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「智、ミサキって誰?」  俺はずっとひっかかっていた疑問をとうとう口にした。智は本を読んでいる姿勢のまま、ページをめくる指を止めた。 「言いたくなければいいんだ。ただ、間違われるのには慣れていなくて」  智は胸の上に本を閉じる。 「宮さん、僕は間違ってないよ。僕は宮さんに抱えられているのをわかっていた」 「そう言ってたな」 「嘘じゃないよ。僕はミサキに聞いただけだよ。何を聞いたのかは言いたくないけど」 『わかったよ。ミサキ』智はそう言った。何を確かめた? 「ミサキは存在しない人なんだ」 「え?」 「本当は加瀬稜って名前でね、僕にとってはそっちのほうが存在しない名前なんだけど。心の中にいるもう一人の本当の自分がミサキだった。それを僕にくれた人だよ、ミサキは」  自分を差し出す男か。 「まだ、智の中に居るんだな」  馬鹿みたいなことを言ってしまってから後悔した。 「過去に誰もいない人間なんか、つまらない。そう思わない?」  ソファからおりて床にすわり、俺と同じ目線で話す智。その表情は潔く綺麗だった。 「宮さんにも森下君という思い出がある。現在とはまったく違う次元に存在しているよね。過去は縛られていなければ持っている人の糧になる。違う?」  俺は笑うしかなかった。この年下の男は、さらっと本質を言うから、自分がとても小さく感じる。 「お前にはかなわないな」 「宮さん、ミサキは心のなかに欠片として存在している。ふいに思いだしたり、ミサキと出逢ってから変わった自分に思い当るたびに少し光る。でもそれって今までものすべてに共通することだよね。読んだ本、映画、音楽、友達、仕事、それによって自分が変化するってあるでしょ?それは大切なものだ。でも、僕はミサキに縛られていない、それは本当だよ、宮さん」  つまらないことを言ってしまった。 「本当に自分を欲しがる人に出会ったからこそ、僕は自分を保つ意味を知った。僕に興味を持ったり、欲しがる人は沢山いるよ。でもね、足りないんだよ全然。だから宮さんが僕をどSだと言うように、ぺしゃんこにするんだ。希望がもてないくらいね、でもそれは僕なりの配慮。やりこめられて諦める程度のものは興味でしかないってことだ。そんなのに付き合う気が僕にはないことを理解してほしいだけなんだ」  言葉がでなかった。そして場違いな想いが湧き上がる。こいつをどうしても欲しい、こんな男はそうそういない。「まいったな」とか「俺としたことが」なんて格好つけている場合ではない。この心地いい時間がずっと続くならこのままでいいと思っていた。この関係を進めることを躊躇していた。スタートした時点で終わりのカウントダウンが始まるなんてバカな事を考えたからだ。 「宮さん?」  智の声で現実に引き戻される。智は穏やかにほほ笑んでいた。 「僕はね、待っているだけなんだよ。本当に僕を欲しがる人を、僕が欲しいと思う相手を。ただ……待っているだけなんだ」  そして、またしても俺はなにも言えなかった。身を焦がすような智への渇望を言葉にする術がなかった。何かを伝えるためにある言葉が、今は何の役にも立たなかった。

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