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鐘人-4 意思

「こんな所に居たのか……。航、早くこちらへ来なさい」  航の父親だ。  私を睨み見ると航に低い声を掛けた。 「もうかえるの?」 「お前を探していたんだ、勝手に屋敷をうろつくな。会場に戻るぞ」 「やだ! かえらないなら、かねひとといる」  腕にしがみついてきて親の言うことに反抗している光景に、あの時の記憶が蘇った。  このままでは航が…── 「……航、行きなさい」 「なんでかねひとまで、そういうのっ! やあーだあーッ!」  駄々をこねる航にその人が深く溜息を吐くのを耳にした。  息が、できない。 「その……、すまない、鐘人君。迷惑をかけて……」  自分に掛けられた言葉に目を見張った。  恐る恐る見上げると、眉を寄せた困り顔で頭をかいており、目が合うと首を倒して謝るそぶりをした。  現状を呑み込めない。  初めて航以外の親族に声をかけられた。名を呼ばれて、謝られるなんて。  何より、この親は子供を見限らずに居る。 「いえ……」  泳ぐ目を下に向けて動揺を隠す。  その人は膝を落として航に話しかけた。  「あまり迷惑をかけないように」、「お腹はすいていないか」、「帰るまでまだ時間があるから昼寝でもしていなさい」、どれも柔らかな声色で、自分の新しい父親を思わせた。  優しい人なのだと感じた。  航はまだ不満そうにして適当に受け流している。 「わかったよう。かねひととねるから、あっちいって」 「全く……。……申し訳ないが、この子を頼めるかい?」 「……はい」  自分の子に呆れつつ、目を合わせて頼んでくる。此方が返事をすると眉を下げた笑みを向けた。  雰囲気がよく似ていた。航に、父に。  襖が閉じられると、腕からはなれて腹に抱きついてきた。顔を上げて満足げに頬を擦り寄せてくる。  先ほどの私の動揺は気づいてもいない。微かに震えてしまう手でその頭を撫でた。  怖かった。  捨てられた時とは違う感覚。  航に二度と会えなくなる気がした。会えなくなるのは嫌だと思った。 「かねひと〜」  この子に必要とされている事が何よりも嬉しく感じていた。  年を重ねるごとに身体の成長だけではない変化を見せた。  私をさん付けで呼び、見てくる瞳に色を帯びることがあった。もしかしたらと淡い期待を寄せたが、もとより懐いていたので確かめるまではしなかった。  そんなある日、父が大病を患った。  親族達は手の平を返すように点々と見舞いに来て心配していた。廊下の隅で、「まだ四十半ばなのに」と憐れむ声を発した直ぐ「遺産はどうなるのかしら」と言った台詞には耳を閉ざした。  この時私は二十五で教師として働きながら看病していた。  集まりには行かなくなり、航の顔を見れない年を送った。 「鐘人……、すまない……」  父がうわ言で謝るようになった。  何に対してかは理解していた。私にしてきた事だろう。病を患ってからは共に眠ることもしなくなったから。  気づけば、必要とされると誰でも受け入れる自分がいた。  二度と断ることは出来なかった。  それでも、航だけはいつまでも脳裏に浮かんでいた。  会いたい。

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