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1.バルドルの悪夢
何度となく自分が死ぬ夢を見たバルドルは、死の恐怖に怯えていた。
それを心配したオーディンは、その夢の真相を、蘇らせた巫女に占わせる。
バルドルの母は、世界中の有りとあらゆるモノ達に、彼を傷付けないように契約させた。
そのため、バルドルはいかなる武器を持ってしても、絶対に傷を負う事はなくなった。
「嘘だと思うなら、バルドルに何か投げてみよう」
事の発端は何だったのか、もう覚えている者もいないだろう。
一人、また一人と、バルドルに石を投げた。
そしてバルドルが傷付かないと知ると、剣や槍などを投げ始める。
バルドルの体が怪我を負う事は無く、誰もが無敵となった彼を喜び称えた。
ただ一人、ロキ以外は。
「傷付かないだって? 馬鹿らしい」
「おや、ロキ。お前さんは無敵のバルドル様が、嫌いなのかね?」
ロキはフンと鼻を鳴らして背を向ける。
「あぁ、嫌いだね!」
見るがいい!
腰まである純白の艶やかな髪を風に遊ばせ、爽やかに笑う美しい光の神を。
彼の整った眉尻と、端正な目元が、わずかに下がっている。
それを、他の誰が知っているのか!
全ての恨み言を呑み込み、そのままロキはどこかへ行ってしまった。
それをバルドルが、こっそり盗み見ているとは知らずに……
* * *
自分の部屋に戻ったバルドルは、一人で床を見詰め、深くため息を付いた。
物を投げ付けられるようになって、もう何日になるだろう……
傷は付かなくても、何度も物を投げられるのは、やはり辛い。
みんなにその積もりが無くとも、それは攻撃されている状態と、ほとんど変わらないのだ。
初めは割り切っていられたけど、もうこんな事はしたくない。
もっと語り合ったり、静かに食事をしたり……普通に周りと付き合いたい。
試してみれば――などと、言わなければ良かった。
今は後悔している。
それに何度も攻撃される内に、気付いてしまった。
――『死ねない』と言う事に。
死ねないと言う事実が、自分にもたらす意味に。
バルドルは身震いした。
心臓が、苦しいほど早く、脈打つ。
動揺を胸の内に抑え込み、バルドルは大きく息を吐き出した。
誰かを探すように、そっと自分の部屋を見回す。
部屋の角に据えられた、飴色に輝く机。
中央に鎮座するベッドを囲み、幾重にも垂れ下がる白布が、窓から入る風に揺れている。
壁を占領するのは、様々な書物を収めた本棚。
後は、部屋を明るくするための蝋燭があるだけ。
静かにため息を付いたバルドルは、そっと机に歩み寄る。
そしてその引出しから、銀色のペーパーナイフを取り出した。
部屋の灯りを受け、美しい光を返す鋭い切っ先を、ぼんやりと見詰める。
袖を引き下ろしたバルドルは、その冷たい刃を、ゆっくりと手首に宛がう。
『何をしているんだい? バルドル』
バルドルはハッとした。
声の主を目で辿り、窓辺に留まる白い鳥を見る。
白い鳥がクックックックと笑う。
『もっとも……そんな事をした所で、君の体に傷を付ける事など、できやしないのだろうけど』
「……ロキ様……」
小さな声でポツリと呟いたバルドルは、そっとペーパーナイフを下ろした。
「……お恥ずかしい所を、お見せしました」
軽く頭を下げるバルドルの前で、突然白い鳥が消えたと思ったら――
「あまり良い趣味ではないね」
不意にバルドルの背後から伸びた手が、そっと顎を捕らえる。
「今日も、変わらず美しいね……」
一瞬で鳥から人の姿に変わった男は、バルドルの白い頬に、軽く口付けを落とした。
「ありがとうございます、ロキ様」
離れて見ると、やはりそれは欺瞞(ギマン)やイタズラの神、ロキだった。
バルドルの父オーディンの義兄弟であり、義理の親子でもある。
だからバルドルにとって、叔父と甥であり、義理の兄弟でもあるのだ。
こうして話をする事も、実は何度もある。
「こんな時間に、どうしたのですか?」
綺麗に整えられた金髪を揺らし、全ての女性を虜(トリコ)にする、涼しい眼差しをバルドルに向ける。
「僕は鳥の姿で、空の散歩をしていたんだが……君はまた、つまらない事をしていたようだね」
嘲笑を含んだロキの言葉を受け、バルドルは悔しさに唇を噛み、うつむいた。
欺瞞を司るロキに、隠し事などできやしない。
世界中のどんな刃物よりも鋭いその瞳に、全てを見透かされてしまうのだ。
黙り込むバルドルの顎に、白い指先が伸びる。
バルドルはハッとした。
いつの間に、また背後を取られていたのか――上を向かされた顔に、息が掛かるほど間近で、ロキに見下ろされる。
ロキの指先が、そっとバルドルの頬を撫でた。
「そんなに嫌なら、嫌だと言えば良い。……何を遠慮しているんだい?」
金色に光るロキの瞳から目を離せず、バルドルは思わず唾を飲む。
「君はもう、知ってしまったのだろう? 傷付かない事がもたらす、その痛みを――」
バルドルはハッとして、唇を震わせた。
形の良い目をゆっくりと見開く。
「バルドル……」
ロキの声に促され、操られたようにバルドルは口を開いた。
「……先日……世話をしていた、小鳥が……死にました………」
寸前まで生きていた命が、ゆっくりと動かなくなっていく。
「それまでは……私も、そんな風に……死ぬ事が……怖かったんです……けれど………」
手の中で、少しずつ冷たくなっていく小鳥に、バルドルは寂しさを覚えた。
もしも死んだのが、小鳥ではなく、大切な誰かだったら――
「ッ――――!!!」
その時の恐怖を思い出し、急にバルドルの膝が崩れ、ガクリと体が傾ぐ。
「おっと……」
とっさにバルドルを支えたロキは、その震える体をそっと抱き締める。
「……私は、死ねない……好きな人が、死んでしまっても……私は……」
バルドルの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
ロキは珍しく何も言わず、ただその小さな体を、強く抱き締めていた。
やがて落ち着いたバルドルは、ロキの胸の中でため息をつく。
「……ごめんなさい」
ゆっくりとバルドルの髪を撫でながら、ロキがクスリと笑う。
「構わないよ。可愛い人に優しくするのは、僕の役目だからね」
バルドルを泣かせたのは、ロキだろうに……
その言葉を呑み込み、バルドルは小さくクスクスと笑った。
「ありがとうございます、ロキ様……」
こうして弱い所を見せられるのは、ロキだけ。
少し心が軽くなったバルドルは、甘えるように、ロキの胸に頬を擦り付ける。
それを受け入れたロキも、フッと鼻を鳴らす。
いつもフェミニストを気取り、キザに振る舞っているロキには、そんな仕草が良く似合う。
「可愛いバルドル……君はもう少し、ワガママを言った方が良い」
「………ワガママ――ですか?」
戸惑うバルドルを、ロキの黄金色の瞳が見詰める。
「君は我慢をし過ぎる……そのままでは、君の心が、潰れてしまうよ?」
「あ……」
いつの間にか、バルドルから取り上げたペーパーナイフに、ロキが軽くキスを落とす。
そして何の躊躇いもなく、机の上に放り投げた。
ペーパーナイフが、カランと小さな音を立てる。
「嫌なら、嫌だと言えば良い」
バルドルはまたうつむき、ため息をついた。
「……元はと言えば、私の蒔いた種ですから」
吹っ切れたような顔で、キッパリと言うバルドルに、突然ロキがチッと舌打ちする。
「君のそう言う所が、僕は嫌いだよ」
忌々しげな顔をするロキにビクッとし、バルドルは後ろに下がろうとした。
その前にロキの手が、乱暴にバルドルの肩を押し、ベッドの上に転ばす。
驚きに息を呑むバルドルの上に、ロキの体がのし掛かる。
逃げようにも、ロキにしっかり組み敷かれたバルドルは、身動きが取れない。
ロキが怒りを含んだ目で、バルドルを見下す。
「君はいつもそうだ。人の顔色を伺ってばかりいるクセに、自分の決めた事は絶対に変えない」
ロキの片手がバルドルの首に掛かり、軽く力を掛けられる。
「くぅ……」
「傷害にはならなくとも、苦痛は感じるだろう?」
さらに力を入れようとするロキの手に、白い放電が走った。
静電気のような光が、ロキの手をバルドルから引き離し、白い手に細かな裂傷を作る。
呼吸が解放されたバルドルは、何度も荒く息を吸い、胸を上下に揺らした。
「ロキ様……なぜ……」
「なぜ、だって? この僕が、気紛れに忠告してあげたのに、君は聞き入れないじゃないか!」
少し声を荒げたロキが、傷だらけになった手を、ペロリと舐める。
その目は、何かを狙ってギラギラしていた。
「ロキ――!?」
呼び掛けようとしたバルドルの口が、ロキの唇に塞がれる。
驚きに目を見開いたバルドルは、抵抗する事も忘れ、されるがままだった。
チュッと小さなリップ音を立て、やっと唇を離したロキが、紳士的な顔でニッと笑う。
「口で言っても分からないなら、身体に教えてあげよう」
そっとバルドルの頬を撫でたロキが、親指の先でバルドルの唇をなぞる。
バルドルの体が、ブルッと震えた。
「君のこの、美しい薄桃色の唇は、ただの飾りじゃない。……ほら、ワガママを言ってごらん」
ロキの甘くとろけるような声が、バルドルの耳を優しくくすぐる。
そっとバルドルの前髪を掻き上げ、またしっとりとした口付けを落とす。
小さく「ン……」と息を漏らしたバルドルは、ビクッと身体を震わせた。
ロキに下唇を舐められ、促さされるままに開いた口内に、ゆっくりと熱い舌を射し込まれる。
初めての口付けを、目を閉じて甘受したバルドルは、そのままロキの腕の中に堕ちていく……
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