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第9話 遊ぼ(前編)※

試すように絡められる舌は互いに熱く、仄かに酒の残り香を含ませていた。 ちゅ、とリップ音を立てて一度離れる唇。 「…困ったな、こんな可愛いキスされたら止まらなくなるよ」 「いいじゃん…あそぼ」 誘うように鎖骨を這っていた手が善のシャツのボタンを外していく。その間にも頰や耳に口付けて、欲情を誘発するのを忘れない。 「それはとても魅力的なお誘いだね…」 シャツの前を開けられて鍛えられた胸部から腹部までが露わになる。割れた腹筋や無駄のない筋肉がバランス良くついて、男としては羨ましい限りの体つき。 「っ、細いくせに鍛えられてるとか…」 「そう?パーソナルトレーナーのおかげかな…あの、沙希ちゃん…中断して悪いけど」 謝ったかと思えば跨っていた沙希を横に座るよう戻して立ち上がる善。見下ろされて、沙希は俯く。 「…なに?…俺じゃ…相手になんない?」 「そんな訳無いけど…でも」 呟いた矢先、立ち上がった善に手を差し伸べられる。その意図が分からず、とりあえず手を伸ばすと手首を掴まれて引き上げられ、強引に立たされる。そして酒のせいで立ち眩み、揺れた体がいとも簡単に掬い上げられ、横抱きにされた。 「?!」 ローベッドの上に優しく下ろされて、先程と同じ体勢になる。 「ベッドで遊ぼう」 「…別に床でもいいのに」 その言葉に優しく笑って応え善は仕切り直しに沙希を抱き締めた。そして強請るように囁く。 「俺も見たいなぁ…沙希ちゃんの体」 「脱ぐのはいいけど…俺はジムとか行ってないし…ひんそーだから、期待するなよ」 素直に服を捲って脱ぎ捨てる沙希。確かに善ほど鍛えてはいないが多少は男らしく筋張っていて、言うほど薄くはない。寧ろ半端に引き締まった細腰が誘惑的だ。何より顔と同様に綺麗な肌。思わず手を出して触れたくなる。 「うん…やっぱり沙希ちゃんは綺麗だね」 「…触っていーよ」 善の手を取って腰に誘導する沙希。そしてどちらからともなく再び唇を合わせる。先程のお試しとは違い奥まで舌を差し入れて音が立つほど絡ませ合う。キスの戯れを制したのは善で、沙希は舌裏に溜まった唾液を絡め取られて、飲み干される。追い討ちに舌を吸われると、掴まれた細腰がピクンと跳ねた。唇を離して舌舐めずりする善。 「ん…美味し」 「っふ…ぁ…いきなり、吸うなよ…」 「はは、そんな可愛い声で抗議されても…逆効果だよ」 慰めるように酒で緩んだ唇を舐められると沙希はムッと唇を尖らせた。 「俺もやる」 「…いいよ、やってみて」 やられたら、やり返したいらしい。善の舌を捕らえようと三度唇を合わせた沙希がそちらに気を取られている間に腰を撫でていた手が腹から胸元へと這い迫る。色の薄い乳首に指先が到達すると、反撃を狙っていた舌の動きが止まった。優しく、しつこく、人差し指の腹でこね回されてふるふると内股が震えだす。動きが止まった舌を捕らえるのは容易く、再び善が絡めとって吸い上げた。堪らず沙希の手が善のシャツを掴む。 「あ…っ、ぁ…それ…ずる、ぃ」 キスを止めても善の指は止まらない。 「ココも美味しそう」 立ち上がった乳首を摘まれてビクンと背を反らせる沙希。 「あぁ…ッ」 「沙希ちゃんは…左の方が感じやすいみたいだね」 「や…やめ…っひ、ぅん!」 感度を測るように左右の乳首を交互に摘まれて、反応を見られる。あっさり弱点を暴かれて羞恥で頰は赤く染まり、気が飛びそうだ。はぁ、はぁ、と漏れ出す熱を含む吐息。 「下も脱ごうか…前が窮屈そうだから」 「だって…お前が…ずる、するから」 「ずる?…何のことかな」 聞き返しておきながら見つけ出した弱点を甘噛みして、それを癒すように舐めるを繰り返す善。 「ひあ…ぁ!か…噛むなよ…だめ…左は…だ、め」 「フッ…だからそれは逆効果だって言ってるのに」 「あ…や、やだ…善っ!」 「大丈夫…嫌だなんて、言えなくしてあげるから」 敢えてゆっくりと見せ付けて唾液を溜めた口内に左の乳首を咥え込む。じゅ、と音を立てて吸われると細い腰が揺れた。その間も右は指先が突いたり捏ねたりと弄って遊んでいる。 「あぁっ、んッ!…あ…吸うなってぇ!…やだ…あ…ぅ」 「……」 「あ…ぁ…ふぅ…んっ…やだ…や…ぁ」 「……」 「ッん、く…ぁ、あ…は、ぅん」 最初は嫌々とシャツを裂かんばかりに引っ張って抵抗していた沙希だが、口内で弱点を舌で散々弄ばれて、気まぐれに吸われている内に抵抗を止め、ただ素直に喘ぎ始める。気持ちよさそうに腰を揺らして善のシャツを離した右手は無意識に自身の下腹部に伸びていた。善はその手を流し見て捕まえると、弱点を解放した唇で甲に口付けを落とす。 「それは俺のお楽しみ」 全身を震わせて耐えている姿はエロいの一言に尽きる。 「っう、ぁ…もぉ、焦らすの…やめろよ」 「ごめんね…脱ごうか」 宥めながら器用に沙希のベルトを引き抜く善。応えるように沙希は自らボトムスを下ろしてベッド脇に落とした。 「善は?」 「俺の事は気にしないで」 「…でも」 「後ろ向いて、俺に凭れて良いよ」 善がいつもの優しい笑みを浮かべて沙希を後ろ向かせ脚の間に座らせると、今度は背後から抱きしめて首筋を吸う。ハッとして沙希が身を捩った。 「ちょ…痕とか…付けんなよ?」 「付けないよ…加減してる」 それを聞くと大人しく善に体重を預けて凭れ掛かる沙希。甘えるように顔を擦り寄せてくる様に善はピク、と眉を寄せた。 「…善、いいニオイすんね」 「沙希ちゃん…そんなに煽らないで、遊びで済まなくなるから」 囁かれて、沙希は善の手を取る。そして腰ではなく下腹部に導いた。 「なんかさ…頭ん中、蕩けてて…夢みてるみてぇ」 「夢?うん、それで良いよ」 善の長い指が下着に忍び込んで窮屈そうに布を持ち上げる中心に触れる。 「っ…」 (先走りは少ない方だな…もう少し濡れてくれると抜きやすいんだけど) 「…ぜ、ん…あんまし、見るなよ」 下着から取り出して手中に収めた竿をゆっくり擦りながら、視線もずっとそこに集中している善。何とか視線は逸らしてもらおうと沙希が呼び掛けた。 「食べたいなぁ、と思って…咥えたら怒る?」 「い…嫌だし…!手で、シて」 直接的に濡らしてしまおうという企みは却下された。 「手遊びが良い?じゃあ沙希ちゃんの手はこっち担当ね」 沙希の手を唾液で濡れた弱点まで持っていくとをツンと立ち上がる小さな粒に指先を当てがわせる。 「っ…ちょ、なにさせる気だよ」 「自分で弄ってて」 「は…?!ば、ばか…へんたい」 「フ…ひどいなぁ…ほら、こうだよ」 「う…っ」 やり方を教えるように上から手を重ねて沙希の指先で何度も固くなったままの乳首の上を往来させる。最初はされるがまま自分では動かなかった指がもどかしさに耐え切れず徐々に意思を持って敏感な先端を引っ掻き出した。やがて善が重ねた手を離しても、弄り続けるようになる。 「そう、いい子…」 「ん…はぁ、う…んん」 (酒のせいもあるだろうけど、意外に従順なんだな…いい感じに濡れてきたし、これなら戻る前に俺も抜けそう) 量を増した先走りで興奮が高まっているのが分かると、竿を扱く速さを少し速めて更にそれを高めていく。追い上げられて浮く腰。 「っあ、あ…ん…ッは」 「気持ちイイ?」 「っふ、ぅ…」 こく、と小さく頷く沙希の瞳はトロンと潤んで目尻に涙を溜めている。生理的なものなのか、酔っているせいなのか。それとも別の意味があるのかは分からない。 (…こんな顔されたら、優しくするしかないよな) 「善…っ、挿れねぇの?」 前にしか触れてこない善に沙希は小声で促す。すると何度目かの優しい笑顔が返ってきた。 「……」 「挿れても…いーよ」 「挿れても良い?それとも、挿れて欲しい?」 「え…」 返事を聞く前に竿から先端に移動した指が先走りを零す箇所を擽った。すぐにビクンと一段と大きく跳ねる細身。内股に力が入ったのを確認して今度は竿を追い上げるように速く扱く。今にも達しそうなのに、ギュッと善の服を掴んで耐える沙希。 「あぁっ…!!」 「ん?…どうして我慢するの、出していいよ」 「っん゛…だめ…待っ」 休まず追い上げられると腕を伸ばして先程脱ぎ捨てた自分の服を鷲掴み善の手ごと先端に被せる沙希。 「!」 「ぁ、あぁ…ッ!!」 ほぼ同時に腰を震わせて噴いた白濁は飛び散る事なく沙希の服だけを汚した。汚れた服は床に脱ぎ落とされたボトムスの上に放られる。 「沙希ちゃん…」 「はぁ…はぁ…シーツ、汚れてない?」 「大丈夫だけど、そんな事を気にするならベッドに運んでないよ」 「…う、ん…でも…高そうだし」 安堵したのか凭れかかっていた体から力が抜けた。ぐったりとして乱れた息を整える沙希を掛布を捲ったベッドへゆっくりと寝かせる。 「このまま眠って良いよ」 「…まだ、いっかい抜いただけじゃん…善のこと…気持ちよくしてない」 一度、横になれば寝心地の良さに全身を懐柔される極上のベッド。それでも起き上がろうとする沙希を善は掛布を被せることで止めた。 「言った筈だよ、俺は沙希ちゃんを寝かしつけたら店に戻るって」 「お前…だからベッドで遊ぼって」 「分かったら目を閉じて…沙希ちゃんが起きる頃には帰ってくるから、寂しくないよ」 「…ごめん、俺さ…善を憂さ晴らしに使うようなことしてる」 「俺の使い方としては正解…でも感じてる沙希ちゃんがあまりにも可愛いから、本気で欲しくなって…ちょっと危なかった」 「…挿れてもいーよって言ったじゃん」 「でも、挿れて欲しいとは言わなかったから」 「…それは」 「冗談だよ、本当は時間とローションが無かったから」 「っ…なんだよそれ」 「はは…次は我慢できる自信ないから、もう店に来ちゃダメだよ…ヤケ酒もほどほどに」 「ごめ………ありがと」 自分の意思と言うよりは酒と極上のベッドが呼び寄せた強力な睡魔に逆らえずに目蓋を閉じる沙希。その額にひとつ口付けを落としてベッドから立ち上がる善。 「おやすみ、沙希ちゃん」 「おや…すみ…………玲司」 ほとんど意識が夢に浸かる中で呼び間違われた名前。おやすみ、の後に呼ぶクセが付いている名前だっただけなのかもしれない。ただ、善としては苦笑ものだ。 「おっと…そこは間違わないで欲しかったな」 ♪♪~善のスマホからアラーム音が鳴る。セットされていたのは沙希を寝かしつけるまでの予定時間。 概ね予定通りに済ませて自身の熱を抜く為に手洗い場に立つ善。 (まぁ…ツケ分は楽しませてもらったかな) どんなに優しい言葉を囁いていても、沙希が善と呼んで触れさせていた男はずっと『夕』のまま。慰めるフリをして体で料金を支払ってもらっていただけの事。宣言通りそこに無償の愛は存在しない。 それでも挿れるのを止めたのは、あまりにも脆くなっている沙希に『善』が掛けた唯一の情けだった。 一夜の時間を求めた沙希とツケ代にその体を求めた善。互いの要求は確かに合致していた。 朝、目を覚まして辺りを目で見回す笑武。 「んー…ん?!」 そして見慣れない部屋に意識と体が同時に飛び起きた。 「よお、お早うさん…少しは眠れたか?」 「玲司さん!お、お早う…そうだった…昨夜、玲司さんが沙希さんを探して俺の部屋に来て、それでそのまま一緒に探す事になって…」 沙希が居なくなって暫く後、戻ってくる気配の無い沙希を玲司は探し始めた。そして最初に思い当たったのが最近よく入り浸っている1-B号室だったのだ。 沙希が居なくなっていると聞いて心配になった笑武もまた玲司と共に沙希を探す事にしたのだが。寒い中を自転車で走り回ったり、玲司と合流して夜中まで車であちこちに出掛けた疲れで、一度戻って来て玲司の部屋で暫く連絡を待ってみようと話している間にソファで寝落ちしていたようだ。掛けられていた薄手の毛布は玲司が出してきてくれた物だろう。 「悪かったな…遅くまで付き合わせて」 「ううん…俺も沙希さんが心配で、部屋にいても落ち着かなかったと思うから…俺の方こそ途中でご飯まで奢ってもらっちゃって…それなのに寝落ちまでして…ごめんなさい」 「それはマジで気にするなよ?…元はと言えば俺の甘さが引き起こした事だ」 一晩一緒に足労を共にした事で笑武は玲司に対して張っていた気が解けて、いつの間にか敬語を減らしていた。 「このソファ、ベッドみたいになるんだね…寝心地良くてビックリした」 沙希が話していたように玲司の部屋は窓側にコーナーソファがある。一人暮らしには不釣り合いな代物だ。そのせいで部屋のスペース配分が狭くなり棚なんかは細いタイプの物が多い。 テーブルには昔ながらの蓋付きおやつ入れがあって微笑ましい。 「あ?ああ…身内が泊まりに来るのを想定して選んであるからな、何人かで来るとそれこそ寝る場所は争奪戦だ…困った事に親父はベッドで一緒に寝たがるんだよ、暑苦しい」 「あはは!お父さん面白い!でも多分…一番ここで寝てるのって沙希さんだよね」 「まあな…ここ半年くらいは」 ベッドに腰掛けて溜息を吐く玲司。 「…あ!そうだ、俺が寝ちゃった後に沙希さんから連絡は?」 「ねぇよ…けど送ったメッセージが既読になった、電話は掛けても出ねぇ…つまり話したくないって事だろ…俺も今日は姉貴の所に行くからな、さっきまで寝てたぜ」 「そっか…玲司さんが寝てくれてて良かった…俺、玲司さんの事も心配だったから」 「俺の事?」 「うん…車の中で昨日の出来事を聞いて、好きな人に大事な友達を傷つけられるなんて…そんなツラい事ってないよ…どっちも守りたかったのに、どっちも居なくなって…だから玲司さんの為にも早く沙希さんを探して連れ戻したいって、そう思ってた」 「何だそれ…俺がヘコむのは自業自得だろ、自分でも分かってる…結局お前まで巻き込んじまって、とことん情けねぇな」 「昨日も言ったけど俺の事は何も気にしないで…それより明梨さんを庇って嘘を吐いた沙希さんの事も、まだ怒ってる?」 「ああ、それはそれで別口だ」 「…できれば優しく叱って、早めに許してあげてな?」 「その約束は出来ねぇな」 「う…でも」 「冗談だ」 「よ、良かった…沙希さんの嘘は嘘だけど、明梨さんを庇う為の優しい嘘って言うか…悪気があった訳じゃ無いと思うから…あ、ごめん…明梨さんを非難するつもりじゃなくて」 「その通りだと思うぜ…自分が濡れ衣被って俺と明梨の仲を取り持とうとしたんだろ…沙希は…一度も明梨を悪く言った事ねぇんだよ…他の住人からは評判の悪い女だったけどな」 「…そう、なんだ」 笑武は以前、アストが明梨を見かけた時に独り言として「僕は顔も知らない誰かに捏造してまで見栄を張る意味が理解できません」と言っていたのを思い出した。今ならあの言葉の意味がMEMOMに熱中する明梨に向けられたものだと解る。 「リベルタでやった交流会でも善にしつこく絡んだり、料理頼んだくせに食わずに写真だけ撮って帰って梶本を怒らせたりして…言われても仕方がねぇ部分はあった」 (!、蓮牙さんが言ってたのって明梨さんの事だったんだ…確かに、あの時も沙希さん何も言ってなかった…交流会で起きた事なら知ってたとは思うけど) 「それでも沙希は…玲司と一緒に居ればそのうち変わるって、とか言って…いつも明梨を庇ってくれてたんだよ…その沙希を…」 ぐ、と悔しそうに拳を握った玲司に笑武は気になっていた事を口にする。 「玲司さんは明梨さんの…どこが、好きだったの」 「何だよ急に…どこって…あの面倒そうな所だろうな、俺は手の掛からねぇヤツには惹かれた事ねぇんだよ」 「な…なるほど…ちょっとだけ変わった好み、かも」 「仕方ねぇだろ…どうしてもそういうヤツが気になっちまうんだから」 「…じゃあ、その人が変わって手の掛からない真面な人になったら…冷めちゃうとか」 「お前ド突くぞ…いいか笑武、俺は最初から手の掛からねぇ奴には興味ねぇだけだ…好きになった奴が俺の傍で真面に変わっていったなら…俺は多分、そいつを娶ると思うぜ」 「…という事は今までずっと変われない人とばかり」 「…ちょっとこっち来い、一発ド突かせろ」 「わああ、ごめんなさい!」 立ち上がった玲司に頭を守るように抱えて身構える笑武。 「ったく…」 (良かった…ド突かれなかった) 「今のところはまだ連絡来てねぇけど明日は仕事があるし、あいつは実家には帰らないだろうから今日中には戻って来るだろ…俺は支度して姉貴の所に行ってくる」 「俺も部屋に戻ってシャワー浴びようかな、もし沙希さんから連絡があったら」 「ああ、知らせる」 「案外、他の人の部屋に泊まってたりして」 「だとしたら2-Aじゃねぇ事だけ祈るけどな…」 「善さんの部屋はダメなんだ….」 「あの部屋に夜入るって事は…食われちまうって事だ」 「食われる?!」 「ああ、お前もあいつの好きそうな顔してるから気をつけろよ?あの優しい上っ面に釣られて着いて行くと…引っ剥がされちまうぞ」 「う…うん、気をつけるけど…さすがに夜、お邪魔する事は無いと思う」 夜の2-A号室は危険地帯。笑武はしかと記憶した。 笑武が1-C号室から出てきた所で何処からか帰ってきた朔未と遭遇する。 「あれ?笑武くん?お早うございます…部屋を間違えたんですか?」 笑武の顔と部屋番号を交互に見て首を傾げる朔未。 「朔未さん、お早うございます…そんな訳ないでしょう、昨夜は玲司さんと…えっと…ドライブに行ってきて、その後で部屋にお邪魔したんですけど、俺そのまま寝ちゃったみたいで」 「えー!ひどいですっ、玲司くん抜け駆けしたんですね!」 「抜け駆け?!」 「笑武くんと打ち解ける抜け駆けです、俺だってもっと仲良くなりたいのに…しかもドライブなんて!俺には出来ない事じゃないですか」 「あの、分かりました…朔未さんは今度、リベルタでお茶でもしましょう?そうだ!蓮牙さんにカプチーノアートでクマさん描いてもらいましょう!」 「笑武くん、いつの間にリベルタデビューしたんですか!しかも蓮牙くんの名前まで覚えて…さてはヴァルトの誰かと行きましたね!」 「あはは…すみません、実は沙希さんと食事に…あと梶本さんにも挨拶して来ました」 「沙希さんと、そうでしたか…じゃあ次こそ、俺とリベルタですよ」 「はい…ところで朔未さん、こんな朝からお出かけだったんですか?」 「ええ、お気に入りの喫茶店までモーニングをいただきに行ってました」 「朔未さんはお気に入りの喫茶店とカフェがいっぱいですね」 「コーヒーが好きなんです、いつかオリジナルブレンドとか作ってみたいくらい」 「リベルタも期間限定でモーニングメニューとかやってましたよ」 「ああ、秋のモーニングメニューですね?まだ行けていませんが、今年もラズベリーのフレンチトーストが楽しみです…ラズベリーの酸味には浅煎りのコーヒーがよく合うんですよ」 「俺も食べてみたいです…あ、もちろんコーヒーもセットで」 コーヒーに特にこだわりの無い笑武は相槌を打つことしか出来ない。それでも朔未は嬉しそうに微笑む。 「そうだ、笑武くんの歓迎会もリベルタでやりましょうか」 「俺の歓迎会?」 自分の歓迎会の話など初耳の笑武は自らを指差す。 「はい、ちょうどアストくんとメッセージでやり取りしていた所だったんです」 「そんな、わざわざ俺のために忙しい皆さんに集まってもらうの悪いですから」 「自由参加だから大丈夫ですよ、それにヴァルトはリベルタに梶本さんというコネがあるので事前にお願いしておけば閉店後に貸し切れるんです」 「閉店後に貸し切りって…ますます恐縮です」 ぶんぶんと音が出そうなほど勢い良く首を横に振る笑武。 「ふふ、そんな遠慮しないで下さい…実は色々と口実をつけてヴァルトの交流会をしたいだけなんですから…リベルタの人達もみんな仲良しですし、笑武くんにとっても普段交流の少ない住人の方と打ち解けるチャンスですよ」 「交流会には参加したいと思ってましたけど、いきなり主役は荷が重くて」 「アストくんとは笑武くんが越してきて1カ月になる来月初めくらいで調整する予定を立てていました…それまでには気軽に参加できるくらいになってますよ」 「だと良いんですけど…せっかく朔未さんやアストさんが予定してくれているなら、楽しみにしたいと思います」 自信なさそうな声で頷いて承諾してくれた笑武に朔未は手を合わせて目を輝かせた。 「俺も楽しみです、本日の主役タスキ掛けてあげますね」 「…それは遠慮したいです」 「ふふふ、詳しい日取りはまた相談しますね…ではお楽しみに」 「はい…ありがとうございます」 部屋に戻って行く朔未を見送り、自分も部屋に戻ろうと鍵を開けてドアノブに手をかけた所で二階から微かに聞こえた声に動きが止まる。 「服は返さなくていいよ…貰い物で悪いけど」 「……なんか、結局ひとつ迷惑増やしてごめん…しかもこれブランドの服だし」 「どうせ着ないから…よく似合うよ、ちょっと肩や袖が余ってるけどそれも可愛い」 「ベタベタ触んなよ!…っ頭いた」 「二日酔い?…薬あげようか」 「いい…部屋帰って休む」 「フ…いつもの沙希ちゃんに戻ってきたね、良かった」 「……うん」 「俺はこれから沙希ちゃんの残り香を楽しみながら寝ようかな…おやすみ」 「ちょ…ハグはいらねぇの!やめろって!」 逃げるような足音と、ドアが閉まる音が2回続いた。ドアノブを握ったまま固まる笑武。聞かなかった事にしたい。そう思っても、もう遅い。噴き出す嫌な汗。思考が追いつかないまま、部屋に入ってドアに背を当てる。 (まさか…) 善が沙希をベッドに押し倒す様子を想像して頰を赤らめる笑武。 (そ、そうと決まった訳じゃないよな…一緒にお酒飲んでて吐いちゃっただけかもしれないし…そうだよ、きっとそう!と、とにかく沙希さん帰ってきたみたいで良かった!うん!) 2人の間には何も起きていないと思い込む事にした笑武だったが、玲司に沙希の帰宅を知らせる気にはならなかった。 HeimWaldから車で1時間ほどのレディース クリニック。 両親と共に姉の見舞いに訪れた玲司は新生児室から個室に移されて来ていた甥と直接対面出来た。時間によっては新生児室のガラス越しでしか会えない為、タイミングが良かったようだ。 「4000g超えだったって?」 赤ちゃん用のベッドを覗き込んで赤ん坊を眺めながら目を細めて優しく笑う玲司。 「そうなの、予定日も過ぎてたし旦那の休みに合わせて誘発剤で陣痛起こしたんだけどなかなか降りてこなくて深夜に緊急帝王切開!陣痛も体験したし、お腹を切った痛みも体験したわよ!」 「亜南家のじゃじゃ馬(ゆい)がついに母親か」 「亜南家のお節介焼き玲司もついに叔父さんね」 出産を終えて数日。帝王切開だった為、通常より入院が長くなった玲司の姉、唯はベッドに座ったまま興奮気味に話した。玲司と同じ色の茶髪を内巻きにした長髪。入院中の為、化粧をしていなくても綺麗な肌。丸目の大きな黒い瞳。通った鼻筋は玲司とよく似ている。和製美人の顔立ちだ。 「とりあえず、お疲れさん…緊急帝王切開で手術室に運ばれたって親父から連絡来た時はさすがに動揺したぜ…無事に産まれて何よりだ」 「麻酔でよく覚えてないんだけど産まれた瞬間のおぎゃーって元気な産声は覚えてる…一生忘れないと思う…その産声カードを押すと録音されたおぎゃーっがいつでも聴けるんだけどね」 「へぇ…今はそんなのがあるのか、すげぇな」 赤ん坊は手足をバタつかせて元気そうだ。ベッドの札には誕生日と生まれた時間、体重。そして爽太(そうた)という名前が書かれていた。 「旦那の名前が太一(たいち)だから一文字とって爽太」 「爽太か…父親譲りのいかした名前じゃねぇか、よろしくな」 「抱っこしてあげてよ、玲司は学生の頃から弟達の子守りで抱っこも慣れてるから安心して見ていられるわ…お父さんの時はお母さんにお父さんの腕ごと支えてもらったけど」 「その前にこれ…おめでとさん」 出産祝いを渡すと唯は驚いた表情で受け取った。 「えー!ありがとう!だって前にリクエストしておいたオムツ用のダストボックス送ってくれたから、あれだけでも良かったのに」 「あれは子育てに必要なもんだろ…兄貴も唯が好きなもんに使えるように別で包むって言ってたぜ、まぁ社会人組からの気持ちだと思って受け取っておけよ」 「お兄ちゃんには高めのおくるみ頼んだのに…あー、兄弟多くて得したわ」 「唯みたいに何が欲しいって言ってもらえると助かるって兄貴と話してたんだ、男には何が良いのか、よく分からねぇからな」 「うちの男たちはみーんな甘やかしよね、爽太がもう少し大きくなったら、叔父ちゃんにたくさん貢いでもらえそう…ほら、寝ちゃう前に抱っこ!写真撮らせて!」 「マジかよ…俺が写真嫌いなの知ってるだろ」 「まあまあ、こういう時くらい良いじゃない」 手を洗って消毒を済ませると爽太の頭と首を支えるように片手を差し入れ、もう片方の手を足の間へ入れてゆっくり抱き上げる玲司。 「ふぇ…」 一瞬泣きかける爽太。 「あーよしよし、初めて会う奴に抱き上げられたら驚くよな」 胸に爽太を抱えて腕で全身を抱っこすると、泣きかけた爽太がリラックスした様子で玲司をじっと見つめる。思わず微笑む玲司をスマホのカメラで撮影した唯は、弟と我が子の良い写真が撮れたと満足げだ。 「どっちに似てると思う?」 「目元は旦那で、口元は唯だな…っつーか何か少し大爺に似てる気がするな」 「あはは、私もちょっと思った」 「成長すると変わってくるだろ…当然だけど、どっちにも似てる」 「ねぇ可愛い?」 「そりゃあ可愛いに決まってるだろ」 「うん、ありがとう」 ベッドに爽太を下ろして自身のスマホでも写真を撮る玲司。珍しい光景に、更にそれを撮る唯。 「…なんで俺を撮ってるんだよ」 「だって玲司が写真撮ってるの珍しいもん、後で送るね」 「はいはい…それより親父とおふくろ、一緒に来た筈なのにどこ行ったんだ」 「ああ、休憩室で旦那と退院日のこと話してると思う」 「そうか、今日は日曜だから旦那も来てるんだな…俺も後で挨拶して来るか」 「玲司と同い年よね、確か」 「ああ、今年24なら」 「うん、同じ」 「結婚したって言っても実感がねぇんだよな…家が実家のほぼ隣だろ」 「母屋、離れ、我が家って感じ?…良いじゃない、田舎の土地は有効活用しないと!旦那の職場にも近いし…みんな結婚してお爺ちゃんの土地に家を建てたら、あの辺に亜南一族の集落が出来そう…まぁ私はもう苗字変わっちゃったけど」 「あり得そうで怖ぇ」 「玲司は?彼女とうまくいってる?そろそろ別れた?」 「……聞くなよ」 答え辛そうに声を絞った弟の反応で、破局を察した唯はふぅ、とため息を吐く。 「またなの?玲司って、モテる方なのになんで選ぶ子がもれなく素行に問題ありなのよ」 「今日その質問されるの2回目なんだよ、勘弁してくれ」 「もう少し視野を変えるか広めるかしなさいよね、案外近くにストライク決めて来る子が居たりするんだから」 「今のところ心当たりはねぇけどな」 「鈍すぎて見えてないだけじゃないの?いい?玲司、お姉ちゃんのアドバイス!何かを選ぶときにね、これ好きそうだな…とか、似合いそうだな…って真っ先に思い浮かべるような子は身近に居ないの?」 「…はぁ?」 「はぁ?じゃないわよ」 「…チビ達のおやつとかなら好み知ってるから、好きそうなの選ぶけどな」 「ちっがうわよ!おばか!でも、そう言うこと!家族みたいに思える人って事」 「違うのか合ってんのかどっちだよ」 「例えば旅行先でお土産選ぶ時に家族以外で最初に思い浮かべるのは?」 「職場」 「もお!そんなんじゃ、もし近くに良い子が居ても気付けないわよ!灯台下暗し!意識した事ない子でも、見方を変えると違う目で見れるようになるかもしれないんだからね…私も旦那とは何年もただの職場仲間だったの、最初は年下の男は弟みたいに思えて興味無かったけど、一緒に過ごす内に年下っていう事を忘れたら、旦那って頼りになる男だなって気づいた…その瞬間から旦那を男として意識するようになったのよ…急に雨が降ると、外回りの旦那が傘を持って行ったのか気になるし、食堂では好きな食べ物は何だろうってチェックしたくなる…それまで気にした事もなかったのによ?」 「おい…惚気話なら親にしてくれ」 「でも1番気持ちを自覚したのは、やっぱり嫉妬ね…彼が他の女の子と仲良さそうに話しているとモヤモヤして…」 「……」 「こほん!つまり、それまでの関係を思い切って壊して見るのもありって事!」 「だから心当たりがねぇんだって…仮に居たとしても今はそういう気にはなれねぇし、暫くはフリーでいい」 「あら、思ったより傷心中なのね…良いんじゃない?暫くフリー楽しむのも…でも、覚えておくのよ、新しい出会いも良いけど、実はもう出会ってる可能性もあるってこと」 「ああ、分かった分かった…これ以上、惚気話を聞かされる前に俺は帰るぜ」 「休みの日にわざわざありがとうね」 「どうって事ねぇよ…元気そうで安心したけど、無理するなよ?大人しく周りに甘えてろ」 「うん、そのつもり」 「じゃあ、またな」 「退院したら実家でお祝いしてもらえる予定だから、玲司も来なさいよー」 「ああ」 唯の個室を出て、唯の旦那に挨拶に行こうと休憩室に向かう途中、目に止まったドリンクの自販機。 (あ…そう言えば沙希が好きなミルクティー切らしてたな…帰りに買ってくか)

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