85 / 161
鐘人-4 意思
「こんな所に居たのか……。航、早くこちらへ来なさい」
航の父親だ。
私を睨み見ると航に低い声を掛けた。
「もうかえるの?」
「お前を探していたんだ、勝手に屋敷をうろつくな。会場に戻るぞ」
「やだ! かえらないなら、かねひとといる」
腕にしがみついてきて親の言うことに反抗している光景に、あの時の記憶が蘇った。
このままでは航が…──
「……航、行きなさい」
「なんでかねひとまで、そういうのっ! やあーだあーッ!」
駄々をこねる航にその人が深く溜息を吐くのを耳にした。
息が、できない。
「その……、すまない、鐘人君。迷惑をかけて……」
自分に掛けられた言葉に目を見張った。
恐る恐る見上げると、眉を寄せた困り顔で頭をかいており、目が合うと首を倒して謝るそぶりをした。
現状を呑み込めない。
初めて航以外の親族に声をかけられた。名を呼ばれて、謝られるなんて。
何より、この親は子供を見限らずに居る。
「いえ……」
泳ぐ目を下に向けて動揺を隠す。
その人は膝を落として航に話しかけた。
「あまり迷惑をかけないように」、「お腹はすいていないか」、「帰るまでまだ時間があるから昼寝でもしていなさい」、どれも柔らかな声色で、自分の新しい父親を思わせた。
優しい人なのだと感じた。
航はまだ不満そうにして適当に受け流している。
「わかったよう。かねひととねるから、あっちいって」
「全く……。……申し訳ないが、この子を頼めるかい?」
「……はい」
自分の子に呆れつつ、目を合わせて頼んでくる。此方が返事をすると眉を下げた笑みを向けた。
雰囲気がよく似ていた。航に、父に。
襖が閉じられると、腕からはなれて腹に抱きついてきた。顔を上げて満足げに頬を擦り寄せてくる。
先ほどの私の動揺は気づいてもいない。微かに震えてしまう手でその頭を撫でた。
怖かった。
捨てられた時とは違う感覚。
航に二度と会えなくなる気がした。会えなくなるのは嫌だと思った。
「かねひと〜」
この子に必要とされている事が何よりも嬉しく感じていた。
年を重ねるごとに身体の成長だけではない変化を見せた。
私をさん付けで呼び、見てくる瞳に色を帯びることがあった。もしかしたらと淡い期待を寄せたが、もとより懐いていたので確かめるまではしなかった。
そんなある日、父が大病を患った。
親族達は手の平を返すように点々と見舞いに来て心配していた。廊下の隅で、「まだ四十半ばなのに」と憐れむ声を発した直ぐ「遺産はどうなるのかしら」と言った台詞には耳を閉ざした。
この時私は二十五で教師として働きながら看病していた。
集まりには行かなくなり、航の顔を見れない年を送った。
「鐘人……、すまない……」
父がうわ言で謝るようになった。
何に対してかは理解していた。私にしてきた事だろう。病を患ってからは共に眠ることもしなくなったから。
気づけば、必要とされると誰でも受け入れる自分がいた。
二度と断ることは出来なかった。
それでも、航だけはいつまでも脳裏に浮かんでいた。
会いたい。
ともだちにシェアしよう!