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3.最後の願い

バルドルが目を覚ましたのは、やっと東の空が白み初めた、早朝だった。 昨夜、ロキと共に絶頂を迎え、そのまま気を失うように眠ってしまったのだ。 「おはよう、バルドル。気分はどうだい?」 軽く身動いだバルドルは、上半身を起こしていたロキを、ぼんやりとした目で見上げた。 まだ少し眠いのか、とろんとしたその顔は、どこかうっとりとさせる色気を含んでいる。 「ロキ様……おはようございます」 ふんわりと微笑むバルドルに、ロキはクスクスと笑って、彼の髪を片手でそっと撫でた。 極上の絹糸のようなバルドルの髪は、絡まる事を知らず、スルリとした指通りが気持ち良い。 目を細めたバルドルが、子供のようにほっとした顔をする。 クスッと笑ったロキは、軽く上体を屈め、優しい口付けを落とす。 うっとりとその口付けを受けたバルドルは、そっとロキの背中に手を伸ばし、ベッドの中に引き込む。 「積極的だね……。どうかしたのかい?」 「ロキ様……私のお願い、聞いてくれますか?」 上目遣いにロキを見たバルドルが、静かに微笑む。 バルドルの髪を一房取ったロキが、キザったらしく口付けた。 「君の願いなら、何でも叶えてあげるよ……」 軽い気持ちで言ったその言葉が、間違いだったと、ロキは後悔する事になる。 「ありがとうございます、ロキ様……」 嬉しそうに笑ったバルドルが、そっとロキの胸に擦り寄った。 ロキも優しくバルドルを抱き締める。 「ロキ様……」 バルドルが小さな声で、けれどはっきりした言葉で囁く。 「どうか、私を殺してください」 ロキの体が強張る。 一瞬、時が止まったような気がした。 少しして、ロキが渇いた声でハハ……と笑う。 「……それは……笑えない冗談だね」 少し体を離したロキに、バルドルが寂しく微笑む。 その目は、怖いほどに済んでいて――決して冗談を言う目ではない。 ロキは恐怖を覚えた。 「君は……自分で何を言っているのか、分かっているのかい?」 「はい」 バルドルが静かに頷く。 「……私は、ロキ様と対等になりたい。何物にも傷を負わない、死なない体ではなく――ただのバルドルに戻りたいのです」 バルドルの言葉はしっかりとしていて、その目には覚悟が宿っていた。 誰が何を言っても、バルドルの決意を覆す事はできないだろう。 それでもロキは、虚しい抵抗を試みる。 「……僕が、嫌だと言ったら……?」 バルドルは笑った。 けれどそれは、妥協の笑みではない。 「ロキ様はきっと、私を殺してくれます」 キッパリとしたバルドルの声に、ロキは少しだけ怯んだ。 「どうして……そう思うんだい?」 「ロキ様が――巨人族と共に、たそがれを連れて来る方だからです」 ロキはハッと息を呑む。 神々のたそがれ。 通称『ラグナロク』 数日前に魔女グールヴェイグが、アースガルドに来た事で、訪れると予感させた神々の終焉である。 だが――ロキが神々のたそがれで、巨人族の方に荷担する事は、誰も知らないはずだ。 どうしてバルドルが、その事を知っているのか…… ロキは生唾を呑み、バルドルを見詰める。 「どうして、僕がたそがれを連れて来ると?」 「あなたが、アース神族を憎んでいるからです」 さも当然だと言うように、バルドルは淡々と答え、悲しげに微笑む。 「魔女グールヴェイグの事を、愛していたのでしょう? だから、彼女を殺したアース神族を、憎んでいるのですね」 バルドルの説明を聞き、ロキは言葉が出なかった。 誰にも気付かれていないと思っていたが、まさかバルドルに感付かれているなんて――。 ロキは開き直って、口の端をクッと上げた。 「知っていて、なぜ僕を受け入れたんだい?」 「それは……」 急にカアッと顔を赤くしたバルドルが、少しうつむいてモジモジしだす。 「……言ったでしょう? 私は――あなたが好きなんです」 そっとロキの手を取ったバルドルが、愛しさを込めてその手を胸に抱く。 「たそがれの似合うあなたに……ずっと、憧れていました」 ロキは何も言わず、ただ眩しそうに目を細め、バルドルを見詰める。 顔を上げたバルドルは、寂しそうに微笑む。 「世界中のあらゆる物は、私を傷付ける事ができません。傷を負わない私は、戦いでは脅威になるでしょう。だからあなたは――」 私を、殺すしかないでしょう? その言葉が、その悲しい微笑みが、ロキの心を深くえぐる。 泣いてしまいそうになる顔を隠すように、ロキは強くバルドルを抱き締めた。 本当は殺したくない。 例え脅威となろうとも。 けれど、死ぬ事がバルドルの幸せになるのなら―― 「……愛しているよ、バルドル」 バルドルもそっと、ロキを抱き返す。 「その言葉だけで……私は救われます」 どちらからともなく、二人はしっとりと口付けを交わした。 何度も、何度も…… きっと最後になるであろう口付けを、惜しむように繰り返す。 「やっぱりロキ様は、優しい方ですね」 「愛する者を、殺さなければいけないのに?」 ロキが皮肉に返すと、バルドルは穏やかに微笑む。 「ロキ様は、優しい方ですよ」 バルドルの目が、ふっと窓の外へ行く。 その目線の先を見ると、ゆっくり昇って行く朝日が、山や大地を金色に染めている。 「この地は『平和の園』です。ここでは誰も嘘をつけず、争って血を流す事も無い。全ての神が、心の安心と幸福を得る場所――」 静かに囁いたバルドルは、改めてロキを見詰めた。 「この地には――邪(ヨコシマ)な者や汚れ(ケガレ)た者は、立ち入る事ができません。だから、いくら皮肉を言っていても、ロキ様の本心は優しい方です」 困った顔をしたロキは、真っ直ぐに見詰めてくるバルドルから目を背ける。 「……買い被り過ぎだよ。僕は、そんなに、できた者じゃない」 ロキは小さなため息をついた。 「司る物も、欺瞞(ギマン)とイタズラだ。君が優しいと言う、僕の本心さえも、欺瞞――虚構であり、偽りの仮面なんだよ。……きっとね」 自嘲的に笑うロキの頬に、そっとバルドルの手が伸ばされる。 そして、ロキの頬を両手で包んだバルドルは、優しく顔の向きを変え、その唇に唇を重ねた。 しっとりと柔らかく、優しい口付けだった。 胸が……苦しくなるほどに―― 「今……とても苦しいでしょう?」 バルドルの言葉に、ロキはハッと息を呑んだ。 見透かされている―― 慈悲深い眼差しで、バルドルは微笑む。 「……もう、自分さえも、偽らないでください。これが私の、二つ目のお願いです」 「バルドル……」 ロキはそっと、自分の頬に触れるバルドルの手に、手を重ねた。 「私の二つのお願い、叶えてくれますよね?」 バルドルは、意外と質(タチ)が悪いらしい。 問い掛けるような口調なのに、拒否する事は許されない。 ロキは覚悟を決めた。 「願いを、叶えよう。……愛する君のために」 バルドルは、本当に嬉しそうな顔で笑った。 「ありがとうございます、ロキ様」 ロキは苦笑する。 「まったく……最高のワガママだよ。このトリックスターと呼ばれた僕を、手玉に取るなんてね」 微笑む光の神に別れを告げて、再び鳥の姿になったロキは、その部屋から飛び立った。 もう二度と言葉を交わす事もない、秘密の恋人に見送られて――

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