25 / 25

第25話 それぞれの新年

「ねー!俺、鍋に水入れただけー!」 「あ、ごめんごめん!じゃあ蒲鉾切ってもらっていい?」 「えっ?!むり!包丁持つ系はパス」 「それじゃあ、そっちの鍋につゆ入れて」 大晦日。年越しを一緒に過ごすため、泊まりに来た沙希と共に年越し蕎麦を作る笑武。しかし普段はキッチンに立つことが殆ど無い沙希はつゆと蕎麦の鍋を交互に見守っているだけだ。 「あは!いい匂いしてきた!」 「思い出すなぁ、沙希さんと初めて会った時もうちで引っ越しそば一緒に食べたよね」 「あれな!そんなに前の話じゃ無いのに、もう懐かしいかも」 「そうだね、たくさん会ってるし」 「俺のことパンチパーマの恐い奴だと思ってたの忘れてないからな!」 「う、ごめん…」 「お詫びに海老天、大きい方ちょうだい!」 「あはは、いいよ」 「笑武はさ、実家に帰んなくていいの?お正月くらい顔見せろって言われない?」 「うん…今年は両親、年末年始の休みを利用して旅行に行くみたいで」 「そっか」 「ヴァルトも人が少ないから、ちょっと寂しいね」 「半分くらい居ないよな」 盛り付け前には沙希はテレビの前に移動していた。鍋の番人に飽きたらしい。 「沙希さん、出来たよ」 沙希の方に海老天の大きな方の年越し蕎麦を置く笑武。 「ありがと!」 テレビでは歌番組が流れている。年越しの瞬間は出演者達がカウントダウンを取る毎年恒例の長寿番組だ。 「あ、箸」 笑武が沙希の分の箸を取りに行こうとした、その時。ニュース速報がテレビの上の方に流れた。多重事故による国道通行止めの知らせだ。 「え…」 それを見て沙希が慌てた様子でスマホを手に取り、どこかに電話を掛け出した。 「ん?誰かに電話?」 「……あ!玲司!大丈夫?!」 『沙希?どうした』 「ごめん…ニュース速報でさ…玲司の実家の方で事故があったって出てきたから」 『事故?…ああ、ニュースやってるな…うちとは離れてるし、親戚と飲んでるから今日はもう乗れねぇよ』 「そっか、よかった…って言うか、お酒飲んでんの?」 『今日は付き合い…あ、お前は飲むんじゃねぇぞ』 「飲まない!美味しくないし」 『で、心配して掛けてくれたのか?』 「心配って言うか…気づいちゃったからさ…安否確認しただけじゃん」 『ははっ、なんだそれ…そっちは?笑武と楽しくやってるか?』 「あ、うん!一緒に年越しそば作った!」 『笑武が作った、の間違いだろ』 「俺も手伝ったし!余裕だし!」 『じゃあ今度、俺にも作ってもらうか』 「う…1人では無理」 『包丁持てないもんな、お前』 『ねぇねぇねぇ!誰?新しい彼女?』 玲司の親類らしい女性の茶化す声が聞こえる。 『うるせぇな、人の電話中に割り込んで来るんじゃねぇよ』 『あははは!ねぇねぇ、みんな!玲司が彼女と電話してるー!』 『そりゃ何代目の彼女だ?!玲ちゃん!』 「…なんか、めっちゃ後ろで騒いでる」 『ああ、悪いな…叔父さん達が出来上がってる、もう切るぞ』 「あ、うん…」 『心配してくれて、ありがとな』 「だから、安否確認だって!」 『なんでそこ意地になって否定すんだよ…まあいいか、お前らも良い年迎えろよ』 「うん、笑武にも伝えとく…せっかく家族で楽しんでたのに、邪魔してごめん」 『今年最後に聞くお前の声が、ごめんは無しだろ』 「…じゃあ、良いお年を」 『ああ、良い年迎えられる気がしてきた…また来年な』 電話を切ってからもスマホのホーム画面をじっと見ている沙希の前に箸を置く笑武。 「声を聞くと、寂しくなっちゃうよね」 「は?!別に寂しくない!早く年越しそば食べよ!お腹すいた!」 「うん、そうしよう」 久しぶりの休日。一服しようと駐車場の喫煙所にやって来た善は先客に驚いて目を丸くした。 「透流…あれ?帰省してなかったんだ」 「やあ…こんばんは、帰るよ明日」 「ああ、そうなんだ」 家でも職場でもヘビースモーカーの善に対して透流は稀に外で吸う程度だ。喫煙所で遭うことも珍しい。 「ともかくも、あなたまかせの、年の暮れ…」 「俳句?」 「しばらく考え事をしてたんだけどね…考えても、どうしようもないって気づいたとこ」 「へぇ、透流でもそんな事があるんだね」 「ちょいと、それどういう意味よ」 「ふっ、いやゴメン…透流が何かに行き詰まるの、珍しいから」 「そうねぇ…ひとりで考えてるから先に進めないのかもしれないね…参考までにキミの意見も聞かせてもらえる?」 「いいよ、何?」 透流からの提案を善は煙草を取り出しながら快諾した。 「賦香率高めのフローラルウッディ、俺は使わないから詳しいブランドまでは知らないけど…キミがいつも使ってる香水と同じ香り…珈琲の香りを楽しむのには、さすがに邪魔だと思わないかい?」 その質問に含まれた意味をすぐに汲み取って、善は咥えた煙草に火をつけ透流を見る。返された視線は口調の優しさと合わず奥の方に確かな怒りを宿していた。 「そうだね、純粋に嗜みたいなら邪魔だと思うよ…ブレンドにこだわって飲むくらい好きな子なら特にそう思うんじゃないかな」 質問を言葉のまま受け取った答えが返る。 「やっぱそう思うよねぇ…」 「朔ちゃんには何もしてないよ」 濁した名前を突き立てられて今度は透流が驚く。 「…」 「…って、言って欲しそうだね」 「っ、あのねぇ…」 「してないよ…には何もしてない」 透流の眼から、まだ怒りは消えていない。しかし半信半疑のままカマをかけたのだろう。それ以上の追求もなかった。 「そ…なら釘刺しとくけど、ちょっかい出さないでもらえる?あの子はどうも、口が上手い男に弱いみたいだから」 「言い方」 「半分は褒めてんのよ、誰かの心を動かす…おいそれと出来ることじゃない」 「俺はただ付け入るのが上手いだけだよ…だけどそれで救える部分もある…麻酔みたいなものだね、俺に捕まる子はみんな、痛みを忘れられる時間が欲しいんだと思うよ」 「麻酔…ね」 「そんなに心配なら本人と話してみたら?」 「んー…それが難しいとこでね、近すぎると出来ない事もあるでしょ?それに俺、他人様の内情に深入りするの苦手だから」 「でも朔ちゃんに俺の影がチラつくのは面白くないんだ」 「善だと少し話が変わってくるんだけどね……はぁ…サクミンが可愛いのは昔からなのよ、普通に歩いてるだけなのにナンパに痴漢に盗撮被害、飲みかけのペットボトルを盗まれた事もあったっけ…その度に本人は慣れましたって笑うけど、顔色は真っ青でさ…そんな姿を見てきてるから、せめてこの手が届く範囲くらいは悪い虫追っ払ってあげたくもなるでしょ…なんとも、俺らしくはないけどね」 「それじゃあ俺がもし、朔ちゃんに酷いことしてたら…どうしてた?」 「…ってのを考えてたのよ、君を悪い虫とするかどうか…話が振り出しに戻っちゃったねぇ」 ゴーン、と何処かの寺の鐘が鳴った。 「除夜の鐘…意識して聴いたの久しぶりだな」 「って事は、もう年が明けるね」 ゴーン、ゴーンと煩悩の数を重ねる音。 「透流は、朔ちゃんが好き?」 「んぇ?なんか最近も似たようなこと言われたけど…恋愛感情の好きは無しよ、腐れ縁で手のかかる、可愛い先輩ってだけ」 「そうなんだ、じゃあ俺の気のせいかな…嫉妬してるように見えたから」 「嫉妬?」 「慣れてるんだ、そういう目で見られるの」 自嘲気味に笑う善。彼もまた、朔未とは違う理不尽に慣れているのだと解る。 「なるほど…君も痛みを忘れたいから、誘うんだね」 「……」 「あー、これは…やっぱり、どうしようもないかねぇ」 年が明けるその時、煙草の煙越しに見た善は見慣れた優しい微笑みではなく、どこか寂しげに笑っていた。 そしてまた鐘が鳴る。抗い難い欲望の音。 『明けましておめでとう』 新年を迎えてすぐ届いたメッセージ。笑武は既読をつけて、同じ言葉を返した。 「さっそく、誰かとあけおめしてんの?一番取られた」 「あはは、二番でもいい?沙希さん、明けましておめでとう」 「ん、おめでと…笑武」 玩具のミニホッケーが引き分けたところで明けた年。お互いの新年の挨拶より優先されたメッセージが気になったのか、沙希がにやりと笑って笑武の隣にくっ付くように座る。 「わ!ど、どうしたの」 「だって笑武、ちょー嬉しそうな顔してるからさ…一番が誰か聞いてイイ?」 「ああ、うん…父さん」 「えー…」 期待していた答えと違ったらしく、つまらないと眉尾を下げる沙希。 「なんか、期待はずれだった?…結局、父さんとは去年は一度も会えなかったな」 「そうなの?笑武って実家遠かったっけ…親や兄さんとは仲良いんだろ、たまには連絡して会ったりしねぇの?」 「…あー、えっとね…メッセージくれた父さんは、俺の方の父さんなんだ」 「?」 「父さん2人いるんだ、メッセージくれたのは血の繋がってる方の父さん」 「ぇ…それ、無理に言わせちゃった?ごめん!」 「ううん、別に隠してないから…それにどっちの父さんとも仲良いよ」 「そっか、じゃあ今年はどっちともいっぱい会えるとイイな」 「うん…そうだね、会いたいな」 会いたい、そう言った笑武の声音は切実に聴こえた。 「笑武…?」 「さてと、どうする?沙希さん、ホッケーの続きやる?」 「やる!決着つけて神社に甘酒もらいに行こ!」 「初詣に行こう、じゃなくて?」 「細かい事は言いっこなし!」 「はいはい」 近くの神社では、振る舞いで甘酒が配られる。普段は疎な境内が人で溢れるのも非日常的で高揚感があるものだ。2人は新年一発目の勝負に決着を付けてから外に繰り出した。 と言っても、沙希が勝ち越すまでゲームが終わらなかったので笑武が指が疲れた等と適当な理由をつけて棄権したのだが。 元旦。 新年というものは少なからず人々の心を煽る。普段は日の出なんてわざわざ早起きしてまで見ないのに、初日の出となると拝みたくなる。そういうものだ。 「眠くない?大丈夫?」 「平気だ、来る前に寝ていた」 薄茶色のミディアムパーマが柔らかな印象の男性。隣に立つ葵とはギリギリ親子でも通るほど年齢が離れている。太めの眉に目尻の下がった優しい印象の目元。黒い瞳がもうすぐ登って来そうな太陽を待ち侘びてきらきらと輝いている。 「今年はなんとか観れそうで良かった」 「観て何か意味があるのか」 「えっ?分からないけど、めでたいじゃないか」 そう言って笑う横顔は子供のようだ。白いダウンコートの首元には紫色のマフラーが巻かれている。 「それ…」 「ああ、このマフラー!葵が誕生日にくれたやつだよ、似合うだろ?とてもあったかいよ」 「俺が選んだ物だ、似合うに決まってる」 「助かるよ、僕は洋服を買う時はいつもマネキンとか店員さん任せだから…今年は葵みたいなダークな服にも挑戦してみようかな」 葵の黒いコートは軍服風でよく見るとラメが入ったステージ衣装のような格好だ。もちろんいつもの黒いマスクも外さない。 「俺は俺に似合う服を選んでいる、マスターにはマスターに似合う服がある」 「あー…やっぱりダメか」 葵が勤めるバーのマスター、明智猶(あけち なお)。それが彼だ。 猶の車で山を登り、一般の展望台より少し手前、車だけが停められる穴場の駐車場から日の出を待つ2人。今日は同じように初日の出を観に来た人達ばかりだが、普段はカップルが夜景を観に来て、車の中でイチャつく場所として知られていたりする。 「チッ、木が邪魔だ」 「だって、ここ山だから」 ツンと気の強い葵に対しておっとりと穏やかな猶。 よく他人に噛み付く葵も、猶には比較的素直に受け答えしている。雇用の関係性もあるがバランスと相性が合うようだ。 「初日の出を拝んだ後は下の神社で初詣か」 「そうだよ、それから商店街に行こう!先着で干支の土鈴がもらえるんだ、店に飾ろう」 「はぁ…好きにしてくれ、俺は着いて行くだけだ」 年齢の割に無邪気さの垣間見える猶。 「葵もちゃんとお願い事するんだよ」 「商売繁盛、了解だ」 「待って待って!それは僕が頑張るから…今年は葵が危ない目に遭いませんようにって、よーくお願いしておかないと」 「浮田の事ならマスターは気にしなくていいと言っただろ」 「いや、店の出入りをお断りした時に気を回すべきだったよ…店で会えないから外で会おうとする、少し考えれば予想できる事だったのに…僕ときたら」 「店を出た後で俺に何があろうとマスターには関係ない…っ!…まさか、またアイツらに何か言われたのか」 「こらこら…ご両親をあいつら、なんて言わないんだよ」 「俺には何も言わないくせにマスターには強く当たる、昔からそうだ!そんな権利無いくせにマスターの事を自分の使用人みたいに扱って!そういう所が気に食わないんだ」 「葵は大事な預かりものだから、いつだって僕が責任を持って守れるように努めなきゃ…でもね、ご両親に言われたからじゃないよ?葵の自由を守る為に、僕がそうしたいと思ったんだ」 「……」 柔らかな猶の笑みに初日の出の陽光が差す。猶の方が太陽みたいだ、と葵は思った。 「観てごらん、これが御来光ってやつだね!」 「…木が邪魔だ」 「展望台よりは観にくいけど…あ!」 思いついたように葵を抱き上げる猶。細身で小柄な葵でも成人男性だ。抱える腕が重さで少し震えている。 「?!」 「こ…これでどう?少しは観やすくなった?」 「…下ろせ、すぐに」 「え?」 周りからくすくすと笑い声が聴こえる。まるで子供を肩車するのと同じ感覚で抱き上げる猶に葵は身を捩って脱出した。 「俺はもう子供じゃない」 「ごめん、つい…昔の癖で」 「はぁ…くだらない事で恥をかいた」 「あ、葵」 「もう良いだろ、次に行くぞ」 先程笑った周囲へ一睨みの土産を置いて車に戻る葵。 『葵、ほら見えるかい?』 『見える!飛行機!』 葵が中学校に上がる少し前。最寄りの飛行場に珍しい航空機が降りた事があった。猶は葵を連れて来て、見物客たちが溢れるデッキの中で今と同じように抱き上げ航空機を見せようとした事があった。猶には見えていなかったが、航空機を指差して喜ぶ葵と一緒になって喜んだ互いに暖かな記憶。 「マスター」 「ん?なんだい、葵」 「明けましておめでとう…こ、今年も…よろしく」 「うん!おめでとう!今年もよろしくね」 それぞれの新年が始まる。 「何をお願いしたの?」 「んと、時給アップ!笑武は?」 「俺?…俺は…無病息災」 「テンプレじゃん」 賑わう人々の群れ。初詣を終えて、甘酒も飲んで、お神籤はどうしようかと話しながら歩いている笑武と沙希に向けられる視線。その強い視線を感じて、境内の脇にある石碑の方を振り返る笑武。その刹那、行き交う人々がスローモーションで流れて、周囲の雑音が小さくなっていく。石碑を背に立つ人物と確かに目があった。忘れる訳がない、闇に染まる間際の紫色。 ドクン、と心臓が飛び上がる。 「に…ぃ……さん?」 突然立ち止まった笑武に驚いて少し先で立ち止まり、振り返る沙希。何か声を掛けてくれている、しかしそれを聴き取る余裕がない。全ての神経は真っ直ぐ、確かにそこに居る学矢に向けられていた。 「笑武」 距離があるため、実際に声は聞こえなかったが学矢の唇の動きは明らかに自分の名を呼んだ。 見開いていた目が乾燥に堪え兼ねて瞬きをしても消えない。夢や幻でもない、現実だ。 「どうして…」 ゆっくり、学矢が動いた。鞭でも打たれたかのようにビクッと体を震わせて、笑武は沙希の手を取って走り出す。体で大勢の誰かを撥ねながら、とにかく走り続けた。 「え…笑武!なぁ、どうしたんだよ!笑武!」 鳥居を抜ければ、人の波は少し穏やかになって走るのも容易くなる。沙希が自分を呼ぶ声を背負って走り続け、息が上がり足が絡れそうな所でいつもは通らない裏道に隠れるように入った。 ぜぇぜぇと肩で息をする2人。 「……見間違いじゃない…あれは、絶対…」 「はぁ…はぁ…甘酒戻しそう…横腹痛いし…もぉ、急にどうしたんだよ」 「ぁ…沙希さん!ごめん!手、引っ張って…こんな所まで走らせちゃった」 「休憩」 へな、としゃがみ込む沙希。 「本当にごめん…」 「はぁ…はぁ…うん、怒ってないけど…説明ほしい」 「…兄さんが、居たんだ」 「笑武の兄さんが?…じゃあ、声かければ良かったじゃん…仲良いんだろ」 「……」 「……良くない、の?」 「仲は…良いよ、でも俺…逃げて来たんだ」 「え?」 「俺、兄さんから逃げる為に…家を出たんだ」 見上げた笑武の表情は悪い事をして見つかった子供のように不安げに歪み、今にも泣き出しそうだった。 「…笑武」 「俺は、逃げないと…離れないとダメなのに」 「…っ!!」 『好きになっちゃダメな相手を好きになったら…どうやって諦めるのかな』 『この2人は付き合うんじゃなかった』 『もしもの話!禁断の恋ってやつ…既婚者とか…兄弟とか……恋人いる奴とか…気持ち伝えても困らせるだけじゃんね』 『そ…うだね、難しいかも…諦めたくて体は離れても、心はきっと、離れられない』 出会って間もない頃、笑武の部屋で映画を観ながら話した内容がリンクする。禁断の恋に侵されていたのは笑武も同じだったのだと、沙希は自分の無知を責めた。体は離れても、心は離れられない。笑武はまさにその状況なのだろう。 「どうしたらイイとか、分かんないよな…」 それは自分も同じ。傍に居たい気持ちと、離れようとする気持ちがバチバチと火花を散らしてひとつの心に共存する。 「逃げ出すなんて…弱いと思われるかも知れないけど…でも俺には、こうするしかなくて」 「笑武は弱くないって…!」 沙希は立ち上がって慰めるように、守るように優しく笑武を抱きしめた。 「まだ、ダメなんだ…今はまだ、兄さんに会えない」 「イキサツとか知らないし、俺には関係ない事かも知れないけど、笑武が色々考えてそうしたなら応援する…ほら、逃げるが勝ちって言うし」 「…ありがとう…沙希さん…少し落ち着いたよ」 「震えてんじゃん、帰ろ!」 今度は沙希が笑武の手を引く。笑武は、その手をとても暖かく感じた。そして無意識にぎゅ、と握り返す。 逃げ出した笑武たちを追う事もなく、学矢は神社の本殿を見て笑う。 「探しモノは見つかった、もう願うことは無いな」 コートを翻して神社を後に歩き出す。人通りの少ない神社の裏側、側溝に挟まったダンボールの中で自力では箱から出られないほど小さな仔猫が鳴いていた。綺麗な白猫だ。 「ミャー」 「腹が減ってるのか?エサが欲しいと神様に願うといい、ここからでも叶うかも知れないぞ」 学矢は仔猫の頭上、神社の敷地内の樹から此方を窺う黒い影を見上げた。カラスだ。 「ああ、腹が減ってるのは、あちらも同じみたいだな… さて、神様はどちらの腹を満たしてくれるんだろうな」 ダンボールから逃げ出せない仔猫は、カラスにとってはとても魅力的なエサ箱だ。カラスの丸い目がガラス玉のように怪しく光る。 学矢はそっと仔猫に手を伸ばした。仔猫はその腕をよじ登りダンボールの外へと這い出す。枝の上で仔猫の動きを注視して反復横跳びをしているカラス。 「カァーカァー」 仲間でも呼ぶつもりか、烏が鳴き出した。 「さあ、俺に出来るのはここまでだ…逃げ切って見せろよ?仔猫ちゃん」 寒空の下で、命をかけたチェイスが始まる。学矢はその結果を見守る事もなく、歩き出した。 逃走が上手くいけば仔猫は逃げ延び、運が良ければエサにも在り付けるだろう。優しい誰かに拾われるかも知れないし、車に轢かれるかも知れない。 カラスにとっても同じだ。上手くいけば目の前の獲物の狩りに成功し、しばらくは空腹が凌げるだろう。失敗すれば、また次の獲物探しだ。 この先の展開は、神様しか知らない。

ともだちにシェアしよう!