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 何の為に毎日学校に来ているのだろう。とりたててやりたいこともないし、ここに来るくらいなら部屋で本を読んでいたい。机に座っている俺に話しかける人間もいないし、俺から話しかける術もない。  いっそのこと俺はゲイだと言えば、クラスメ一ト達は俺のことを認識するかもな。 「日直だからこれお願い。私はゴミ捨ててくるから」  日誌を手渡されて頷く。一応俺は存在しているらしい。必要な項目を埋めて職員室に向かう途中、廊下でユニフォ一ム姿の森下君とすれ違う。彼の纏う空気すら眩しい。  クラスでも彼の周りにはいつも人がいる。力がはいっていない自然体と誰もが安心するような笑顔を持っている。俺は見ないように心がけているのに、ついつい見てしまう。  彼は俺を引きつける。惹かれるという言葉があるけれど、それってその人に取り込まれることなんだ。引かれて惹かれて、自分の心が自分でもわからなくなるんだ。相手に掴まれてしまうんだ。  俺は振り向いて森下君の広い背中を見つめる。  形のいい眉、大きな目、いつも笑っているように見える柔らかい口元。額に汗を滲ませて大きな目は輝いているだろう。  視界に入るのは背中だけなのに顔が見えてしまう。こんな風に思われている事を知ったら、君は気持ち悪いと言うだろうね。残念だよ。  高校生活はダラダラと流れていく。俺の鬱々とした日々は『太宰』によってさらに暗いものになっていた。「人間失格」のあと「斜陽」を読んでから小説の世界に引きずられたまま戻ってきていない気がする。  三島の「仮面の告白」を読んでみたけど、俺には自分が好きというナルシスティックな心がわからないから共感できなかった。太宰の自虐めいた視線のほうが安心する。  でもたった一つ、暗い僕の日常の中でも光り輝くものがひとつある。それが森下君だ。ただ見ているだけで心が躍る。あんなふうになれたらさぞかし素敵な毎日だろうと想像する。彼が好きだと言えば、どんな女の子でもなびくだろう。男だってそうかもしれない。  「好き」ってどんな風に言うんだろう。もし俺が言われたら?と考えるだけで気絶しそうだ。俺の学校に行く目的は「森下君を見るため」になりつつある。  ある日勇気をだして「おはよう」と彼の背中に言ってみた。森下君は振り向いて俺を見た。ほとんどクラスでも存在しないような俺に挨拶されてビックリしたんじゃないだろうか。 「おはよう、宮田」  俺は心底驚いた。彼は名前を知っていた!そして当たり前のようにおはようと言ってくれた!  高校生活も残り半年なのだからクラスメイトの名前くらい知っていて当然だと後で気がついたけれど、そのときは驚きと喜びで天にも昇る気分だった。  俺の目的がまたひとつ増えた――森下君と言葉を交わすこと。 「おはよう」「さよなら、また明日」この二言を言うために俺は存在していたと言ってもいい。この二言で俺は生きていると思えた。それほど森下君は俺にとってすべてだった。  俺にとって転機になったあの日、本を忘れたことに気がついて学校に戻った。家にそのまま帰ってもよかったけれど「ドグラマグラ」というその本は僕を学校に戻した。今日、その本を開かないと今まで読んだ部分が真っ白になってしまいそうな気がしたから。毎日ページを開かなければ、振り向いてくれない……「ドグラマグラ」はそんな本。  もう冬が見えそうな季節だったけれど、小走りに教室に戻った僕は少し汗をかいていた。  教室に入って心臓が跳ねた。俺の机に森下君が座っている。 「森下く……ん?」  俺は心臓が飛び出るかと思った。俺がいつも座っている椅子に彼が腰掛けている。明日自分が座ることを考えたら勝手に顔が赤くなった。 「あ、宮田。ごめん、これ机から覗いててさ」  森下君の手に乗っているただの文庫本は、光って見えた。 「宮田っていっつも何か読んでるだろ?何を読んでるのか一度聞いてみたかったんだ」  ええ?俺が何を読んでいるのか興味を持ってくれたの?俺の心臓は自分のものではなくて、別の生き物みたいに盛大に暴れている。 「でもこれ、あらすじ読んでも全然わかんないんだけど。面白いの?」  俺は想像のなかで自由に森下君と話しをしていたけれど、現実になるとは思っていなかった。何の準備もなかったし、自分を繕う暇もない。 「まだ、この本が面白いのかどうかわからないんだ。そういう意味では面白いのかも」  自分の口から出てきた言葉は、訳のわからないものだったから顔がますます熱くなる。森下君は本をパラパラめくり、きゅっと唇をほころばせて言った。 「宮田はすごいな、俺はたぶん1ペ一ジで寝る、間違いない」  とうとう森下君の笑顔が俺だけに向けられた。この瞬間自分が消えてなくなってもいいと思えるほど俺は舞い上がった。脳天を直撃するような輝く笑顔。 「何もすごくないよ。どうせ本を読むしか能がないし」  森下君は少しいぶかしげに目を細める。俺はそんな顔もイイと考えていた。色々な顔を見てみたい。それには言葉を継がねばならない。 「森下君のように、すべてを持っているわけじゃないんだ、俺」  意味がわからないというような顔。こんな顔もするんだね。 「友達もいないしね、どうせ僕はこのクラスにいるだけの存在だし」 「宮田、お前最低だな」  森下君は怒っていた。形のいい眉が顰め俺を軽蔑したような顔で見ている。俺が君を好きだといったら、きっとこんな顔をするんだろうね?森下君。  彼に告白する気なんてなかったけど、結果を見たような気がした。こんな俺に好意を持たれたって、迷惑なだけだろうしね。 「すべてを持っている人間なんかいない。クラスの人間がお前をしめだしているわけじゃないんだ。宮田が壁を張り巡らせている。それと自分を「どうせ」っていうのは賛成できない。自分を自分で貶めて何になる?自分を好きにならないと誰も好きになってくれないよ」  俺はなにも言えなかった。最低だといわれたけど何かが見えたような気がした。自分を好きになれたら、君は俺を好きになってくれるのか? 「森下、おっせ~~よ。ミ一ティングがはじまっちゃうよ!」  呼びに来た野球部員と彼がでていった後も俺は教室に立ちつくしていた。俺が変れば森下君は見てくれるかもしれない。もしかしたら好きになってくれるかもしれない。かなり低い確率かもしれないけれど賭けてみようと思った。  森下君が触った「ドグラマグラ」は体温を持っているように暖かかった。  翌日俺は勇気を出して森下君に「おはよう」と言った。森下君は変らない笑顔で「おはよう宮田」と言ってくれた。だから僕は決めた。君に振り向いてもらえるように変わる。  高校生活はもう半年をきったけれど後悔したくなかった。それから自分を色々な目で見て、良いと思われることを試すことにした。森下君の横にいても恥ずかしくない自分になってみようと思ったから。  見えればいいと思っていた眼鏡と髪型も変えてみた。小説だけではなく雑誌やテレビにも目をむけてみる。  おはようの挨拶も森下君だけではなくクラスの人にもしてみた。最初は勇気が必要だったけど、次からは普通になった。  挨拶をきっかけにして、話しをするようになった。そのうち学校帰りにマックにいったりカラオケに誘われるようになり女の子達も俺に話しかけてくるようになった。 「宮田君って近寄りがたい感じだったけど、話すと優しいんだね」 「最近感じが変ったよね」  そのうちクラスの男子達から、お前がデビューしたせいで、人気を持っていかれたと苦笑いされるようになった。  そして付き合ってくださいと告白されるまでになった。残念ながら俺は女の子に興味がもてないから相手には可哀そうなことをしたけれど。  森下君とも挨拶だけではなく会話ができるようになった。野球が好きだけど、自分の限界を知っているから大学にいったら辞めること。妹が一人いること。従兄弟の影響でガンダムにはまっていること。本を読むのが苦手なこと。食べ物は魚が好きなこと。  ひとつひとつがつまらないことであっても、自分にとってはすべてが宝物。俺は随分自分を変えてみたけど、森下君どうかな?君は俺を見てくれるかな?  卒業式の日、俺は森下君に話すことに決めた。何故俺が変ったのか、その理由を。  自分にとっての高校生活はこの半年に凝縮されていたと思う。思い出すことも、僅かな時間だけだから、涙はでなかった。  「元気でな」「絶対クラス会しようね」「今日で終わりだなんて気がしない」そんな声を聞きながら、俺は教室の椅子に座っていた。  「じゃあね、またね」と言葉を交わす。涙の跡を残す女子や、どことなく照れくさい顔をしたクラスメイト達。少しずつ教室の人数が減っていく。  俺は立ちあがって窓から校庭を見る。やっぱり森下君は野球部員の後輩達に囲まれていた。「遊びにくるから練習がんばれよ」なんて言っているに違いない。  俺は教室を出た。森下君に向かって。  君はいつでも眩しい。校庭にはたくさんの人がいるのに、君は背中をむけていても光っているようだね。どんなに人が多くても、俺の目は君を見つけてしまうんだ。ドキドキ暴れる心臓を抱えながら森下君の背中に声をかける。 「森下君!」 「ああ、宮田か。卒業おめでとう」  君はどんな時でも相手を気遣えるんだね。残念ながら今の俺は余裕がないんだ。 「森下君、俺は変ったよ」  自分の言いたいことしか言えない。 「そうだな、俺もびっくりだよ。格好よくなっちゃってさ」  そういって微笑む森下君は綺麗だ。君は僕をみてくれる? 「森下君が俺のことを最低だと言ってくれたから変ることができたんだ」 「なんかかな~そう言われると、俺のほうが最低だよな」  少しきまり悪そうな顔をしている森下君を見て、俺は小さく息を吸い込む。 「変れたのは君のおかげだよ。俺は君に見て欲しかったんだ。君が俺を好きになってくれるかもしれないと思ったから」  森下君の眉がひそめられる。 「俺は君が好きなんだ」  晴れた青い空から小雪が落ち始めた。俺と森下君の間に漂う白い雪はつま先に触れた瞬間水玉に変わり黒い革靴の色を濃く染める。怖くて森下君を見ることができなくて、自分のつま先だけを見つめた。  マフラ一でくぐもった森下君の声は小さかったけど、とてもはっきりしていた。 「ごめん」  理由も何もない「ごめん」だけ。その瞬間、式でひとつも出てこなかった涙がこぼれた。

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