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009 人は手に入らない場所に焦がれてしまう1-3
「アロイス坊ちゃんにとっていい経験になるだろう」
「オヤジさん、店の仕込みだって手を抜かないよ」
未だにクロトさまに握られた手を見てニヤニヤしていたアロイスが顔を引き締める。
「ばっか野郎! おまえさんは侯爵家の皆様方のために全力を出すんだ。おれはここから動けねえ。……おれの味を食べたいからって、ひよっこの鼻たれなおまえでもいいから寄越せなんて、普通は言えねえぞ」
「普通は言わないことをクロトさまはここまでおっしゃりに来た……どうして?」
「ゾフィー嬢ちゃんの悪い癖だな。おれのパンが気に入ったからだって言っていただろ」
たしかにクロトさまはパンの種類の多さに驚かれて、自宅でも食べたいとおっしゃった。
配達するために持ち運びに適したパンしかお渡ししていない。
おやつの焼き菓子、夕食のパン、それらも朝に配達したものを召し上がられている。
豊かな領地を持つ侯爵家としては不自然な質素な生活だ。
昼過ぎや夕方の配達をメッツィラ商会が提案しなかったはずがない。
プロセチア家が他の商会を利用しているとも聞かない。
食に興味のない侯爵さまだけなら不便さを感じないけれど、兄妹の気持ちは別だったということかもしれない。
「チーズやショコラを練りこんだパンはアロイス坊ちゃんの気まぐれで出来たもんだしな。子供の味覚には子供が作ったもんがいいもんだ」
「たしかにティアさまはとても気に入られて――そっか、妹を喜ばせたかったのかしら」
好き嫌いが多く少食なのだとクロトさまはティアさまのことをおっしゃっていた。
誰でも小さいころは野菜が嫌いなものだ。
私もアロイスが野菜を入れたパンを作ってくれなければ、野菜など一生食べなかったかもしれない。
「庶民的であろうと、例外的であろうと、どうだっていい。ティアさまがおいしく食事をされるのが一番」
「そうだね。クロトさまは、そうおっしゃっていた。そこに嘘なんかない」
「十三歳のガキを侯爵家に送り出すなんて、死ねと言ってるようなもんだが……」
「アロイスなら大丈夫。いいえ、クロトさまが大丈夫にして下さるでしょう」
口に出してから後悔する。
パン屋なんかしているんじゃないと叱りつけるべきなのにクロトさまからの期待を裏切れない。
アロイスの立場など知らないクロトさまに別の人間を用意するなんて言えるわけもないし、アロイスもオヤジさんも納得しないだろう。オヤジさんの弟子はアロイスだけではないけれど、アロイスが一番優秀だ。
ティアさまが気に入ったパンもアロイスが作った物なので、別の人間を送り出すなどあってはならない。
高品質のものを作れる別人ならともかく、質が下がってしまうならクロトさまに紹介するべき人間ではない。
屋台骨であるオヤジさんではなく、才能はあっても若いアロイスを呼び寄せるあたり、クロトさまは物事を分かっていらっしゃる方だ。貴族はわがままで、自分の言うことを庶民は聞くべきだと考えている部分がある。無茶を叶えるのが商人だという貴族すら存在する。
カッツェロはそんな道理の分かっていない貴族にすら頭を下げる愚か者だが、そんなことをしていたら商会は潰れてしまう。貴族と商人は主従関係にない。貴族にとって便利な存在にならなければいけないが、商人は奴隷ではない。
クロトさまは七歳であっても、間違えていない。
商人を下に見たりしていない。
こちらが先に見下した形で対応したにもかかわらず、見ないふりという大人の対応をとられた。
明確に仕切りなおされた上に主導権を持っていかれた。
あれが貴族だ。
「もし、侯爵家お抱えにでもなったら――」
メッツィラ商会はどうなってしまうんだろう。
私の不安をアロイスは「兄は優秀だから、大丈夫だよ」と馬鹿げた言葉で誤魔化そうとする。
クズのカッツェロが優秀だとしたらそれは弟に権力を持たせないようにすることぐらいだ。
徹底してアロイスを商会から遠ざけるように動いている。
アロイスからすれば、それが良い兄に見えるのだろう。ふざけている。
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