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第17話 姫ぇ!

『今から行っても良いですか?』 透流は、夜中に朔未から送られてきたメッセージに『どうぞ』と返すと間も無くやって来たパジャマ姿の来訪者を招き入れて苦笑した。必需品らしい枕と眼鏡ケースは持参だ。そして白くてモコモコとした羊のようなパジャマが可愛い。男性を一瞬で狼に変えそうだ。 「いらっしゃい」 「夜分に…すみません」 「気にしなさんな…来るかも、と思って起きてたから」 今朝、HeimWaldを騒がしている不審者を見た事は早々に連絡が来たので知っていたが、その後は何も言ってこなかった為、今のところ関わり無い透流としては静観していたのだが。やはり怖がりの先輩は、夜になると不安で眠れなくなったらしく駆け込んできた。 「…どうしても、眠れなくて」 「そりゃあ、直接対面しちゃったらね…ベッドにどうぞ」 一人暮らしなのでベッドは一つしかない。朔未は首を横に振った。 「…床で大丈夫です」 「俺、まだやる事あって朝まで起きてるから…」 「でも…」 「体痛くなるよ、仕事に響くんでない?」 「それは困ります!」 素直にベッドに乗ると持参の枕をセッティングする朔未。 「俺の部屋は、お泊まりには向いてないけどね…此処は半分、物置だから」 ごちゃごちゃと多国籍の雑貨が置いてある透流の部屋。うっかりぶつけて壊してしまいそうな物も多く、基本的に客が落ち着けるのはラグの上だけだ。 「確かに物は多いです…さっき、そこにぶら下がっていた干し柿にぶつかりました」 「干し柿じゃ無くて、モビールね」 透流はラグの上に胡座を組んでテーブル上で何か細かい金属の検品をしている。 「それは何ですか」 「んー?ハトメ」 「は、鳩の目?!今度は魔女のスープでも作るつもりですか…?俺には飲ませないで下さいね」 「俺のイメージが異界寄りになってるのは何でかね…ほらほら、もう寝な」 真剣に作業する透流を見て、朔未は大人しく眼鏡を外して片付けると掛布に潜り込んだ。 「あ…あったかい」 「此処なら、なーんも心配ないでしょ?ゆっくり寝て、明日の仕事に備えなさいな」 「はい…白檀、でしたっけ…透流くんの部屋の香り…落ち着きます」 「そ、俺も気に入ってる」 「…おやすみなさい」 「おやすみ」 掛布を抱き込んで目蓋を閉じる朔未。学生時代から幾多の男性のハートを射止めてきた可愛いという評価の容姿。それに悩まされてきた朔未の苦労も知っている透流は、成長すれば肉体的にも男らしさが伴って悩みも軽減されるだろうと考えていた。しかし、あれから数年。声意外は一向に男らしさが出てこない朔未が目の前で眠っている。しかも、どういう訳か可愛らしさは増していく一方だ。 「…透流くん」 「どした?」 「呼んでみただけです」 「起きてるし、ちゃんと居るから大丈夫」 「…はい」 作業用のテーブルライトだけ残して、部屋の照明を落とす透流。暫くして眠りに就いた朔未を確認すると口元で微笑する。 (愛情は拗らせると、厄介だからね…) テーブル上にあるハトメの金具。大半は形の整った良品。その中に紛れる1つの歪な不良品を取り除く。 月が、雲で隠れる不気味な夜。 「……この辺りの筈」 ペタ、ペタ、と人の足音と何かを探すような声が聴こえた。今日も玲司の部屋に泊まっていた沙希は窓の外から僅かに聴こえたそれに気付いて目を覚ます。 すぐに以前、笑武達と話していた不審者の存在が頭をよぎる。静かにソファーから起き上がって閉まっているモスグリーンのカーテンを見つめた。 (誰か居る) 微かにだが、裏から人の気配がした。沙希はベッドで眠っている玲司の元に歩み寄って肩を軽く揺する。閉じていた玲司の目がゆっくり開いてぼんやりと沙希を映す。 「…どうした、一緒に寝るか?」 「は?!」 大きめの声が出てしまって自分の口を両手で塞ぐ沙希。 「ん…ああ、沙希か…悪い、寝ぼけてて美鈴と間違えた」 「あー…そ、そんなん…分かってるし」 不意打ちの誘いに赤くなった頰は部屋が暗かった為、バレずに済んだ。 「どうした?」 起き上がりながら聞く玲司に沙希は不意打ちのせいで一瞬、忘れかけていた報告を思い出す。 「あ、そうだった…起こしてごめん…何かさ、誰か居るかも」 カーテンを指差す沙希に玲司もすぐ、例の不審者を思い付いてHeimWald全室に備え付けられている非常時用の携帯式懐中電灯を手に取った。 「見て来るから、お前は中に居ろ」 「俺も行く」 「危ねぇ奴かもしれないだろ」 「だから1人で行かせたくないって言ってんの!」 絶対に1人では行かせないと玲司の腕を両手で掴んで止める沙希。 「…分かった、行くぞ」 「あ、ちょっと待った」 沙希は傘立てから1本、傘を抜いて護身用にする事にしたらしい。足音が聴こえたのは駐車場のある建物の裏側。正面から駐車場に続く通路を通るか、隣接する私有地から車より高いブロックを乗り越えて入るしかない場所だ。民家も多い隣接の私有地から出入りするのは足場が有れば可能かもしれないが、現実的ではない。 「そこに誰か居るのか?」 自身の部屋の裏あたりを懐中電灯で照らす玲司。 「っひゃうぅ!?」 急に明かりに照らされて驚いた人影がトレードマークの白いパーカーのフードを被って屈み込んだ。フードの上から頭を抱えてガタガタと震えている。 「はぁ…なんだ、花結じゃねぇか…こんな時間に何してるんだ」 野球の打者のように傘を構えていた沙希もホッと肩の力を抜いて傘を下ろす。 「…こ、こちらのセリフです…いきなり、何をするんですかぁ…ま、眩しい」 「お前も不審者の事は知ってるだろ、物音がしたから見に来たんだよ」 答えながら花結に当てていたライトを足元に外す玲司。 「あ…あの、自分は落とし物を拾いに…」 「何を落としたんだ」 「金テです」 「金テ?」 「はい、好きな歌い手のライヴが近くのホールでありまして…自分は惜しくも金テを取れなかったのですが、まさに奇跡…自分の、服のフードに金テが入っていたのです…夜風に当たろうとバルコニーに出たら、風で金テが舞い…この辺りに落ちていきました…金テには歌い手の限定メッセージが印刷してあるのです!何としても、探したい…非常灯とスマホのライトでは限界があります、亜南氏、その懐中電灯で共に探してくれると助かります…何卒!」 「……うたいて?歌手か?」 花結の好きなジャンルには詳しくない玲司には花結の熱弁が外国語に聞こえる。何を探せば良いのかも分からず困り果てる玲司に、沙希が小声で囁く。 「とにかく金テ探してやればイイんだって…コンサートの盛り上がるトコで発射される金テープ」 「ああ、あれか…」 金テが何かを理解して懐中電灯で周囲を照らしてやる玲司。沙希も近くを歩いて探してみる。 「あ、なぁなぁ…アレじゃね?」 間も無く笑武の部屋のバルコニーに引っ掛かっている金テープを指差す沙希。 「何と!まさにです…地面ばかり見ていて気付きませんでした」 花結が嬉しそうに笑武の部屋のバルコニーに駆け寄って金テープを掴み取った。金テープに夢中で、カーテンが開いた事には気付かずに、ふふふと声を抑えて喜びに震えながら笑っている。 部屋の中から見れば、カーテンを開けた先の暗がりに、よく幽霊と間違われる花結が立っていて、しかも薄ら笑いを浮かべているのだ。ホラーに等しい。物音と人の声で目を覚ましてカーテンを開けてしまった笑武はまたしても恐怖に見舞われて失神しかけた。 「あ、笑武…」 失神寸前の笑武に気付いて、沙希が苦笑して手を振った。 「…………ッ!っは…はぁ、はぁ…心臓が止まるかと思った…2回目」 3-D号室の黒髪の幽霊に続き、花結にも驚かされて笑武は力無く窓を開けた。 「あ…起こしてしまい申し訳ないです…栄生氏…なんとも可愛いらしい姿ですね」 お気に入りの黄色いクマのキャラクターに変身できる着ぐるみ風パジャマ。ハロウィンのような服装を部屋着にしているのを思わぬ形で知られてしまった。恥ずかしそうにカーテンで服を隠す笑武。 「こ、こんばんは…3人とも、もう夜遅いよ」 「マジごめん、足音が聞こえたから見に来たら花結が落し物して、探してたんだって…もう見つかったから戻るけど」 「それなら良いけど…俺も、不審者が来たのかと思って驚いたよ…寒いから早く部屋に戻って休んでね、おやすみ」 笑武が窓を閉めようとした時、今度は正面の方から物音が聞こえた。しかも、足音どころでは無い。ガタンガタンと何かが暴れているような音だ。 「今度は何だ…」 再び懐中電灯片手に正面の方へ戻る玲司達。笑武は一足早く部屋の中を正面の玄関側へと急いでドアを開けた。 「え!」 目の前を掴み合いの状態で通り過ぎた2人の人影。一瞬で誰かは確認出来なかったが、とにかく止めに入ろうと部屋を飛び出す。 「ちょーっと目移りしただけだよねぇ…良いんだよ姫、許すよ」 (あの人は!) もう覚えてしまったニット帽の不審な中年男がそこに居た。誰かに詰め寄っているようだ。笑武は後ろから中年男のジャンパーを両手で掴んで思い切り引っ張り、奥にいる姫と呼ばれている人物から引き離す。 「お前…お前が姫を誑かしたのかぁ!」 「朔未さん!逃げて……うわ!」 振り向いた中年男は意味不明な事を言いながら笑武に掴みかかった。押し負けてどんどん後ろに体が持っていかれる。 「姫は、僕のものだ…お前なんかに、渡すものかぁ」 (凄い力…体が大きいから、俺じゃ押し返せない) 行き止まりの花壇まで後退すると、低木に押し倒される笑武。冬場なので花は咲いていないが低木の細い枝がパキパキと折れる音がした。 「笑武…?!誰だよ、お前!笑武を放せよッ」 駐車場から回って来た3人が、駆けつける。沙希は手にしていた傘の持ち手側で中年男の脇を突いた。 「むぅう…お前なのかぁ!」 今度は沙希に向かって来る中年男。その顔に懐中電灯の光が当てられて血走った目元がはっきり見えた。眩しさに怯んだ隙に玲司が中年男を突き飛ばして笑武と沙希から遠ざける。 「笑武、立てる?」 沙希の手を借りて低木の中から起き上がる笑武。 「ありがとう、沙希さん…でもアストさんに叱られるかも」 花壇の管理は本来、管理人が行うのだが。管理人が離れて住んでいる為、アストが小まめに世話をしているのだ。その花壇の低木を一部潰してしまった。 「悪いのアイツじゃん」 中年男を睨みつける沙希。 「あいつ、相当酔ってるぞ…お前ら気をつけろよ」 玲司が伝えると笑武も頷く。 「うん、近づいた時かなりアルコールの匂いがした」 中年男は真っ赤に充血した目で4人を見回した。 「言えぇ…誰が僕の姫を誑かした」 「ひっ…」 怖いと感じる人間と目が合うと反射的に怯える花結。前に立ってくれた玲司の背に引っ付いて隠れている。 「あの!酔ってるみたいですが、俺たちは貴方の姫を誑かしたりしてません、言いがかりです」 笑武が言うと、中年男はムキになって話し始めた。 「嘘だ…姫が言ったんだ、自分の意中の人は、いつも自分の近くに居ると!」 「だからー、その姫って誰なんだよ!ヴァルトは男しか住んでねぇし、誰もおっさんのこと知らないらしいんだけど?」 沙希が苛ついた口調で聞く。しかし、その質問に答えたのは中年男ではなかった。 「余計な事を…野次馬は大人しく部屋に戻れ、これは俺が片付けておく」 「え…その声…あ、葵さん!?」 笑武が部屋を出た時に中年男に襲われて姫と呼ばれていた人物は、朔未ではなく葵だった。非常灯から外れた所にいる為、暗くて姿はよく見えない。 「ここはテーマパークか?…よくそんなふざけた格好で外に出て来れたな」 「っ……だって、止めなきゃと思って」 黄色いクマの部屋着を指摘されて恥ずかしそうに俯く笑武。 「え?別に可愛いからイイじゃん」 「沙希さん…可愛いって言わないで」 「それが助けてもらった奴の態度か、ちゃんと説明しろよ…」 「…ッ」 玲司の懐中電灯が葵を足下から、ゆっくり上へと照らし出す。 底厚のスニーカー靴は、揉み合った時に脱げたのか片方しか履いていない。そのせいでバランスが悪く姿勢が傾いている。黒いパンツに袖の縫い目が破れた星空柄のパーカー。中に着ていたシンプルな白いヘンリーネックのシャツはボタンが千切れて浮き出た鎖骨を露わにしていた。よく見ると手や首に擦り傷も見える。黒いマスクで顔の下半分は隠されているが、目元と輪郭だけでも美形だと分かる。 細く吊り上がった眉。一同を見る冷たい視線を放つ目は綺麗なアーチを描く二重のアーモンド型。そして瞳は印象強いガラスのような桃紫。柔らかい毛質の青紫の髪はウルフカットにされていてフードを脱ぐと意外と長く、頸が隠れるまで伸びている。 「…大丈夫か」 「大丈夫に見えるか?…気に入っている服を酒漬けの豚に駄目にされてムカついている所だ、おまけに野次馬までぞろぞろと現れたしな」 予想以上に激しく抵抗した痕跡が見て取れる葵。口では大丈夫と言っているが、笑武達が助けに入らなければもっと傷が増えていただろう。 「葵さん、怪我してるんですか!どこか痛みますか」 「強がってるけどさ、ボロボロじゃん…笑武に手当てして貰えば?」 「必要ない…そこの豚の名前は浮田(うきた)、俺の勤めるダーツバーに来ていた客だ」 浮田と呼ばれた中年男は葵に名前を呼ばれると嬉しそうに振り向いた。 「姫!僕の名前、覚えててくれたんだね!」 「出禁リストの客は覚えるさ、店から締め出したら今度は家を嗅ぎ回り始めた…二度と顔を見せるなと言った筈だ」 「僕はただ姫に逢いたくて」 「そうか、俺は逢いたくない」 「僕は、家族からも馬鹿にされて、職場でも怒鳴られてばかりで、お酒くらいしか楽しみがなかった…だけどバーで姫と出逢って新しい自分に目覚めたんだ…知ってるよ、姫が僕にいつも愛のメッセージを送ってくれていた事」 「愛の、メッセージだと?」 「僕が行くと、いつも店のピアノを弾いてくれたじゃないか…あの曲名を調べたんだ、マルティーニの愛の喜び!愛の喜びだよ!」 葵は自身のこめかみを指差す。 「(ここ)の中身、どこに落とした」 「さぁ、姫…僕と行こう…此処は空室が無かったから2人のために部屋を借りたんだ」 葵に両手を広げながら歩み寄る浮田。 「寄るな、俺があの曲を捧げていたのだとしたら…それは、お前にじゃない」 「葵さん!煽らないでくださいっ」 今回は強めに忠告する笑武。朝とは何か違う、嫌な予感がしたのだ。 「姫…姫」 酒のせいもあるだろうが、我を失っている。助けに入ろうとした玲司の体にしがみつく花結。 「ううぅ…自分から離れないでください…変質者は生理的に無理でずぅ」 「花結!」 涙声の花結を無理やり引き剥がす事も出来ずに焦る玲司を見て、沙希はため息を吐くと傘を構えた。 「今のうちに部屋に入ってカギかけろよ!」 傘の持ち手で浮田のジャンパーの襟を引っ掛けて足止めする沙希。葵は後退りして逃げようとするが、それを見た浮田は加速してしまった。 「どこに行く気だい、姫ぇー!」 「ウソ…」 そのまま後ろに引き倒すつもりが重量のある浮田を引ききれず、沙希の方が引っ張られる。 「邪魔するなぁ!」 襟に掛かった傘を外して振り向くと沙希から傘を奪って石突きの方を向ける浮田。沙希の額に冷や汗が浮かぶ。 「笑武、花結を頼む!」 「あ、玲司さん!」 花結を懐中電灯と共に笑武に引き継いで沙希と浮田の間に駆けつける玲司。突き出された傘の先端は間一髪、沙希の顔に届く前に玲司に浮田の腕ごと押さえ込まれた。 「てめぇ、何て事しやがる!」 「尖った方を人の顔に向けるなんて…もし目に当たっていたら」 笑武が青ざめて呟く。花結は見ていられないと笑武の背中に顔を埋めた。沙希がふらり、と蹌踉めいて地面に座り込む。顔を傷付けられる事で、母親に愛される唯一のものを失うと思っている沙希には向かってくる傘の先端はショック状態を起こすほどの恐怖だった。 「沙希!」 浮田から傘を取り上げ、座り込んだ沙希に肩を貸して立ち上がらせる玲司。足に力がうまく入っていないのかほとんど玲司が抱えている状態。笑武にも花結が強くしがみついている。これでは、全員身動きが取れない。 (どうしよう…このままじゃ、葵さんを守れない) 葵は自分が逃げようとした事で他の住人達に危害が及びかけたのを見て、逃げずに対立を選んだようだ。先ほどまでの余裕は感じられない。 「…やめろ、俺に近づくな」 「どうしたんだい…姫、ほら…こっちにおいで」 「やーっと、出てきたね…そろそろ我慢が効かなくなる頃だと思ってたけど」 言いながらゆっくりと階段を降りて来る透流。気怠げそうに溜息を吐くと葵の前に立って向かってきていた浮田と対立する。 「ふひ?!」 新たな邪魔者に敵意剥き出しでフーフーと鼻息を荒くする浮田の襟首を掴み上げる透流。 「静かにしてもらえるかな…すぐに警察が来る、もう逃げられないよ」 「…東」 「やあ…最近、店に行けてなかったから久しぶりだねぇ」 「あ…ああ」 「お前は…バーで姫と、よく話していた奴!そうか…やっぱり、お前だったのかぁ!姫を誑かしたのは!」 2人の様子に嫉妬して、浮田は怒鳴りながら透流の手を払い除けた。そして一度距離を取って、タックルで突撃する。 「透流さん!」 「面倒な事には関わりたくない方なんだけどね…先輩が寝不足でクマ作ってるの、見てられないでしょ…」 浮田のタックルを前蹴りで崩して距離を空けると、そのままミドルキックを命中させる透流。 「ぐふ!!」 腹に受けた衝撃で浮田は後ろにひっくり返って倒れた。腹の酒が逆流して来たのか呻いている。 「透流さん…強い」 普段、怒った所を見たことも無い穏やかな透流のイメージが塗り替えられた。 「おや、お揃いで…」 「透流さん、葵さん…無事で良かったです」 「外が騒がしいと思ってね…サクミンが眠っててくれて良かったよ、あの子は怖がりだから」 「東氏は、あの男を知っていたのですか?」 「いんや、視界には入った事があるかもしれないけど記憶には残って無かったね…葵君の勤めてるダーツバーは、俺の工房の近くに在って…散歩ついでに時々寄ってたから君らよりは話した事があるって所かな」 「コイツらとは話す必要が無い」 「ははっ…こんな感じのお人だしね」 「でも葵さん…自分が姫だと分かっていたなら、どうして言ってくれなかったんですか…」 「俺が姫だと手でも挙げれば良かったのか?…黄色いクマで出歩けるお前と一緒にするな、俺には羞恥心もプライドもある」 「う…俺の服には、もう触れないで下さいっ」 「巻き込みたく無かったんでない?自分だけで片づけば、それで良いと思って言わなかっただけでしょ…結果的には大失敗だけどね」 「黙れ、違う」 「はいはい…まぁ葵君が言わなくても、最初から手紙に『姫、愛してる』って答えが書いてあったんだけども…ねぇ?」 「東!」 「どういう意味ですか?」 「どういう意味ですか?」 笑武の質問を透流が繰り返す。葵は透流をギロリと睨んだ。 「……姫だ」 「え?」 「(ひめ)(あおい)…それが俺の名前だ」 「ひ……姫って、葵さんの苗字だったんですか」 「俺は男だ、姫と言えば思い浮かぶのはプリンセスの方だろう…羞恥心はあるが、生まれた時から授かった名前だ、姫としてのプライドもある…名乗らないのは無駄な揶揄を避ける為だ、この名前を嫌悪している訳じゃない」 「…あ、自分は気持ち分かります…花結も、女性と間違われる事ありますから…でも、自分はこの名前…気に入ってます」 「一緒にするな…学生時代ずっと葵姫と呼ばれていた俺の気持ちが分かるか」 「ひ、ぅ…すみません」 「店ではみんな、葵君のこと姫って呼ぶから…彼もそう呼んだんでないかな…」 「店で、何度か言い寄られた事がある…やめるよう警告しても改善がされなかった、だからマスターに頼んで出禁にしてもらったんだ…あれでも既婚者、まさか家まで嗅ぎつけて来るとは思わなかった…不可抗力とは言え迷惑をかけた、それに関しては詫びてもいい」 「1番、迷惑を感じていたのは葵さんだと思います…きっと怖かったと思うし」 「透流…お前も勘付いてたなら助けてやれよ」 「俺は君と違って面倒な事には関わりたくない性分なんでね…今回はサクミンの安眠を取り戻す為に動いたけど…例外だと思ってくれるかい」 「はぁ…お前らしいな」 「玲司さんは面倒見が良いから……ん?」 笑武は葵達の背後でむくりと立ち上がった浮田に一早く気付いた。ジャンパーの下の作業着から包丁を取り出している。 「…僕に応えてくれないなら、僕は…姫と一緒に」 「刃物!葵さん、逃げて下さい!」 「さ、栄生氏ぃ…自分達も逃げるんですよ、出来るだけ遠くまで行きましょうぅ」 泣きながら笑武の腕を引っ張る花結。 「はい!…でも、もしもの時に沙希さんが走れない」 「俺は大丈夫…ちょっとヒヨって腰抜けただけ…追いつくから、先に逃げろよ」 「そんな!」 「玲司も…いいよ、先に行っ……え?!」 肩を貸してくれている玲司にも先に逃げるよう促す沙希の言葉を遮って玲司は沙希の前に背を向けて屈む。 「沙希、早く乗れ…お前くらい背負っててもアイツよりは速い」 「…あ…ありがと」 安心した表情で玲司の背中に負ぶさる沙希。 「危ない時はフォローするよ…離れよう」 浮田を刺激しないようにゆっくり距離をとる一同。道路の奥でパトカーの赤いサイレンランプが見えた。 「ふひ…ひ、ひ…姫ぇぇ」 包丁片手に葵ににじり寄る浮田。 「葵さん!動いて、逃げてくださいっ!」 「…動けるなら、そうしている」 片足だけ履いていた厚底靴が挫けて、ぺたんと尻餅をついてしまい目を瞑る葵。赤いランプに照らされる浮田が包丁を振り上げる。 「葵さん!!」 「ちょーっとアンタァ!私のハニー達に何してくれてんのよーぅ!」 「だ……っ?!」 浮田の背中に決まる見事な正拳突き。いつの間にか浮田の背後には白のフリル付きのワンピースパジャマ姿の律紀が居た。寝る前だったのか、すっぴんだ。振り向いた浮田の顎に律紀が怒りの底掌突きを入れる。ギャフ、と漫画のような声を上げて浮田の体がよろけた。 「止まった!今よ!お願いアストちゃん!」 「任せてください」 「ぐうぅ…ふひ?!」 立て直しの時間を与えずにアストがエントランスから取り出して来た消火器を浮田に向けて噴射した。消火剤の粉末が浮田とその周りを包み込んで視界を奪う。その隙に透流は葵の腕を引き上げて立たせると、ちょうど到着したパトカーが壁になるよう反対側へと移動させる。既に同じ場所に避難済みだった笑武達と無事に合流出来た。 「葵さん、大丈夫ですか」 「ふん…靴が揃っていて…足を痛めていなければ1人で逃げていた」 「は、はい…大丈夫そうで良かったです」 消火剤の粉末で視界を奪われて目を押さえる浮田の腕を捻り上げる事で包丁を落とさせた最後の助っ人。風に流れる粉末の中から現れた勇大の姿はまるで霧でも纏った閻魔大王のような迫力だった。 「包丁を、人に向けるな!!!」 調理道具を凶器にされた事に怒りを爆発させる勇大。浮田は恐怖で失禁するほど震え上がった。 「ふ、ふひいいいい!」 勇大の一喝ですっかり酔いが覚めたのか、警察に連行される際には気弱で大人しい本来の性格に戻った浮田。何度も頭を下げて謝りながら連れられて行った。 「みなさん、ご無事で何よりです…これでもう、あの人はヴァルトに近づけなくなるでしょう…消火器は速やかに新しい物を取り付けてもらいますね」 消火器を片付け終えたアストが手を払いながら声を掛ける。律紀と勇大も安堵した表情で頷く。 「マイハニー達!怖かったでしょう?気づくのが遅れてごめんなさいね…アン!もう!あいつの股間を蹴り上げてやりたかったわ!…キャ!?私ったらスッピン!」 慌てて顔を覆う律紀。 「律紀さん、凄かったです!さっきの空手の技ですよね!」 「んふ、ありがとう笑武ちゃん…私が帰ってきたからには安心してって言ったでしょ?」 「すまんな…目に悪いもんを見せちまった…トラウマにならねぇと良いが」 やっと泣やんだ花結の頭を撫でる勇大。 「…ぅ、う…なんとか、大丈夫です…」 通報者の透流と被害者の葵は事情聴取の為、警察と話している。 「終わったんだ…不審者事件…良かったぁ」 周りを確認して気が緩みヘナヘナと座り込む笑武。 「笑武君!大丈夫ですか」 「はは…すみません、安心したら力抜けちゃって」 「僕も安心しています、ヴァルトの平穏と朔未さんの安眠が守られました」 「やれやれだな…俺たちはもう部屋に戻るぜ…沙希を休ませてやりたいしな」 「そうだった!…沙希さんは大丈夫?まだフラフラする?」 「だいじょーぶ…腰抜けるとか情けないよな」 「ううん、あと少しで目に突き刺さってたかも…あんなの俺でも腰抜けてたよ」 「もう落ち着いたから歩けると思う…」 「まだ心臓が落ち着いてねぇのが伝わってきてるぜ…無理するな」 「そ、そんな事ないって」 (玲司さん、そのドキドキは多分…玲司さんのせいだと思う) 浮田が刃物を出してから、ずっと玲司に背負われている沙希が落ち着くわけがない。密着しているのでドキドキと高鳴る鼓動の速さも伝わるのだろう。しかし玲司は、沙希がショックで頻脈を起こしていると思っているようだ。 「朔未さんが起きてこなかったのは幸いですが、この非常時に善が不在とは…こういう時は役に立つ男なんですが」 「夜勤だから仕方がないよ…善さんは冷静だもんね、居てくれたら心強かったかも」 「いえ、あの人は連絡ひとつで、どこからか雇われSPみたいな黒服を呼べるので」 「……予想を斜めに上回ってた」 大混乱の夜が更けていった。 その頃、噂をされているのも知らずに善はrosierでいつも通り接客に努めていた。チカという常連客が話の流れで見せてきたスマホの画面。それは以前、新人ホストが話題にしていた女装クラブで撮ってきたという物だった。 「ロジエが混んでたから興味本位で入ってみたんだけどね、サクラちゃん、すっっごい可愛くて!チカ負けそう!って感じ」 「……!」 そのサクラの画像に善は一瞬、動揺したように目を細める。フルウィッグだろうリボンで左右に結われた明茶のツインテール。長い睫毛や二重のぱっちりとした目元、濃茶色の瞳。右目尻にあるホクロと女性的な顔立ちは化粧をしていると本物の女性そのものだ。そこに、想像で黒いフルフレームの眼鏡を掛けさせてみる。すると、見知った人物とその姿が重なった。 「夕くーん?どうしたの?まさか、サクラちゃん気に入っちゃった?」 「まさか…チカちゃんの方が可愛いよ」 「本当?嬉しい!」 「俺と話すより楽しかったとか言わないよね?」 「チカは夕くんと話してる時が1番幸せだよ!サクラちゃんとはガールズトークしてきただけ!でもサクラちゃん大変そうだったなぁ…週に何日か昼の仕事と掛け持ちしてるんだって、でも人気が出てきたから出勤増やすように言われてるみたいでメイクで隠してるけど目の下とかクマできてたもん」 「…そう、あまり無理しないと良いけど」 「あ、仕事と言えばー!今日職場でねッ…」 チカの話を聞きながら、善は再度確認する様にテーブルに置かれたチカのスマホに写るサクラを見た。見れば見るほど、疑いは確信に変わっていく。 (………どうして君が夜に…朔ちゃん) 白檀の香りに抱かれて久しぶりの安眠に身を委ねている朔未。浮田の件が片付いて戻ってきた透流は疲れ切った寝顔の朔未を見て心配そうに溜息を吐く。 「さて片付けて来たよ…ねぇ、サクミン…これで君の睡眠不足、解消されるかね」 普段、他人に干渉はしない透流が積極的に不審者解決に動いた理由。それはただひとつ、不審者に怯えて睡眠不足だと言う朔未の目の下に出来ていたクマを消してやりたい。それだけだった。 交差してすれ違う想い。 夜にふらりと舞い落ちた可憐な花。

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