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第5案:後編

 井合課長は顔を上げ、増江課長を睨み付ける。 「増江か。……奇遇だな。丁度、俺様もお前に話があったところだ」 「そうか。お前さえ良ければ、今ここで話しても構わんが」  事務所に居る職員全員が、静かに息を呑む。皆、二人の会話に聞き耳を立てているのだ。  すると、なぜか。 「……」  井合課長は一瞬だけ、俺の方に視線を向けた。  俺を見た後、井合課長は口を開いては閉じ……また開いては、悔しそうに閉じる。  それはまるで『アイツの前では言い出し難い』と。そう言いたげな挙動だった。  井合課長の考えが分からず、思わず目を丸くしていると……先に、増江課長が口を開く。 「──会議で可決されたことを、私が裏で撤廃したことについての文句か?」 「──ッ!」  動揺したのは、井合課長だけではなかった。  ……井合課長が可決させた提案を、増江課長が撤廃させたって?   いったい、どういうことだ?  おそらく、増江課長が言っているのは井合課長が嬉々として話していた、あのことだろう。  アダルトグッズを取り扱う会社との、提携。……それは、増江課長も出席している会議で可決されたはずだ。  それなのに増江課長は、それを『撤廃した』と言っている。  井合課長が、憎々し気に増江課長を睨み上げた。 「分かっているのなら、話が早い。……増江、端的に問うぞ。なぜ、そんなことをした?」 「あの場に居た職員全員の平静さを失わせてから可決させた議題だ。改めて熟考させた結果、不適当な提案だったと結論付いただけだが?」 「そういうことを訊いているんじゃないッ! なぜ【お前が】そんなことをしたのかと訊いているんだッ!」  ただならぬ雰囲気に、二人を除いた職員全員が黙り込む。  増江課長の様子はいつも通りだが、井合課長は違う。あんなに激高しているところ……少なくとも、俺は初めて見る。  増江課長は表情を崩さず、椅子に座ったまま怒鳴り散らしている井合課長を見つめた。 「『不適当な提案』だった。二度も言わせるな」 「増江、俺様は──」 「──井合」  井合課長の発言を遮り、増江課長は冷酷に告げる。 「──公私混同は感心しない」  ──それは、いつも井合課長が口にする言葉だった。  同じ言葉なのに、こんなにも受ける印象が変わるのは……いったい、なぜなのだろう。  ──きっと増江課長の表情が、普段よりも冷たいものだからだ。  口を噤んだ井合課長を見下ろして、増江課長が嘆息する。 「はぁっ。……話は、それだけか? ならば、私の方も要件を話していいな?」  増江課長の言葉に、井合課長は力無く首を振って、呟く。 「駄目だ、後にしろ。今は……冷静じゃ、ない」  増江課長が露骨に表情を硬化させたけれど、先ほどまでの取り乱しっぷりを目の当たりにしていたからか。それ以上なにも言わず、増江課長は席を離れた。  例の会社との、提携。ただの悪ふざけで提案したのかと思ったけれど、それにしては様子がおかしい。 「井合、課長……っ?」  思わず名を呼ぶも、その声はどこにも届かない。  ……その日の、就業時間中。  結局、井合課長は一言も話さなかった。 第5案【締結を撤廃ですか?】 了

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