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第7話
午後、綾斗は再び、大学の多目的スペースで九条と向かい合って座っていた。
午前中は、九条と日野原の三人で打ち合わせをして、大学の担当者に挨拶をし、大学の食堂で昼食をともにした。その間、ずっと綾斗はどきどきしていた。S.Kujoと一緒に食べたこの学食の味は一生忘れまいと思ったが、興奮のあまり、味はまったくわからなかった。
九条の骨折の経緯については、日野原が昼食の時に教えてくれた。先月、ラボシステムの忘年会があり、その時、兄である部長が九条を居酒屋に呼んでいたのだが、帰りに部長が酔っ払って階段から落ちそうになり、それを九条が助け、代わりに落ちて骨折したそうだ。
え、マジで? と思う。
自分にも兄がいるが、兄が目の前で階段から落ちたとしても、助けられるかどうか甚だ疑問だ。とっさに判断できるという意味でも、動いて間に合うという意味でも、アルファはすごすぎる。
それと、九条の顔色はやはり普通ではなかったようだった。日野原が心配して、九条が問題ないと言う。そんな会話をもう三回ぐらい繰り返していた。
「部長に、九条さんの様子を教えてくれって言われてんのに、なんて答えたらいいんすか」
「元気にやっていたと言っておいてくれ」
「それ虚偽報告っすよ」
「兄貴に心配をかけたくないんだ。頼む」
日野原は根負けしたようにため息をつき、「それじゃ白藤、九条さんにあんま負担かけんなよ」と言って先に帰っていった。
だから今は、九条と二人きりだ。
これから新システムの仕様を教えてもらうのだが、それなりに時間はかかる。体調は本当にいいのかと思っていると。
「ご心配なく。仕事をしている時の方がまだ調子がいいですから」
今、やせ我慢を聞いた気がしたが、九条は仕様の説明を始めてしまった。
それから、あっという間に時間は過ぎた。
事前に渡されていた資料を読んだ状態ではよくわからなかったが、九条の説明により、システムの全体像が頭の中に組み上がっていく。綾斗が作るのはデータ連携の部分だけだが、全体像を知ることでより理解が深まる。プログラムを作る前から、これほど明確に内容を頭に描けたのは初めてのことだった。
これがS.Kujoなのか、と思った。
すごい人だとわかっていたが、人に教えるのもうまい。「仕事をしている時の方がまだ調子がいい」とのことだが、綾斗から見れば、これが絶好調じゃないのかと驚くほどだ。
この時間が楽しくて仕方ない。もっと聞きたい。もっとこの人と話していたい。
打ち合わせの予定時間を過ぎても名残惜しく、九条が大学のサーバー室に移動して更新作業を始めても、その横でデータ連携とは直接関係ない質問を続けさせてもらった。
「こちらの作業は終わりました」
タンッとEnterキーを押した後、九条はサーバー操作用のディスプレイとキーボードをたたんでラックに収納した。
サーバー室は、サーバーを収納した黒いラックがずらっと並んでいる部屋で、窓もない密室だ。大学の職員が入ることもまずないので、この場も二人きりだった。
「今日は本当にありがとうございました」
綾斗は深々と頭を下げた。時刻はもう午後五時で、予定よりかなり長く話していた。九条はこちらに目を向け、眉をひそめた。
「……一つだけ、いいか」
不意に口調が変わる。どきっとした。
「は、はい」
「君はオメガだよな。発情期にアルファと二人きりになるのはやめろ」
思ってもいなかったことを言われ、とっさに言葉が出なかった。
確かに今、綾斗は発情期だった。四日目だ。ただ、ほとんど症状がないため、自分の意識からも抜け落ちていたほどだ。
「わかる……んですか? そんなの」
「オメガだというのは一目でわかった。発情期の匂いは、さっきまで気づかなかったが、今は甘い匂いがしている」
抑制剤を飲み始めて以来、他人に発情期だと気づかれたことは一度もない。それぐらい、綾斗は抑制剤がよく効く体質だった。
なのに、どうして?
「薬の効きが悪い日だってあるだろう。君は無防備だ。オメガにはわからないんだろうが、誰かが発情期だとわかるだけで、アルファはムラッとくるんだ。それが、二人で話すのに発情期で、しかも密室になるサーバー室にまでついてきて……。そんなことされたら誘っているとしか思えない」
え。
言われて、焦った。
フェロモンがもれていることに気づかないふりをして、アルファを密室に誘い込む。そんなの、ビッチと呼ばれる類いのオメガがすることだ。
仕事の場で、「これだからオメガは」と言われまいと日々気をつけてきたのに、まさか自分がそんなふうに思われるなんて。
「それに最初に会った時から、私を見て顔を赤らめたり、声を上ずらせたり……、私に気でもあるのか?」
ど直球に言われて、ぼっと頬が熱くなった。
「気、気なんて、ありませんっ!」
反射的に言い返したが、九条は疑わしそうな目を向けてくる。何か答えなければと、綾斗はとっさに思いついた。
「あ……あのっ! 俳優……好きな俳優さんに、似てるんですっ」
「俳優に? ……私が?」
「はい、ドラマの俳優さんに、結構、似てて、それで上がってしまって……」
「……なるほど」
九条は頷いた。
「君とは会ったばかりだし、なぜそんな好意を向けられるのか意味がわからなかったんだが、そういうことか」
生じた疑問に対して矛盾のない答えを得たとばかりに、九条は納得を示した。
「嫌な言い方をしてすまない。だが、オメガに好意を寄せられても困るんだ。私は誰もつがいにする気はないからな。君に気がないならいいんだ」
窮地を切り抜けられてよかったが、「誰もつがいにする気はない」と聞いて、つきんと胸が痛む。
……いや、別に淡い何かを期待していたわけではない。ただオメガは歓迎しないと牽制されたから少し戸惑っただけだと自分に言い聞かせていると、九条が眉間にしわを寄せた。
「おい、匂いが本当に濃くなってきている。すぐ帰った方がいい」
「あ、はい。もう会社に戻ります」
「いや、会社に寄っている場合じゃない。直帰できないのか?」
「あ、僕、会社の近くに住んでるので、会社に寄るぐらいは大した時間じゃ……」
その時。
うなじのところ、今まで何かあるとも思っていなかったそこから、ふっと、何かが途切れた感覚があった。
途端、体が燃え上がるように熱くなった。
オメガの発情――ヒートだ。
「…………!!」
頭が、胸が、体の奥が、煮えたぎるように熱くなる。
立っていられず、その場に座り込んだ。
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