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第6案【俺は貴方の羊です】 前編
終業時間になり、職員が次々に事務所を後にする。
その時間がバラバラでも、全員に共通していることがひとつだけあった。
──皆、井合課長を心配している。
それも、そのはず。この事務所にいる全員が、井合課長と増江課長の口論を見てしまったのだから。そんなもの、心配して当然だろう。
──俺だって、そうだ。そのうちの、たった一人だった。
浅はか且つ狡猾な俺は、なんとしてでも『事務所で井合課長と二人きりの状況を作ろう』と、あえて残業することを選ぶ。そしてコソコソ、パソコンと向き合ってデータ整理を始める。
しかしその間も、井合課長は口を開かない。俺は俺で、残業代をもらうつもりもないのでサービス時間が増えていくだけ。
なので、心の中で『よし!』なんて呟いてみる。
俺と井合課長以外の、事務所に残る最後の一人。その人が事務所を出た瞬間、俺は意を決して立ち上がった。当然、向かうのは井合課長のデスクだ。
井合課長はパソコンを睨み付けたまま、マグカップを片手にコーヒーを飲んでいる。その視界には、俺が映っていないだろう。
俺は震えそうになる体をなんとか抑えて、口を開いた。
「井合課長。……だっ、大丈夫、ですか……っ?」
声が、震えてしまう。
井合課長と話すときに、緊張しない瞬間なんて無い。けれど、今日の緊張はいつものそれとは全くの別物だ。それに、無視をされる可能性だってある。
けれど、井合課長はマグカップから口を離し、俺を見上げた。
「クソ童貞。……俺様はお前に、謝らなくてはいけないな」
いつもは底抜けに明るい井合課長の、悲し気な言葉。それが、今日初めて俺に向けられた言葉だなんて、考えたくない。
──俺は、井合課長の笑顔が好きなのに。
井合課長はマグカップをデスクに置き、真剣な眼差しで俺を見上げた。
「聞いただろう? 増江の奴、俺様たちの悲願を、一蹴しやがった」
物申したいことはあるが、今はそういう状況じゃない。
俺は、黙って井合課長を見下ろす。
「お前をはじめ、職員全員の目標とも言える【アダルトグッズの開発】という、悲願。……俺様は、自分の無力さが悔しい……ッ」
わざとなんだろうか。凄く、本気で、物申したい。そんな心持ちで働いている職員、少なくともこの課にはいないぞ。
「オナホ、コンドーム、低温蝋燭にローター……っ。これから生まれるはずだった商品たちにも、どんな顔で向き合えばいいのか……ッ」
「あの、お言葉ですが──」
耐え切れず口を挟んだ、その時だ。
「──というのは、建前だがな」
突然立ち上がり、井合課長は空になった羊柄のマグカップを片手に、事務所の中にある給湯室へと向かう。
俺は目を丸くして、小さな歩幅で歩き出した井合課長を追い掛ける。
「今のは、どういう意味でしょうか?」
「そのままの意味だぞ。クソ童貞共の悲願である、夢のようなアダルトグッズの企画と開発。そんなものは、ただの建前だ」
「本来の目的は、別だとでも……?」
井合課長は慣れた手付きで、マグカップにインスタントコーヒーを投入し、お湯を注ぐ。
そのままスプーンでクルクルとコーヒーをかき混ぜながら、静かに呟いた。
「提携する予定だった会社はな? 俺様と増江、共通の知人が経営しているんだ。そして今、その会社は経営の危機に瀕している」
淹れたてのコーヒーを口に含み、嚥下する。
まるで嫌なことすらも飲み込むかのようにコーヒーを流し込む井合課長の表情は、とても暗いもののように思えた。
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