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第5案【締結を撤廃ですか?】 前編

 ──その日、事務所の様子がおかしかった。  職員がキーボードを叩く音と、電話応対をする声や、資料の作成で必要な職員同士の話し声。……あまりにも普通の会社みたいな風景が、広がっていたのだ。  ──事務所内に、井合課長が居るというのに。  俺は思わず、井合課長が座っている課長席に視線を移す。  井合課長は珍しく、マグカップを片手で持ちながら、デスクに置いてあるパソコンを黙って睨んでいた。  ……変だ。どう見ても、おかしい。  井合課長だって、職員だ。業務時間中の私語は多いけれど、仕事をしている時だってある。だから、この光景がおかしいわけではない。  ──問題なのは、井合課長が今日【一度も声を発していないこと】だ。  最近の井合課長は、どことなくおかしかった。  アダルトグッズを取り扱っている会社とうちの会社が提携するという提案を可決させたあの日から、日に日に口数が減っていったのだ。  二日目までは『真剣にアダルトグッズを考案しているんだろうな』くらいにしか思っていなかったが、今日で一週間が経つんだぞ? こんなに静かな井合課長は、どう考えてもおかしい。  周りの職員も『仕事に集中しています』感を醸し出しているが、チラチラと井合課長を覗き見ている。皆、考えていることは同じなのだろう。  あと、どうでもいい話だとは思うが……井合課長が持っているマグカップの柄が【羊】ってなんだよ? 貴方、三十路だろ? 可愛いんだよ、ふざけるな。  そんな取り留めのないことを考えていると、井合課長が視線を上げた。  井合課長を見つめていた俺と、当然ではあるが即座に、目が合う。 「「……」」  ……が、お互いになにも言わず、視線を外す。  ちなみに、普段なら目が合えばこう言ってくる。 『──なんだ、クソ童貞! 俺様で見抜きでもする気か? 公私混同してんじゃねーぞ!』  大きな声でそう言われるのは迷惑だが、なにも言われないなら言われないで、かなり凹む。好きな人が相手なのだから、仕方ないだろう。  なんとなく気まずさから視線を外してしまったが、セクハラ大好き井合課長が、なにも言ってこないなんて。……やはり、どう考えてもおかしい。  パソコンを眺めるも、なんとなく落ち着けないでいると……事務所の扉が開いた。 「──井合、話がある」  入ってきたのは、増江課長だ。  増江課長は今日も、普段と変わらす難しい顔をしている。  その表情のまま、増江課長は様子がおかしい井合課長のデスクへ近寄った。

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