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011 人間は矛盾するものだ1-1
夕食の前に帰宅した父が俺の部屋を訪ねてきた。
陛下に俺が戻ってきたことを聞いていたにしては、少しばかり遅い。
信頼の証なのかもしれない。
「お帰りなさいませ、お父様」
「ただいま、クロト。……言いたい言葉はいくつかあるが、お前からの説明の後に質問するのと私が先に質問して、それにお前が答えるのはどちらがいい?」
「説明ではなく、質問を先にしても?」
「構わんよ」
父がうなずくので俺はいくつかの提案が実現可能であるのかたずねた。
渋い顔をするものの、父はそのすべてが問題ないと口にする。
俺の計画を褒めてくれた。
「陛下の許可がなければならないものもあるが……お前の見立てでは」
「ええ。陛下は許可してくださるでしょう。俺の行動は国益を損ねるものではありません。俺に危険が及びすぎる場合は利益があっても、おとめになられるかもしれませんが」
「それはお前が知っている陛下であろう……と言いたいところではあるが、あの方は――」
「陛下はご自身が十年間どういった形で俺と接していたのかを想像して、その上で、俺を信用してくださっています」
自分が過ごしていた時間の記憶がない場合。人は自分の経験として受け取れない。
たとえば、誰かをいじめたとしても自覚が薄いせいでその記憶がない場合がある。時間が経ってから、罪状を並べられても、自分の行動のせいで復讐されているという実感がわかない。むしろ、自分がやったことだと伏せて内容を聞いて、いじめた人間に憎しみや怒りを覚えることすらある。記憶がなければ人はなかなか、自分の行動を認めない。
もちろん性格にもよるが、自分が持っていたはずの宝石が見当たらなかったら使用人が盗んだことを疑う。
自分がいつもと違う場所に仕舞っていた可能性など考えない。
なぜなら、一番信用できる自分の記憶の中に自分が宝石を移動させた記憶がないからだ。
宝石がない原因は他人だと考えるのが当たり前だろう。
自我というものは、自分の記憶からくる判断にある。
けれど、陛下は洞察力に優れており、発想は柔軟であり、ご自身のことを深く理解されている。
自分が実際に行動を起こしていなくても、自分であるならどうするのかということを考えて、俺と自分の距離感を察知した。
「だが、さすがに宝物庫から宝を持ち出すのは問題があるだろう」
「問題になりましたか?」
「……問題が出ないように陛下が口裏を合わせてくださった。陛下の名前を出して、宝物庫から物を持ち出すなどありえん。処罰の対象だ」
「本来であるなら不敬で、恥知らずなおこないですが――陛下は、なんと?」
想像がつくことだが、あの方は笑っていただろう。
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