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終.残されたモノ
「――この後は、貴様も知っているだろ」
そう結んだヨルムンガルドに、ずっと黙っていたトールは、重々しく頷く。
「……納得とやらは、できたのか?」
トールは大きくため息をついた。
「あぁ、納得した。アイツが……ロキがとんだ大馬鹿野郎だと、納得した」
「何だと、貴様――!」
憤りをぶつけようとしたヨルムンガルドは、とっさに口をつぐんだ。
トールは真っ直ぐ前を睨み付け、その目から涙を流している。
「トール……」
「何がトリックスターだ。クソッ……いつもいつも、いろんな女を取っ替えひっ替えしてるから、足元をすくわれるんだ」
吐き捨てるように毒づきながら、トール神のその口調は、言い知れない愛しさを含んでいた。
「結局はアイツも、本気で愛したヤツには勝てない、馬鹿野郎だったんだ」
トールは何かを堪えるように、唇を噛み締める。
「……馬鹿は貴様だ。そんなに泣くな」
「なっ……だ、誰が泣くかっ!」
恥ずかしそうに叫んだトールが、筋肉質の太い腕でゴシゴシと目元を拭う。
「泣いてなんかいないぞ! 俺はただ――悔しいだけだ」
ボソッと呟いたトールは、真っ赤に腫らした目を、遠くの山に向けた。
グオオォォォ……
丁度その時、唸り声のような地響きと共に、大地が揺れた。
岩山の下の洞窟で鎖に繋がれ、大罪を犯した罰に、頭から蛇の猛毒を浴びせられている。
その苦痛にロキがのたうつ度、大地が激しく振動するのだ。
トールが苦しそうに唇を噛み締める。
「……ロキを、あそこまで追い詰めたのは、俺達だ。アースガルドに訪れる災厄を恐れて、あの魔女を殺した」
節くれ立つ片手で顔の半分を覆い、懺悔(ザンゲ)するようにトールは嘆いた。
知らない所で、親友を傷付けてしまった。
過ぎてしまった事を、いくら後悔しても遅い。
ヨルムンガルドは遠くの山を見詰める。
「……父上は、お前に感謝しているだろう」
ボソッと呟くヨルムンガルドを、トールが静かに見上げた。
トールに向き直ったヨルムンガルドが、真っ直ぐに目を合わせる。
「理由はどうあれ……父上はバルドルを本気で愛し、愛するがゆえに、その意志に負けた」
全ての神々に愛されていたバルドルは、トリックスターの心さえ奪っていた。
「愛する者を殺めた時から……いや、もしくはバルドルを愛した時から――。父上は、罰を受ける事を望んでいたのだろう」
バルドルが死んだ時、冥界の女王は言っていた。
〈世界中の全ての者が、バルドルのために涙を流すのならば、彼をアースガルドに還しましょう〉
だから、ロキがすぐに罪を認めていれば、バルドルを生き返らせるために、涙を流すように命令されただろう。
そうすれば、今度はヤドリギまで契約させられ、バルドルの願いを叶える事はもうできなくなる。
死ぬ事を望んでいたバルドルを、再びこの残酷な――死を許されない世界に戻す事など、ロキにはできなかった。
それが、愛する者との約束だから……
「愛する者のために、泣く事も許されず……父上は辛かっただろう」
うつむいたヨルムンガルドが、静かに切ないため息をついた。
「そして葬送の後、最後にお前と話をしたかったのだろう。捕まるならば、親友のお前に――と」
『君は僕だけじゃなく、オーディンも裏切る積もりかい?』
ロキを捕まえた時の、その言葉の意味が、やっとトールに分かった。
どんな気持ちだったのだろう?
愛する者を殺さなければならず、しかもその愛する者のために泣く事もできないなど……
トール神も大きなため息をついた。
トール神がロキを捕まえる事で、少しでも慰めになったのだろうか?
黙って考え込んでいたトールは、静かにうつむいて頭を振った。
「……やっぱり、頭の悪い俺には、よく分からない。俺のした事が、本当にロキのためになったのか?」
肩を竦めたヨルムンガルドは、呆れたような顔をして鼻で笑う。
「分からないなら、それで良いだろう。父上も、お前にそんな事は期待していないさ。――ただの自己満足だからな」
「……そうだな」
深く頷いたトール神は、急に低く笑い出した。
「アイツの考えてる事は、本当にいつも、よく分からないな。まったく、ロキらしい」
まだ少し陰りのある顔で笑うトールに、ヨルムンガルドは軽く息を吐き、おもむろに立ち上がった。
少し距離を取るヨルムンガルドを、トール神は不思議そうに眺める。
「武器を取れ、トール。頭まで筋肉のお前は、グダグダと考えるより、無駄に体を動かした方が良い」
そして充分に離れたヨルムンガルドは、一瞬にして大きな蛇の姿に戻った。
本来の姿――世界を取り巻くようなと言うほどではないが、それでも山のように大きな蛇が、静かにトールを見下ろす。
頷いたトールは、ゆっくりと立ち上がって、愛用のハンマーを手に取った。
『行くぞ!』
「あぁ、来い! ヨルムンガルド!」
威勢の良い声を上げ、トールとヨルムンガルドは、何度もハンマーと長い尾を打ち合わせた。
「なぁ、ヨルムンガルド! もう一つだけ、聞きたい事がある」
『何だ?』
攻撃の力を弱めず、ヨルムンガルドが問い返す。
「……バルドル様との約束がなければ、ロキはどうしていただろう?」
『………』
ロキがバルドルの後を追って死んでいたら――全ての者が涙を流すと言う、あの条件も満たされていた。
バルドルとの約束がなければ、ロキは――
ヨルムンガルドは鎌首を振る。
『俺にも分からん。……だが、もしも俺が死ぬ時は、必ずお前を道連れにしてやる』
「――そんな事は、ごめんだ!」
そしてトール神とヨルムンガルドは、その日一日中戦い合っていた。
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