…また前みたいになるんじゃないかって…怖くてなる…」 心境を話しているうちに不安を募らせて小さくなっていく声。 「沙希ちゃんは、もう前みたいになったりしないよ…大丈夫」 「でも、今日…俺、その支え…無くしちゃったっぽいんだよね……あはっ、マジでバカだった…何で、俺ってさ…肝心な時に、素直になれねぇのかな…たった一言で無くさずに済んだかもしれないのに…今さら、後悔したって遅いよな」 「俺には、沙希ちゃんが無くした支えが何かは分からないけど…沙希ちゃんを支えてくれるものはきっと1つじゃないと思うよ…」 「かも知んないけど…俺には…いちばん大事な支えだったんだよ」 「それは、ツライね…1番にはなれないけど、俺で良ければいつでも頼ってくれていいよ…これでも、大抵の事は助けてあげられるから…」 その言葉に少しだけ安心したように表情を和らげる沙希。 「あはっ、お前に助けてもらったら何か見返り求めて来そう」 「それは潔く認めようかな…無償の愛は持ち合わせて無いんだ、ホストだからね」 「うわ…すぐ認めるじゃん」 「夕さん、お願いします」 「ごめん、沙希ちゃん…ちょっと行ってくるから俺が居ない間に飲み過ぎないようにね」 指名が入った為、席を立つ善。ヘルプのホストにも酒を飲ませ過ぎないよう伝言して個室を出る。 それから善は指名ラッシュに入ってしまった。被りが発生する為、何組ものテーブルを次々に回る。 必然的に沙希の所に戻る頻度も遅くなっていく。戻る度に帰るよう促すが、どうやら3セット目に突入してもまだ帰るつもりが無いようだ。 土曜の夜でなければ、もう少し余裕をもって話を聞いてやれるのだが。善も同時に複数の客との会話やテンションを覚えておきながら接客しなくてはいけない。沙希だけに時間を割く事はできない状況だ。 こんな日に限って太客が多く延長も続く。 (まずいな…沙希ちゃん何杯か飲んでるし…そろそろ帰さないと) 移動途中でヘルプに入ったホストとすれ違う。 「夕さんの連れて来たお客さん、大丈夫ですか?けっこう酔ってましたよ」 「ありがとう、次でチェックさせるから」 「それが良いですよ」 日付けが変わる頃、指名が一段落ついた皇はいつものように一服していた。そこへ申し訳なさそうに回し役のボーイが来る。 「すみません皇さん…一瞬だけ夕さんのヘルプに入ってもらえませんか」 「…ああ?」 隠しもしない不快な表情にボーイはたじたじだ。 「俺の回し方が足りなくてすみません、誰も付いてない状態にしちゃってるんで一瞬助けてください、3階、個室です」 「よりによって夕のヘルプに入れって言うのかよ…しかも夕指名の個室は男のとこだろ」 「はい…すみません」 男の客に付くことを嫌う皇。それでも状況を聞いて灰皿に煙草を押し付けると個室へと向かってくれた。他のボーイからも安堵の溜息が漏れる。 「っ…皇?!何で此処に…一服してたんじゃ」 「よお、夕…俺がお前のヘルプのヘルプだそうだ、まぁいい…お前が連れ込んだ男がどんな上玉か拝ませてもらおうじゃねぇか」 「そんな悪い顔して…頼むからあれ以上酔わせないでもらえるかな…お酒飲めないのに飲みたいって言うから、うまく気を逸らしてあげて」 「顔は元々だ!酔いたい客は酔わせてやりゃいい…潰したりしねぇから安心しろ、俺を誰だと思ってんだ」 「こ、皇…ちょっと」 「はは…何だ、珍しく焦ってるな…早く戻って来いよ?それまで可愛がっててやるからよ」 早く戻れと言われても、時間は決まっている。戻りようがない。皇にヘルプを頼むしかなく、善は心配そうに次の客の元へと向かった。 鼻で笑って皇は個室のドアを開けた。ソファでトロンと目を潤ませてぼんやりカラオケ用の液晶を見ている沙希の前に跪く。 (なんだ、もう潰れかけじゃねぇか) 「…あ、おまえ知ってる……No.1だ!」 「隣、いいか?」 「うん」 以前、笑武が善の出勤予定を調べた時にサイトで見たNo.1の顔。同じ人物の登場に飛びかけていた意識が多少戻って来たらしい。液晶から視線を移して皇をまじまじと見つめている。許可を得て隣に座る皇。 「皇だ…俺を知ってるのは感心だな、楽しんでるか?」 「よく分かんない…色んなホストが来て、話して…そんだけ」 「まぁ、男にはハマらない店かもな」 「あれ……」 「なんだ、そんなに見つめて…ん?随分と綺麗な顔してんな」 あまりにじっと見つめてくる沙希を見返して初めて、その顔の綺麗さに驚く。顔だけならばrosierでもトップクラスに並ぶだろう。 「声が…似てる…玲司に」 「誰だその玲司ってのは…まぁいい、声が気に入ったなら歌ってやろうか?」 カラオケは話題が無い時の時間潰しにもなる。話さなくても済む為、皇にとっては好都合だ。 「あはっ…やったー」 「何がいい?」 「好きなのでいい…あんたの声、もっと聴きたい」 「じゃ適当に入れるぞ」 リクエストが無いため、皇は自分の得意な曲をカラオケに予約する。個室なので他の客の順番待ちもない。すぐに流れたその曲は、甘めのラブソング。ホストは女性受けの良い曲を得意としている事が多い。一年を一緒に過ごす2人の恋人の歌。季節が移り変わっても隣には変わらず君にいて欲しい。そんな最愛の恋人に向けた愛の言葉が歌詞になっている。 歌に聴き入りながら、濃くすれば美味しくなるとでも思ったのか焼酎を足そうと酒瓶に伸ばされた沙希の手を皇は歌いながらも視界の端で見逃してはいない。優しく手を握って下げさせた。 「!」 キャバクラなどで、体に触りそうな客の手を握っておく事で制止するのはよく使われる手段だ。 皇もそれと同じ意味で握った手を離さずに歌い続ける。途中、そっと抜け出しそうになった手は悪さをしないように指を絡められて恋人繋ぎにされる。そうする事で、より拘束できるからだ。他意は無かったが、沙希は酒とは別の熱で顔を赤らめた。 (お?…手ぇ握られて意識してんのか、可愛いじゃねぇか) 恥ずかしそうに顔を逸らす仕草。反応に目敏い皇はその様子をしっかり捉えて愉しそうに目を細める。 曲を歌い終わっても離されない手。 「な、なぁ…手、離せよ」 「夕に止められてるからな、勝手に酒を注ぎ足さないように…捕まえておかねぇと」 「わかったって…勝手に飲まいから」 「舌足らずになってきてるようだし…これを最後の1杯にしときな?それがお前の限界だ」 「う…ん」 頷くと、やっと手を離してもらえた。 「もう一曲、歌うには時間が足りねぇな」 「え…もう交代?…やだ…行くなよ…俺、あんたのこえ…好きだから」 「臨時ヘルプだからな…悪いが、夕から客を盗る訳にはいかねぇよ、それにNo.1は忙しい」 「やだ…行くなって…何回でも謝るから」 引き留めようとする声は必死だ。 「謝る?おいおい、どうした」 「ぁ…ごめん…俺、ちょっと酔ってる」 「酔ってる自覚があるなら良いが…気を付けろよ、その状態は夕の大好物だ」 「?」 「さて、せっかくホストクラブに来たんだ…残り時間、口説き倒してやろうか?この声でな」 「…その声…マジ反則」 「そそるなぁ、お前…夕から取り上げて俺のモンにしてやろうか」 「やめろってぇ」 「ははは…声で勃っちまいそうだな」 沙希を揶揄って遊んでいると、善が急ぎめで戻って来た。むっと眉を釣り上げて皇を軽く睨んでいる。 「お待たせ、沙希ちゃん…皇、代わる」 「そんなに睨むなよ、ちょっと揶揄ってただけだろ?楽しかったぜ…じゃあな」 「あ…」 皇が去る時に一瞬、寂しそうな顔をする沙希を皇と同じく目敏い善は見逃さない。 「沙希ちゃん、俺2時間くらい抜けられるから送るよ…帰ろ」 「え?…なんで?もう朝?」 「まさか朝まで居る気?……チェック」 「あー、待った!これだけ飲む」 善がボーイをチェスの駒を置くようなハンドサインで呼んでチェックを頼んでいる隙に酒の味に慣れた沙希は残っていたゲストグラスの水割りを一気に飲み干してしまった。 「沙希ちゃん…!一気は駄目だって言ったのに」 「おっけー、かえる」 チェックの精算に来てクレジットカードを受け取ったボーイに善は耳打ちする。 「1セット分でいいよ…残りは俺にツケといて」 「分かりました」 請求が1セット分しか出されていないにも関わらず沙希は「やっぱこういう店は高いのな」と言う。本来の金額だったら酔いも覚めたかもしれない。店長に頼み込んで2時間の休憩を取り付けた善は足元がふわふわと不安定な沙希を支えてタクシーに乗せた。 「…気持ち悪い?」 「んーん…平気」 隣に座っていても飲酒による体温の上昇を感じられる。最後の一杯が回り始めて限界に達してしまった沙希は善に凭れ掛かるように体を預けた。 「部屋に戻るまで寝ちゃダメだよ…すぐ着くから」 「…かえりたくない」 「…え?」 呂律が怪しいが帰りたくない。確かにそう聞こえた。 「今夜は、かえりたくない…1人になりたくない」 その言葉で、漸く善は沙希がrosierについて来た事、そして何度か促しても帰ろうとしなかった事の意味を知る。 「…沙希ちゃん」 「そば、居て…頼むから」 何か大切な支えを喪失した事で不安に押し潰されそうな夜。明日が来るのが怖い。誰かに縋りたいのだろう。そして奇しくも、そんな夜に遭遇した男は縋り付くには都合の良い夢見せ人だった。 「いいよ…それじゃ俺の部屋においで」 『気を付けろよ、その状態は夕の大好物だ』 皇の忠告が酒によって溶かされる。 「ん…行く」 深夜のHeimWaldは当然、静まり返っていた。一度、座ってしまった為か店を出た時より更に足元に力が無い沙希を片腕で傍に抱えて2階への階段を上がる。 2-A号室。他と同じ間取りと広さの部屋のはずがコーディネーターを通された内装はそれなりに良いホテルのシングルに匹敵する豪華さだった。 昼夜逆転の生活に合わせて遮光性の高い濃灰のカーテンが使われ、グレーと白を基調にしたインテリアがシックで落ち着いた空間を作り上げている。 部屋の角にあるインテリアグリーンや波型の間接照明。広いローベッドの上には白とグレー系のクッションが置かれており、その枕元には高そうな絵画が飾られている。 お洒落な木製のラックに並ぶ書籍は音楽、特にドラムに関するものが多い。善が使っている香水の香りがほんのりと香る、平均よりワンランク上の居住空間だ。 「水を持っていくから、好きな所に座ってていいよ」 ふらふらしながらも部屋を見回して驚いている沙希に羽織っていた上着を脱ぎながら善が声を掛けた。控えめな照明が妙に色気を誘う。ソファではなく床に敷いてある毛先の長めの黒白昆毛ラグが気に入ったらしく、そこにペタリと座り込む沙希。 「っ?!…これ、壁がテレビになってる」 「あまり観ないけどね…はい、水」 ミネラルウォーターは専用サーバーから出されたものだ。この水を入れてあるグラスですら高級品な気がして、落とさないよう持つ手に力が入ってしまう。 「…善なら、賃貸よりマンション買った方が良かったんじゃねぇの?」 「山の方に別荘なら持ってるよ…まあ、その山もうちの土地だけど」 「山?!」 「夕岳って苗字だし、ご先祖様から山には縁があったのかな?」 フッと笑って沙希の隣に座る善。 「ごめん…店、抜けさせて…」 「いいよ、これから落ち着いてくる時間だから…少しは気晴らしになった?」 「…たのしかった、特にあの…皇って人と居るの、歌…上手いし」 「皇…」 皇の名前を挙げられて、善は複雑そうだ。楽しめたのは結構だが、特に楽しかった時間を提供したのが臨時でヘルプに入った皇だと言うのが悔しいところではある。 「水、ありがと…」 水を飲み終わったグラスをテーブルのコースターの上にそっと置く。意識はあるがボーっとする頭。 アルコールで火照る体。はぁ、はぁと熱を逃すように呼吸して酔いが冷めるのを待つ。 「大丈夫?」 「ちょっと…熱い」 部屋を飛び出したままだったので元々アウターは着ていなかったが、それでも火照りは熱をどんどん生み出す。暖房を付けたばかりの部屋はどちらかと言えばまだ寒いくらいなのだが。 「沙希ちゃんを寝かし付けたら店に戻るよ…それまでは傍に居るから安心して…と言っても夜の俺にはあまり近付かない方が良いんだけどね…酔ってはいないけど、多少お酒が入ってるから」 「あ…知ってる…たしか年末に酔って帰ってきて通路で出会した透流にキスしたんだっけ」 「あぁ…その話?…普段なら透流には絡まないんだけど…酔ってる時は見境なくなるから」 「そのあと気まずくね?」 「いや全然…透流も、少しは驚いたらしいけど『おやまあ…』っていつもの感じだったし」 「ふはっ、そういや…あいつがちゃんと驚いてるとこ見た事ないかも」 「フッ、それもキスにはちゃんと応えてくるからタチが悪い」 思い出して苦笑いを浮かべる善。 「ん?」 深夜にも関わらずマナーモードで震えたスマホ。夕方から一度も見ていなかった画面には玲司からの着信が時間を置いて何回か残っている。同時にメッセージにも1通、気付いたら連絡するよう書かれたものが送られてきていた。今のも出られなかったが玲司からの着信だったらしい。 (どうせ、部屋に置いてある荷物を引き取りに来いって言いたかったんだろ…わざわざこんな時間に電話って…嫌がらせかよ!そのくらいは今度でもいいじゃん…そんなに早く俺が居た事、部屋から消し去りたいのかよ!) ぐ、とスマホを握りしめたかと思えばラグの上に放り投げる沙希。 「こんな時間に電話?急用かもしれないよ」 「なんでもない…なぁ善…俺ともしよ」 「え?何を…」 突然、沙希が隣に座る善の正面に向き合う形で腿の上に膝立ちで跨る。 「…キス」 笑顔で言っているのに涙目なのは、酒のせいでは無い気がした。 「……」 善の鎖骨に這わせるように手を置いて、迷うようにゆっくりと顔を近付ける沙希。その後頭部を善の右手が掴んで引き寄せると一瞬で唇は重なる。 「んっ…!」 沙希は忘れていた。目の前の男は、夜になると愛を食らうという事を。

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