147 / 158

焦り。

 耳を劈く金切り声が周囲に響いたかと思うと、エルズーリーは立派な角を持った足の速い鹿に化け、たじろぐスターリーへと突進する。その瞬間、二人の足下には巨大な深い闇がぱっくりと開いた。  エルズーリーは雄々しいその角でスターリーを捕らえ、底が見えない闇へと堕ちていった。そうかと思えば、ぱっくりと開いた闇の穴はすぐに跡形もなく消え失せる。  それらはほんの一瞬の出来事だった。恐ろしく広い一室に静寂が広がる。 「えっと……」  先ほどまでの切迫した命のやり取りはどうなったのか。あの騒々しさが嘘のようだ。静寂が広がるその中で、ベイジルはやはり意味が判らず瞬きを繰り返すばかりだ。 「エルズーリ・ジェ・ルージュ。我が母は無償で男すべての願いを聞き届ける。だがそれだけに、より大きな代償が必要だ。あの男は代償を見誤り、軽々しく扱った。ただそれだけのことだ」  混乱しているベイジルを宥めるため、ロシュは静かに口を開いた。 「代償って?」 「『絶対服従』その約束を破ったんだ。安心しろ、もう誰も君と君の赤ん坊の命が危険に晒されることはない」  手を伸ばし、ベイジルのうなじに触れたロシュの骨張った指先が、ベイジルの遊び毛を絡める。  目を窄めて微笑む彼の魅惑術は完璧だ。ロシュの仕草ひとつでベイジルは本当にもう命を狙われる危険性がないと核心してしまう。

ともだちにシェアしよう!