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第2話

小学校2年生の冬、俺はこの街にやってきた。 慣れ親しんだ土地を離れるというのは、俺にとって憂鬱でしかない。 今まで仲良かった友達とは疎遠になるし、授業のスピードが速くてついていけない。 もともと好きではなかった勉強がどんどん嫌いになり、テストはほとんど白紙で提出していた。 学校に行くのが嫌で、友達と呼べる同級生もなかなか出来ない。 1人放課後にバスケの練習をすることだけが、その頃の俺の生きがいだった。 そんな俺に呆れた両親が放りこんだのが、近所の学習塾。 最初からやる気のない俺の成績が上がるとは、親も期待などはしていなかったと思うけれど…… そこが俺の人生の転機となった。 ヒナに、出会った。 日焼けを知らない不健康そうな肌に、釣りあがった目尻が印象的な小柄な体格。 初めて見た時はあまりにも華奢なその姿に、てっきり女子だと思い込んでいた。 神経質そうな字をノートに並べ、ホワイトボードを遠目に見つめる。 見た目は幼い印象を受けるのに なぜか同い年の生徒よりも大人びて見えた。 利発そうな見た目通り、成績もあの頃からとてもよかった。 全国模試では常に上位に名前があり、塾の成績表には一番上に名前がある。 第一印象は…… ――なんか、気に喰わない奴。 それが、ヒナの最初の印象だった。 男のくせに男と話すよりも、女子の輪の中にいて。 モテるタイプというよりも 女子の中に馴染んでいて、そこにいるのが自然に思えた。 そんなヒナが近所に住んでいるのを知って なんとなく一緒に帰るようになって 家を行き来するようになって それから、夕飯をご馳走になるようになるまで…… 時間はそうかからなかったと思う。 俺といる時は強張った表情が多く、笑顔を見ることも少ない。 他のクラスメイトの男達とするような会話はほとんどなく、ふざけ合いっこなんてもってのほかだった。 どこか俺に線引きしているような姿に、たまにイライラすることもあった。 でも、一緒にいる時間が長くなるにつれて、少しずついろいろな表情を見せてくれるようになった。 その時既に、ヒナの表情に一喜一憂するくらいには、何か特別な感情が芽生えていたんだと思う。 初恋というにはあまりにも淡すぎて、幼すぎた俺にこの感情の意味など気づけなかった。 でも、異性を意識するようになった小学校の高学年。 誰かが覚えた「セックス」という言葉に、興味深々だった。 クラスの女子と……なんて妄想はもう少し先になるが、その興味の先は大人の女性。 誰かが仕入れたAVを回し見して、友達同士で盛り上がる。 でも、そんな輪の中にヒナの姿はなかった。 いつも一緒にいたはずなのに、その手の話題になるとふらふらとどこかへ消えてしまう。 試しにヒナに話を振ってみると…… 指先から顔まで真っ赤になって恥ずかしがるヒナの反応に、興奮を覚えた。 嫌がれば嫌がるだけ面白くて、色白の肌が朱に染まる姿にぞくぞくする。 あれは一種の性的興奮だったんだと今思えば気がつくが、あの時はふざけあいの延長のつもりでいた。 でも、他の男子が俺と同じようにヒナをからかうと、イラついて仕方がない。 だから、なんとなく…… 不本意ながら、相葉の気持ちが分かるんだ。 ヒナを思い切り敵視して、虐めて、揶揄って、罵倒して…… そんな歪んだカタチでしかヒナと関われなかったあいつの気持ち。 *** こんな昔のことをつらつらと考えてしまうのは、今の気持ちを整理するため。 こちらが呼ぶまでもなく、先ほどから熱心にこちらを見つめていた店員さんにアイコンタクト。 ひらひらとした制服を身に纏った女の子に、笑顔を浮かべながら注文をする。 「アイスコーヒーひとつお願いします。」 「かしこまりました。」 とびきりの可愛らしい笑みを見せる店員を見つめて、俺も笑みを返す。 ――ヒナもこの子みたいに、さっさと堕ちてくれればよかったのに……。 後悔ばかりが頭をよぎり、運ばれてきたばかりのアイスコーヒーで頭を冷やす。 ――クソ、あいつに渡す気なんてなかったのに……。 誰かに獲られることなんて、考えもしなかった。 ずっと、俺の傍にいるものだと過信していた。 ヒナのことを思い出していると…… 気に食わない顔を思い出し、イラついた気持ちを抑えるためにイヤホンで蓋をする。 聞き慣れた声が耳に届き、少しだけ気持ちが落ち着く。 When the night has come and the land is dark And the moon is the only light we'll see No I won't be afraid, no I won't be afraid Just as long as you stand, stand by me So darlin', darlin', stand by me, oh stand by me Oh stand by me, stand by me (『Stand By Me 』   Ben E. King) でも、すぐにヒナとあいつが一緒にいるところを思い出す。 すぐに、同じところに引き戻される。 ――クソ、クソ、クソ、クソ、クソ!!!! 氷を奥歯で噛み締めても、音量を上げても全く頭に入ってこない。 ヒナの好きな曲。 洋楽なんて全く興味なかったのに、ヒナが好きだと言うから覚えたのに。 カラオケで歌ってやれば、目を輝かせて喜ぶから。 下心を言えば、ポイント稼げると思ったから。 そのうち、気持ちが弾けて向こうからアプローチがあると思ったから。 バスケしてる姿、好きだったんだろ? 俺の笑顔に惚れてたじゃん? 大学だって、わざわざ国立蹴って追いかけてきたんだろ? 誰のために、こんな柄にないキャラで過ごしてると思ってんの? セックスの相性だって、悪くなかったじゃねーか……。 ――あー……こんなことなら、あと10回くらいヤっときゃよかったな。 ヤるだけじゃなくて、もっと色んなところ行きたかった。 あんな小さなサボカフェだけじゃなくて、ヒナの世界を知りたかった。 コクも香りも薄い珈琲をちびちび飲みながら、ヒナと行ったサボカフェの珈琲を思い出す。 ――そういえば、サボカフェの珈琲美味かったな……。 そんなことを思い出していると、先ほど注文を取りに来た女の子と視線が繋がる。 とりあえず、もう癖のようになっている笑顔を見せると 向こうも、笑顔と軽い会釈を返してくれた。 ――でも、今は女って気分じゃねーんだよな……。 そう思いながら、自然と視線を逸らす。 ヒナを思い出せるような、ちゃんと骨格がはっきりした…… そう思いながら店内を見回すと、運動部らしい健康的な男とも視線があう。 ――いやいや、でも普通の男じゃ勃たねーし……。 筋肉粒々なんていうのはタイプではない。 てゆーか、ヒナ以外に抱きたいと思った男なんていなかったし。 可愛い感じで、適度に色気があって…… そんなことを考えながら視界をさらに広げると、突如として一番見たくない顔が目の前にある。 「朝っぱらからナニ考えてる?」 「……お前、なんでここに?」 突然すぎてそんな言葉しか出てこなかったのは、ここが大学のすぐそばのカフェだから。 こいつの家も遠いし、大学も違うこいつがここにいる理由なんて、考えるまでもない。 「日向のこと送りに。」 そう当然のような顔で言うと、軽く手をあげて素早く注文を済ませる。 ゆったりと長い脚を組んで、煙草を取り出しこちらを見つめる。 気取っているというよりは、全てが嫌味に見えるくらい様になっていた。 俺みたいに付け焼刃ではなく、こいつのは天然もの。 天然が養殖に敵うわけがない。 格の違いを見せつけられ、コンプレックスを痛いくらいに刺激してくる。 このタイミニングで俺の前に現れるなんて、喧嘩吹っかけにきたとしか思えない。 「お前が?」 「何か文句でも?」 「まるで母親だな。」 「母親にすらなり損ねたヤツに言われたくねえよ。」 平然とそう返すと、慣れた仕草で煙草に火をつけた。 「てか、随分噛み付いてくるな。王子様キャラどこいった?」 「お前に必要ないだろ?」 「まあ、キラキラ笑顔振り向かれても気持ち悪い。」 「万人受けするのにな。」 「いくら万人に受けても、好きなヤツに受けなきゃ意味ねーだろ。」 至極まともなことを言うと、アイスコーヒーを口に含んで眉を潜める。 「お前が選ばれたの、マジ意味分かんねえし。」 「お前と根っこが似てるから、か?」 「不本意過ぎる。」 「あいつ、根っからのマゾだからな。」 しれっと失礼なことを言いながら、煙草をふかす。 本当に、ヒナは男の趣味が悪すぎる。 俺の後に選ばれた男を見つめて、深いため息がでた。 「ってか、まじで妹と付き合ってんの?」 「まー、カタチだけ。」 「カタチ?」 不思議そうな相葉に、今の状況を手早く説明する。 「俺からは振らないけど、振られ待ち的な?」 陽菜季ちゃんのことは、嫌いではない。 嫌いではないけど、興味もない。 てか、ぶっちゃけ面倒くさい。 後腐れない関係ではないからこじれたくないし、円満にさっさと別れたいというのが俺の本音。 でも、なかなかしぶとい彼女は、俺の感情に気がつきながらも素知らぬフリを貫いている。 「あーあ、かわいそーに。」 相葉は心にもない表情でそう言うと、たっぷり残ったアイスコーヒーを無視して水を一口。 こんな正直にひどい人間のどこに魅力があるというのか? 俺の方がまだましじゃないかと思いながら、相葉を睨む。 「ヒナのこと傷つけたくはない。」 「お前のその無駄な優しさ、日向以外に少し分けてみたら?」 「それこそ無駄だろ?」 振られた今、俺は元々どういう顔でどういう性格だったのかも正直よく分からない。 ヒナに優しいと言われたら、誰にでも優しくしないといけない気がした。 バスケのことを褒められたら、誰よりも上手くなろうと努力した。 ヒナのことを振り回していい気になっていたけれど、本当に振り回されていたのは俺の方で…… ヒナが好きだった俺の仮面を外せば、ひどくつまらない空っぽの俺が残った。 寂しいというか、虚しいというか、苛立ちというか…… ドロドロとした感情が鎖のように固まって、縛り付けられている。 逃げたいのに逃げられない。 そんな憂鬱な毎日続いている。 「てか、朝からギンギンすぎね?」 「お前に言われたかねえよ。」 見えたくもないが、首筋に残ったキスマークがやけに目立つ。 ヒナがつけたんだろうと思うと、膨れ上がっていた性欲が激減する。 「夏だし、失恋したばっかだし、盛るのは男の性でしょ?」 「まー…俺には関係ないから。」 興味なさそうにそう言うと、話は済んだとばかりに煙草を灰皿に押し付ける。 「はあぁ……控えめに言っても死ね。」 「あ?」 悪びれた様子もなく、相葉は高そうな財布から千円札を出すと、腰を上げながらこちらを横目に見つめる。 「あのさ、ヒナのこと本気なんだろ?」 「遊び、だったら?」 「期間限定の恋人ごっこなら、俺がもらうから。」 そうはっきりと宣言すると、笑いながら席を立つ。 その背中を遠目に見つめながら 俺はまた現実に背を向けて、過去に浸るために瞼を閉じた。

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