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序.雷神と大蛇
「ここにいるんだろう! 出て来い、ヨルムンガルド!」
波一つ無く凪いでいた海辺に、雷鳴のような叫び声が轟く。
「ヨルムンガルド! お前に聞きたい事があるんだ。出て来てくれ!」
静かな海に向け、その声は何度も海面を震わせる。
「ヨルムンガルド!!」
『騒がしい!』
雷轟に負けぬほど大きな声が響き、それまで穏やかだった海が突然渦巻いた。
渦は次第に大きくなり、ゆっくりと中心が盛り上がって行く。
そして天に届くような水竜巻となった時、唐突に弾けて巨大な蛇が現れた。
『貴様は、己が雷神だと忘れたのか。トール、よくも俺の眠りを邪魔したな』
鎌首をもたげた大蛇は、先の割れた赤い舌をシュルシュルと出し入れする。
世界を取り巻く巨大な蛇、ヨルムンガルド。
別名をミドガルズドオルムとも言う。
大蛇はギョロリとした目を動かし、自分を呼び出した雷神トールを見下ろす。
『貴様、よくも俺の前に出られたな。貴様が父上に何をしたか――』
怨み言を吐こうとしたヨルムンガルドは、不意に言葉を呑み込んだ。
雷神トールの目に、覇気が無い。
いつも手離さないハンマーミョルニルも、後方に置き去りにしている。
らしくない。
『……どうした?』
トールの様子を奇妙に感じたヨルムンガルドは、怒気を抑えて聞いた。
トールの大熊のような巨体も、厳つい顔も、全てがどこか小さく見える。
トールが呟く。
「……俺には、分からないんだ」
『分からない……? 何がだ』
今にも泣きそうな顔を隠すように、トール神がうつむく。
「ロキが……お前達の親父が、どうして、あんな事をしたのか……俺には、納得できない」
あんな事――先日のバルドル殺害の事だろう。
ヨルムンガルドはフンと鼻であしらった。
『父上を捕縛しておきながら、何を言う。――俺が腹立たしいのは、父上を捕縛したのが、貴様だと言う事だ!』
憤ったヨルムンガルドが、海底を尻尾の先で打ったか、地響きがグラグラと海面を波立たせる。
『俺も貴様に問う。なぜ貴様が――父上の一番の友だった貴様が、なぜ父上を捕縛した! なぜだ!!』
トール神は悔しげに、唇をギリリと噛む。
「――それが、オーディン様の命令だったからだ。そして……ロキの真意を、聞きたかったからだ」
ヨルムンガルドはトール神を見詰めた。
「あいつは頭がいい。いくらバルドル様を嫌っていても、オーディン様の目から逃れられないと、分かっているはずだ」
オーディンは全てを見通す千里眼を持っている。
……事実、フラーナングの渓流で鮭に変身し、身を隠していたロキを見付け出したのも、千里眼の力だ。
「例え、腹に据えかねる事があったんだとしても……あいつならきっと、いくらでも言い逃れる方法を思い付くはずだ」
トリックスターと呼ばれたロキは、その卓越した頭脳と話術で、何度も窮地を逃れて来た。
「それに……」
『それに?』
惑うように言葉を止めたトール神を、ヨルムンガルドは静かに問い質す。
トール神は諦めたように、深くため息をついた。
「……あいつを捕まえた時の事だ」
* * *
オーディンに命令されたトールは、フラーナングの渓流で漁網を使い、ロキを捕らえた。
「皮肉だな、ロキ。自分の考案した漁網に、自分が捕まるなんて、思ってもなかっただろ?」
『そうだね。さすが僕の考案した漁網だ』
トールに尻尾を捕らえられたロキは、鮭の姿でビチビチと跳ねながら答える。
トールは深いため息をついた。
「ロキ……なぜ鮭になんかなった? まさか自分で考案した漁網の存在を、忘れた訳じゃないだろ」
一度跳ねるのを止めたロキは、フッと鼻で笑った。
『意味なんか無いさ。……ただの気紛れだよ』
そう言ったロキは、どこか悲しそうだった。
と言っても、当然鮭の顔色など分からないので、完全にトールの勘だ。
長い間ロキと付き合って来た友の勘が、ロキの言葉を嘘だと言っている。
「ロキ、本当の事を言え。どうしてバルドル様を殺させた? お前の事だから、何か、俺には分からない理由があるんだろう」
『……それを聞いて、どうするんだい?』
急にロキは、クックックッと、さもおかしそうに笑った。
『頭の悪い君が、トリックスターと呼ばれた僕を、言葉で丸め込む積もりかい? 残念だけど、それには乗れないね』
「ロキ。俺は本当に、お前の力になりたいんだ」
トールが必死に訴えると、笑うのを止めたロキは、皮肉に顔を歪めた。
『僕の力になるだって? それじゃあ君は、話によっては、僕を逃がそうと言うのかい?』
「それは……」
実際、逃がしても良いと思った。
しかしロキは、喜ぶどころか、急にイライラと怒り出した。
『冗談じゃないよ。トール……君は僕だけじゃなく、オーディンも裏切る積もりかい?』
その言葉に、トールは度肝を抜かれた。
今のはどう言う意味だ?
まるでトールが、ロキを裏切ったように聞こえる。
『トール。そんな君に僕が捕まえられるのかい?』
「まっ、待て……!」
急に逃げようとした鮭の尻尾を、トールはとっさに強く掴んだ。
〈痛いじゃないか! 君は力の加減と言う物を知らないのかい?〉
いつもなら少し大袈裟にそう言っていたロキが、この時はフッと笑っていた。
『そう……それで良いんだよ、トール』
そう小さく呟くのを、トールは確かに聞いた。
* * *
話終えたトール神は、ハァーとため息をついた。
「頭の悪い俺には、あいつの考えている事が分からない。……ロキの息子であるお前なら、何か知っているんじゃないか?」
そう言うトールの目は、悲嘆に暮れていた。
「教えてくれ、ヨルムンガルド。ロキはどうして、あんな事をしたんだ?」
『……座れ、トール』
そう言ったヨルムンガルドは、体から光を放った。
そして一瞬後に、スラッと背の高い青年が、トールの横に現れた。
人の姿に変身したヨルムンガルドは、膝を立てたまま座り込み、トールにも座るように促す。
「少し長い話になる。……始まりは、バルドルが悪夢を見た事だった」
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