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いつものように週末がやってきて、智が俺の部屋にいる。お互い何か話をするでもなく、流れていく心地よい時間。智はソファにねそべって本を読み、俺は床に座ってソファを背もたれがわりにしていた。
「宮さん、そうやっていつも床に座っていた人がいたんだ」
「名前をくれた男か」
別の名前を持っていない俺は、智にやれるものがない。あるとしたらこの自分だけ。
「約束したんだ、僕は忘れないって。だからずっと僕は心の中に抱えていくよ」
智、それは俺に対しての確認か?断りか?宣言か?何だ?
「智は俺に何を望んでいる?「それでもいいの?宮さん」か?「だからダメなんだよ、宮さん」か?」
「わからない……たぶんどっちもかな」
「智は欲張りだな」
「そんなことはない、臆病なだけだよ」
「臆病な男がそんなこと言うか?」
「踏み出すには勇気がいるし、自分を解放するには……さらなる力がいる」
俺達は初めて核心に近づくような会話をしている。今を逃したら、もう次はないだろう。それだけはわかった。
「智、それは俺だって同じだ。おまえが抱えていく気なら、俺はつねにその存在と比べられるということだ」
「比べる?いや、比べるだけの材料はないんだ。残念だけど」
「材料がない?」
「僕は何も知らないから。本当にね。たった4週間の短い時間だったし。宮さんのことのほうが100倍知っているよ、情報面なら」
背中からクスっと笑う声がする。どんな顔してるんだ?智。
「肌のことなら、宮さんの1万倍知っている。言葉や感情のやりとりは、つねに肌を合わせていたから」
俺は頭に血が昇った。他の男とやりまくったって話をなぜ今?大人げないとわかっていたのに、俺は自分を止められなかった。
「俺も過去にやりまくったって話でもすればいいか?」
智が静かに起き上がった。そのまま俺の前に立つ。こんな無表情な顔はみたことがない。
「その人はね、一緒に死のうって言った」
「え?」
「イクことやSEXのあとのまどろみをフランスでは「小さな死」って言うんだよって。一緒に死んでくれるような相手を夢見てきたって。
だから時間がなかったのに僕らは一緒にいたんだ。今は服を着ているけど、初めて会ったその日に僕は素っ裸で彼の前に立った。触られてもいないのに欲望の塊みたいに硬くして、おまけに濡れていた。そして彼に言ったんだ、殺してくれって」
智の表情ががらりと変わる。さっきまでの無表情な男はもういなかった。壮絶な色を纏った智にめまいがしそうだった。目の前の男は今まで会ったどんな男とも比べられない。その目に見据えられて、まったく動けなかった。それなのに身体中の熱で息が苦しい。せり上がる何かが喉を焦がす。
「本名。結婚して子供がいる。札幌に支店がある大阪の会社に勤めている。車の運転ができる。
マスターと重さん、それに仁さんと同じ大学だった。僕が知っているミサキの情報はこれぐらいだ。好きな食べ物はおろか誕生日も知らない。携帯の番号もメアドもね」
熱に浮かされながら俺は愕然とした。何もしらない男に負けている、何もかも。目の前に立つ智をみれば、相手の男がどうやって智を変えたのかに容易に想像でき、どす黒い嫉妬が渦巻き始める。智の言う通りだ、比べるレベルが違い過ぎる。
「宮さん、そんな顔して。諦めて僕から逃げ出す?」
意地悪そうにほほ笑むその顔は熱い疼きをさらに呼び起こした。
「一緒に死のうなんて俺は言えない。そんなこと思いもつかなかった。そんな男と……俺を比べないでくれ」
俺の言葉は答えになっていない。もどかしい、なにもかもが!
「比べるんだな、そう言ったのは透だよ?」
撫で上げられられたような感触に中心が疼き、うなじの毛が逆立った。智は「透」と俺の名前を呼んだだけなのに。初めて聞く智の声で紡がれた音は、俺の官能の源に突き刺さる。
「目をつぶって、透」
熱に浮かされているであろう自分の目が脳裏に映り、猛烈な羞恥心が湧き上がる。智に見られてしまった。逃げ出したくなって目を閉じる。視界から智が消えて少し楽になったその瞬間――智が俺の膝の上にまたがった。
「だまって」
驚きに声を上げそうになったところに静かに言われる。
「目をとじて……そのまま」
瞼に柔らかいものが触れる。智の唇だと気がついて、全身が燃え上がった。熱い、自分の体が信じられないくらいに熱い。
そして、口付けが始まった。唇を挟みこむように優しくはじまったキスはだんだん執拗になり、舌が唇を撫で、つつき、滑る。俺は我慢ができなくなって口を自分から開けた。それなのに待ち望んだ舌はまだ唇の上を行き来するだけ。
智を抱きしめようとしたのに、それも腕で抑え込まれる。
バカみたいに口をあけて舌を待ちうけている自分に気が付き、羞恥心が蘇る。思わずギュっと目をさらに強くつむったら唇が離れた。智の唇が耳元に寄せられた。
「動かないで……ね」
俺はもう抵抗をやめた。腕から力が抜けたのを確かめたのだろう、頬を両手で固定される一気に熱がやってきた。
唇をひと舐めしたあと待ち望んだ舌が口内に入り込む。唇と舌は俺を容易にとらえ、くすぐり、なぶる。追いかけると逃げて歯茎をすべり、唇を濡らす。
「くっ」
自分が先に吐息をもらすなんて今までなかった。相手のくぐもった声を聞いて満足した側だったのに、今はいいようにされている。でも、いい……もうどうでもいい、そんなことは。
憎まれ口を放っていた口唇と舌は今やまったく別の目的をもって執拗に動き回る。流れ込む唾液は智のなのか、自分が溢れさせているのかすら、わからない。
頬にあった手が滑り両耳を塞ぐ。ゴーっという水中の中にいるようなくぐもった音が支配する世界に投げ込まれた。
目をつむった暗闇の中で音だけが聞こえる。それだけではなかった。唾液の絡む音、舌のたてる滴の音、なにもかもが頭の中で共鳴する。
「んぅ」
自分のあげた声が驚くほど大きく聞こえ、官能を刺激する。
「ん……ぁ」
共鳴した吐息は水音とともに自分のすべてを支配して、逃れることも委ねることもできず、熱だけがどんどん膨れていく。
キスに溺れて窒息しそうだ。
どんどんせり上がって来るものを押し込めようとするのに、音が……淫らな音がそれをさせてくれない。背筋から昇って来るものをやりこめようと背中を反らしても効果がない。
どんどん脈打つ、徐々に、堪えようがないくらいに昂ぶり続ける……ああ、もう……だめだ。もう……っ!!!
膝にまたがられていたのに、いつの間にか自分は両足を割られていた。智の膝が中心をこすり上げるように圧迫した。
「んんぁ、あ、ああ!!……あぁぁ……」
耳を塞がれた水音の中で、自分の絶頂の声が響く。ビクビクと痙攣を繰り返していると手と唇が離れた。溺れた海の中から引き揚げられた直後のような自分が見えるようだ。
気だるいまま、ソファにもたれて薄く目をあける。
妖艶にほほ笑んだままの智が目の前にいた。その唇が濡れていなければ、今までのことは夢かと思うほどの落ち着いた顔。
「宮さん、僕を甘くみないほうがいい。解放するには勇気と力がいるんだ。僕が臆病になる意味、わかった?」
智は俺の前から静かに立ち上がり、そのまま玄関の扉が閉まる音がした。立ち上がることも、声をだすこともできなかった。
どれだけ時間がたったのだろうか。少し薄暗くなった部屋の中で、いい加減このままではいけないだろうと立ち上がる。自分のあり様をみて、まずは浴室にいった。
バスタブに勢いよく弾ける湯の音を聞きながら洗濯機の蓋をあける。着ている物を片っ端から脱いで放りこんだ。
まったく智は俺の予想を軽くこえてきやがる、いつもいつも。膝のひと押しで陥落したなんて、人生初めてだ。
バスタブに浸かりながら、智の言葉を思い出す。
『踏み出すには勇気がいるし、自分を解放するには、さらなる力がいる』
ずっとこのままでいいと結論付けた俺と大違いだ。始めた時から終わりに近づくなんて、ただの言い訳でしかない。
踏み出す勇気がなかっただけなのに、なにかと理由をつけて正当化した自分。唇でそれを俺に伝えた智。
言葉がなくても智の心は伝わった。充分すぎるほどに。それなのに俺は何を言った?『俺もやりまくったって話をすればいいか?』
この湯の中に自分を沈めてしまいたいぐらいだ。自分の言葉がどれだけ見当違いだったのか、身もだえしそうな程に恥ずかしい。
『肌のことなら、宮さんの1万倍しっているかもね。言葉や感情のやりとりは、つねに肌を合わせていたから』
さっきのキスを思い出す。いままで俺が数えきれない程したキスと全然違う。唇を重ね舌を絡める行為でしかなかったはずなのに、智と交わしたのは心のやり取りだった……流れ込んできた、智が。俺の中に。
心を落とすことができるキス。じゃあ、抱き合ったらどうなってしまう?想像でしかないが快楽や快感を追うだけのものとは別物だろう。行為としては同じかもしれないが、まったく違うはずだ。唇で心を得ることができたら、腕や胸を重ねれば相手に自分のすべてを落とせる……そして落ちてくる。
『だから僕は殺してって言った』意味がわかったよ。「小さな死」も、智とならそれを体感できると言った男の気持ちも。
『踏み出すには勇気がいるし、自分を解放するには、さらなる力がいる』
さらなる力。智……それは俺のことなんだな。
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