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第8話
どうして、突然ヒートが?
混乱していると、背後でサーバー室のドアが開く音がした。
松葉杖をついた九条が、荷物も持たずに部屋から出ようとしている。ヒートを起こしたオメガに対して、アルファが最初にすべき行動は、その場から離れることだ。
「電話番号は?」
早口でそう聞かれ、答えると、バタンとドアは閉まった。一瞬、取り残されたような気持ちになるが、間を置かずに綾斗の携帯端末が鳴り、すがるように電話に出た。
「九条だ。今、ドアの外からかけてる」
「す、すみません、すみませんっ、あのっ、こんなことになるって、思ってなくてっ」
「落ち着け。まずはこの状況をなんとかするのが先決だ。特効薬は持っているか?」
「あ……はいっ」
そうだ、こんな時こそ特効薬だ。特効薬を打てば、五分程度でヒートは収まる。綾斗は鞄からケースに入った注射器を取り出した。
しかし今まで一度も使ったことはなく、とっさには使い方がわからない。
「使えそうか?」
「あ、あの、使い方がわからなくて……」
そう言うと、九条がその場で調べて、使い方を指示してくれた。
注射針を取りつけ、空打ちをし、腕の皮膚に注射する。九条が電話口にいてくれたのでパニックにならずに処置できた。これで五分後にはヒートが収まるはずだ。
あと五分。耐えられるか。
ズボンの中に手を入れてめちゃくちゃにしごきたくなるのを、必死に我慢した。
五分後にはヒートが収まる。ヒートが収まったら、九条がここに戻ってくる。その時、自慰の後の姿なんて見られたら、恥ずかしくて死ぬ。というか顧客のサーバー室で自慰とか、ない。せめてトイレまでは我慢しなければ。
しかし、五分経ってもヒートが収まる気配はない。時計を見ていた綾斗は、七分が過ぎたところで我慢できなくなり、ズボン越しに左手で股間を刺激し始めた。右手には、九条とつながったままの端末を持った状態でだ。
何やってるんだ……。
少しだけ、少しだけと思いながらも、股間を握る手の動きはだんだん強く、我慢のきかないものになっていく。
ぽつり、ぽつりと、九条が声をかけてくれるが、耳元でささやかれる憧れの人の声は逆効果でしかなかった。なんとか受け答えをしながらも、九条の声に欲情し、自慰をエスカレートさせてしまう。
「……十分経ったな」
その声を聞いた途端、綾斗は精を放っていた。もう下着の中に手を突っ込み、直に自身をしごいていた。
その音も聞こえていたかもしれないし、う、という絶頂の吐息も電話の向こうに伝わってしまう。さすがに気づいたのか、九条は無言になった。
……どうするんだよ、これ。
手の中に出したそれを見ながら、呆然とする。
一度出しても発情は収まらない。これからどうすればいいのか、もうわからない。
そもそもなぜこんなことになったのか。薬もちゃんと飲んでいたのに……。
そう思いかけて、あ、と気づいた。
昼食の時、九条と日野原の会話を聞くのに夢中で、薬を飲んでいない。それに今日はアルファである九条と何時間も一緒にいる。こんなことは今までなかった。
発情期に薬を飲み忘れない。発情期はアルファに近寄らない。その程度の注意は、オメガとしては基本中の基本だ。それがおろそかになったのは、自分は抑制剤が効く体質だから大丈夫、という過信がどこかにあったからだ。
自分の、せいだ。
情けなくて、涙が込み上げてきた。
「すみませ……僕のせいです。昼……薬を飲み忘れたんです。それに……発情期なのに九条さんと、長々と一緒にいたから……っ」
「いや、そうだとしても、特効薬が効かないというのは何かおかしい。異常だ」
冷静な指摘が返ってくるが、それ以外の原因は思いつかない。やはり自分のせいだと思う。
これから自分はどうなるのだろうか。
さすがにこのことを、もう会社には内緒にできない気がする。自分が黙っていても、九条が事の顛末をラボシステムに、兄に話すのではないだろうか。
顧客のところでヒートを起こしたのがバレたら、正社員の話どころか、即、派遣契約終了だろう。
せっかく、ここまできたのに。
オメガとしての性能は欠陥でも、プログラマーとしての性能を高めて、やっと仕事で認めてもらえたのに。
いや、それだけではない。
この失態は派遣元にも伝えられるだろうから、もう今の派遣元では仕事をもらえなくなるかもしれない。この三年間、地道に仕事を続け、派遣元の担当者もそれを評価してくれて、それがラボシステムへの派遣につながったのに。
「……まずいな。ドアの外にも匂いがもれ始めている」
「え……」
事態はより深刻な局面に突入しようとしていた。
サーバー室に面した廊下は、学生も職員も通る。その中には当然アルファもいる。
もし、このサーバー室にアルファが群がるような騒動になったとしたら。
鍵は内側からかけられるが、外から開ける鍵は職員のいる事務室にある。もしその鍵が奪われて開けられたりしたら。
オメガフェロモンに当てられてアルファの発情(ラット)を起こしたアルファがなだれ込んできて、組み敷かれ、犯される。そういう事件は特に珍しくもない。綾斗も何度もニュースで見たことがある。
そして大抵、オメガはうなじを噛まれてつがいにされる。噛まれるのを防止するための首輪があれば回避できるが、手元にはない。さらに、そんな事件で噛んだなら、噛んだアルファに道義的責任はない。むしろフェロモンを振りまいたオメガの方が加害者扱いになるぐらいだ。
つがいの関係は片方が死ぬまで解消されない。だから噛まれたオメガは一生、つがいのアルファに捨てられた状態になる。
捨てられたら、オメガは誰にも愛されなくなる。
これから一生一人かもと日常的に思ってはいる。けれどそれは、実際に誰にも愛されない体になるのとは全然意味が違う。
体中が熱いのに、うなじのあたりがぞくっと震え、冷や汗が伝った。
怖かった。
そんな、中学で噛まれて以来、散々悩まされた恐怖からは、もう解放されたと思っていたのに。
その時、通話越しに、かつ、と松葉杖の音がした。
九条が移動しようとしている。
それは暗闇の中にあったわずかな光さえ、遠ざかっていく感覚だった。
見捨てられる。置いていかれる。
「い、行かないで……っ!」
気づいたらそう口走っていて、電話の向こうで動きが止まった。
……いや、行かないでって、何言ってるんだ。
九条はアルファで、しかも足が不自由だ。本当なら、真っ先に発情したオメガからは逃げないといけない人なのに。
自分が危ないからって他人を引きとめるとか、あまりに幼稚すぎる。自分の言動が恥ずかしくなって顔に血が上る。きっと自分勝手な奴だと思われた。
そう思ったのに。
笑う息づかいが、電話から聞こえてきた。
「一つだけ確認したいんだが、避妊薬は飲んでいるか?」
「え……は、はいっ」
避妊の効能は、夜に飲む分の抑制剤に含まれていて、昨夜はちゃんと飲んでいる。
「わかった。それなら、私が相手をしよう」
……え?
相手って……?
「オメガのヒートは、アルファの精を中に注げば収まる。特効薬が効かない以上、それしか方法はないだろう」
それは――そうだ。
言われて、初めて気づく。
確かにそうすれば、この絶望的な状況から抜け出すことができる。でも。
「いっ……いいんですか……?」
「我々にとって、もっとも優先すべきは顧客だ。ここには仕事で来ている。君にとっても私にとっても、顧客は大学だ。大学に迷惑がかかるようなトラブルが発生したならば、協力して対処する。そうだろう?」
「……」
そうなの、だろうか……?
「君は嫌かもしれないが」
「いえっ、ぼ、僕は全然、いいんですけどっ……九条さんに、そ、そういう……っ」
また笑う息が聞こえた。
「いいから、待ってろ」
その言葉の温かさに、震えが走った。
こんなこと、あるんだろうか。
突然ヒートを起こした協力会社のオメガを助けなくても、きっと九条は誰からも責められない。そんなのわかる。
「今からサーバー室に入る。私もラットを起こすだろうから、私にうなじを噛まれないように注意してくれ。と言っても、この通りろくに動けない体だから大丈夫だろうが」
「あ……はい」
言われてみれば、これは九条の足が不自由だからこそ成り立つ手段だ。そうでなければ、ただうなじを噛まれて終わるだけになる。
「まともに歩けもしないし、体調もガタガタだ。最近は眠れてないし、本当に……生きているのも億劫だった」
……え?
「それが……こんな体が最悪な状態だからこそ、誰かの役に立てるとはな。――なんだか救われた気がする。ありがとう」
……救われた気がする?
最後につけ足された、かすれた声。それには泣き出しそうな響きが含まれていた。
今の、何?
救われた気がする、なんて言葉、普通使わない。
引っかかる。けれどその時、がちゃりとドアが開いた。
松葉杖をついた九条が入ってくる。
綾斗はといえば、自慰をした後だと思いっきりわかる格好だったが、九条は侮蔑することもなく、ただ優しく笑ってくれた。
あ……。
途端、痺れるような雄々しい香りに包み込まれる。アルファの匂いだ。
体が勝手に九条に引き寄せられる。気づいたら、もつれるように、九条を床に押し倒していた。
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