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第2話 先生、または桜井蒼汰
午後十時。武虎が熟睡し、父さんがテレビを見ながら晩酌をする時間。
コンビニに行くと父さんに伝えて、家を出た。夜になるとだいぶ風が冷たく感じる。厚手のパーカにマフラーを巻いて自転車に跨った俺は、そのまま近場にあるコンビニとは逆方向の公園へと向かった。
武虎を迎えに行く時に通る、小さな児童公園だ。若者やカップルはここより少し先にある広い市の公園へ行くから、この時間、児童公園は俺だけの遊び場となっている。
かといって本当に遊ぶ訳ではなく、ブランコに腰を下ろしてコーヒーを啜ったり、ベンチの上で仰向けになって夜空を見つめたりするだけだ。孤独な暇潰し。毎日来ている訳ではないし、これといって曜日や時間を決めている訳でもない。ふらりと行きたくなって、ふらりと帰る。たったそれだけの気分転換。
だけど俺は、この、世間から隔離されたような静かな時間と空間が好きだった。
「お、今日も誰もいない」
ここに来ると、そんな弾んだ声の独り言も出てしまう。早速ベンチに座ってコーヒーを開け、一口飲む。温かいコーヒーと、板チョコと。我ながら質素な夜の過ごし方だが、温まった体に夜風が気持ち良い。葉っぱのざわめく音も、靴の底で砂を蹴る音も、板チョコの割れる音も、どこか物悲しく、それでいて何故か安心する。
「はぁ、……」
小さく溜息をついたら、温まった体が少しだけ震えた。その時。
「こんばんは」
ふいに誰かの声がして、振り返る。背後にある入口から入って来たのは、ニット帽と黒縁の眼鏡をかけた男だった。
「こんばんは」
この辺りに住んでいる誰かだと思い、咄嗟に挨拶を返す。男はにこやかに笑って俺の方へと近付き、当然のように隣に腰を下ろしてきた。一瞬変質者かもしれないと思って身構えたが、その考えはすぐに消え去った。スマホを片手にした男が、「君が、メールの子かな?」と訊いてきたからだ。待ち合わせの相手を勘違いしているだけらしい。
「いえ、違いますけど……」
素直に答えると、男は落胆したように項垂れて「またすっぽかされた」と呟いた。
「三日前から約束してたのに、残念だ」
「そうなんですか」
電話で連絡を取らないところをみると、出会い系か何かだろうか。関わらない方がいいと、俺は本能的に察知して男から距離を取った。
「暇なら俺と遊ぶ? ちょっとなら金あるから、どっか連れてってやるけど」
「いえ、遠慮しときます」
男が眼鏡のブリッジを指で持ち上げ、俺を観察するように見つめてくる。
「君、いくつ」
「十八、ですけど……」
「じゃあ大丈夫だ」
何が? ――問う間もなく、男に肩を抱き寄せられた。ずっしりと重い腕だった。
「いま時間あるなら、バイトしてみる?」
「……バイト?」
その単語に反応した俺は、猶もこちらを見つめている男と視線を合わせた。
「うん。簡単なアルバイト。君くらいの齢の子なら、皆やってるだろ」
「何をしろって言うんですか」
「じっとしててくれればいいよ。時間にして三十分もかからないんじゃねえかな」
それって、もしかして売春じみたことをしろと言っているのだろうか。
「い、嫌です」
「じっとしてるだけなのに?」
「だってそんな、援助交際みたいな真似……」
「二万払うけど」
一瞬、金額の大きさに思考が停止した。男はその隙を逃さず、更に距離を詰めて俺の目を覗き込んでくる。
「少しの間じっとしてるだけで二万円のバイト代。悪くねえだろ」
確かに、それが本当だとしたら悪くない。触られるのは嫌だが、触らせられたり痛い思いをするよりはずっとましだ。三十分間じっと耐えれば二万円。時給千円のアルバイトなら二十時間分の給料だ。
「………」
二万円で、武虎の自転車が買えるだろうか。
ぼんやりと思い、打ち消して、だけどまた考える。そんな汚れた金でとは思うが、金は金だし関係ないとも思う。俺は早急に金が必要で、武虎もなるべく早く自転車が必要で、そうすれば武虎はもう一人だけ走らずに済むし、友達と仲良く遊べるし……
「おい、大丈夫か? そんな考え込むなら止めとくからいいよ」
「本当にじっとしてるだけでいいんだな」
覚悟を決めれば、断られると思ったのか逆に男の方が怯んだようだった。
「ああ、……」
「本当だな。それ以上のことしたら、警察に行くからな」
「疑り深い奴」
「でも、約束してもらわなきゃ困る」
懇願するように言うと、男が噴き出して俺の肩を再度抱き寄せてきた。
「分かったよ、約束する」
囁き声と共に、男の唇が近付いてくる。冷たくなった頬に息が触れるほどの距離だ。縮こまって強く目を瞑ると、男の唇が俺の頬へ押し付けられた。
「………」
初めて男にキスをされた。もちろん、女からされたこともないけれど。
ただ頬にキスを受けただけで震えてしまうなんて、少し恥ずかしかった。経験がないのを白状しているようなもので、男がその弱みにつけこんできたらと思うと怖かった。
「ガチガチだな、力抜けって」
「別に、……んっ」
手がシャツの中に入ってきて、熱くなった肌に直接触れられる。男の手の動きはひどく緩慢としていて、卑猥だった。
「っ、ん……、ん」
「いい反応してる」
「……や」
「君のルックスで未経験なら二万でも安いと思うぜ。あと一万上乗せしたら、咥えてくれたりして」
「や、嫌に決まってるだろ。始めの約束と違うっ……」
ここでそんなものを受け入れてしまったら、更に要求されるに決まっている。そうしていつの間にか取り返しのつかないことになるのだ。やはりこの男は、俺が世間知らずで流されやすい奴だと始めから分かっていたのかもしれない。
「真面目なんだな」
言いながら、男が俺の腕を軽く引っ張った。自分の膝に対面になるよう俺を座らせ、堂々とシャツを捲り上げてくる。
「ちょ、っ……」
「触るだけだ。ルール違反じゃねえだろ」
触れた指が冷たいのは、俺の体が熱くなっているからだろうか。
「ふぅ、……う」
なるべく声を殺して身を低くさせ、男の肩に頭を預ける。そうしていると男が俺の股間に触れてきて、あっという間にファスナーを下ろされてしまった。
「も、やめろ……! やっ、ぁ……!」
緩くなったジーンズの前から男の手が入ってくる。下着越しに擦られ、指先で捏ねるように揉まれ、俺は緊張に硬直した体を捩ることもできず、ひたすらその刺激に耐えようとした。
「変な触り方、するなって……!」
「とか言って反応してるし。気持ち良くなって金が貰えるなら最高のバイトだろ」
「違っ、……」
続けて、耳元に囁かれる。手は既に下着の中だ。
「二万円のバイト代で何買うんだ? 若いから、やっぱ服かな。それともゲームか。友達と遊ぶためか?」
「ひぁっ、あ、やぁっ……」
先端からとろりと溢れた体液を、男が指ですくって更に擦りつけてくる。閉じた瞼の端からも似たような液体が溢れ、そっちは自分の手で拭った。
「別に何でもいいけどよ。好きなことに使え」
「うあ、あっ……触るなってば、そんな……」
剥き出しになった俺のそれを擦りながら、男が俺の唇を舐め上げる。夜の空気が冷たければ冷たいほどに舌と吐息が熱く感じ、俺はその冷たさと熱さに堪らず顔を背けた。
声が、止まらない。
「あっ、ん……ん、やっ……」
「なあ、定期的に会ってくれるなら、もう少し金渡せるけど」
「だ、め……」
「毎週金曜、この時間にさ」
「駄目だってば……ぁっ、あ……」
俺は何度もかぶりを振ってそれを拒否した。怖くて仕方がないのに、その怖さから逃れるために危うく頷いてしまいそうになる。こんなの一度きりでも駄目なのに。定期的に関係を続けてしまったら、安定している生活が崩れてしまう。
孝行息子の翼が。頼れるつばさが。
崩れてしまう――。
「なあ、マジに考えてくれよ。翼くんが嫌がることはしないからさ」
「そんな、こと……言われても。――え?」
この男は今、何て言った。
「今何て言った?」
「嫌がることはしない」
「その前」
「マジに考えてくれ」
「その後」
「翼くん」
「っ……!」
俺は咄嗟に体を引き、目の前で笑う「男」の顔を改めて凝視した。
知らない。こんな男、一度だって会ったことはない。
「ど、どうして俺を……」
「あ、やっぱり気付いてなかったのか。俺は始めから気付いてたけど」
こんな男、……知ってる。会ったことがある。
たった一度だけ。それも、今日。
「……もしかして」
俺は震える声で問いかけた。既に下半身は萎えている。
「もしかして、武虎の英会話教室の……」
「桜井蒼汰だ。よろしく」
――やっぱり!
「よ、よろしくじゃないっ。何なんだよこれ、俺を騙したのか!」
「違うって、俺も会うまで気付かなかったんだ、完全な偶然だよ」
「途中から知ってて、ここまで……」
「始めはシラを切ろうと思ったけど、何か悪い気がしてな。変装用の眼鏡してたから分かんなかったんだろ。高かったんだ、これ」
動揺する俺を満足げに眺めているのは、紛れもなく夕方に会った英会話の講師だ。どうして今まで気付かなかったのだろう。暗かったからか、眼鏡をかけていたからか、顔なんて碌に見ていなかったからか。
「正体はバレたけど。金払うんだし、最後まで付き合えよ」
「か、金なんか要らなっ……あ、あぁっ」
逃げようとする俺の腰をがっしりと押さえつけて、桜井蒼汰が再び右手を上下させてくる。あっという間に芯を持ってしまった俺のそれが、桜井蒼汰の手の中で卑猥に濡れた音を立て始めた。
「やっ、めろ……もう、放せっ……」
混乱して、頭の中の収集がつかない。どうすればいいんだろう。もしかしたら大袈裟でも何でもなく、これで俺の人生は終わったのではないか。
だってこんなの、どう考えたって大ピンチだ。
「い……言わないで」
「ん?」
「お願いだから、あ……武虎には、っ……言わないで」
自分でも哀れに思えるほどの気弱な声、そして情けない言葉だった。
「俺が、そんなこと言う奴に見えるか?」
流石にムッとしたのか、桜井蒼汰が不機嫌そうに目を細める。
「だって、だって……こんな、のっ……あぁっ!」
こんな状況なのに、猶も激しく扱かれる下半身の刺激に耐えることができない。俺は低く身を屈め、桜井蒼汰の肩に額を押し付けてしゃくりあげた。
「お願、ぃ……だから、言わないでっ……」
「落ち着けよ翼くん、コッチに集中しろ。そろそろイきそうなんじゃねえの」
「あっ、あ……! 嫌、だ……もう、無理っ……」
屹立したその部分から体中に強烈な電流が走り、俺は腰を痙攣させながら桜井蒼汰にしがみついた。それが射精の前兆であることは分かっていた。
「出、ちゃ……う、からっ……あぁっ!」
「おっと」
上着のポケットから取り出したハンカチで、桜井蒼汰が俺の先端を包み込む。体が燃えるように熱くなったと思った瞬間、俺はその中に白濁液を放出させていた。
「は、ぁ……」
徐々に引いてゆく熱。目の前に散る星、虚脱感に体液の青臭さ――。俺は目の前の男にしがみつき、力の抜けた体をぐったりと寄り掛からせた。
「大丈夫か」
「大丈夫……な、訳ない」
ハンカチでそれを丁寧に拭われ、下着の中にしまわれ、ジーンズのファスナーを元に戻されてから、ようやく俺は桜井蒼汰の膝から降りた。
呼吸はまだ乱れているし、体中が燃えるように熱い。それでもようやく終わったという安堵から、夜風の心地好さは素直に感じることができた。
「言わねえよ、武虎には」
「………」
「ていうか、俺だって決して優位な立場じゃねえし」
「……そっか。俺が逆に、飯島先生にこのこと言ったらクビだもんな」
「言う気か、お前」
「言わないけど……」
「じゃあ俺も言わない」
お互いに命綱を握り合っている状態だ。秘密の保有者。共犯者。俺は上目に彼を見て、それから、ぎこちなく呟いた。
「……ていうか、金くれ」
「そうだったな」
蒼汰が財布を取り出し、中を開けながら言う。
「片手で扱いてイかせただけで二万か。高くついたな、素直に風俗でも行っときゃ良かった」
それなら始めからそうしておけ。言いたかったが、そんな気力もない。
「まあでも、『生徒の兄貴』っていう付加価値があるから二万でも安い方か」
「……あんた、これまでも生徒の母親とか兄弟に手を出してたのか?」
そんな訳ねえだろ、と蒼汰が噴き出す。
「たまに生徒の母親から誘われるけど、食事も番号交換も一切ナシ。何が噂になるか分かんねえから気を付けろって、飯島先生に言われてるしな」
「さり気なくモテてる自慢してる」
「してねえって。俺が好きなのは翼くんみたいな若い男だ」
「………」
「露骨に引いてんなよ、傷付くなあ」
「別に引いてないけど……。俺はその、……ゲイじゃないし」
「ふうん……」
手コキでイッた癖に、という顔をされて、俺は思い切り蒼汰の肩を押した。
「痛てえな」
考えたこともなかった。男とこんな行為をするなんて。いや、男だけじゃない……女とだって、俺には無縁のことだと思っていた。
「別にいいけどよ。その辺は気にしてねえ」
折り畳まれた二枚の万札を俺のパーカのポケットに入れ、蒼汰がにやりと笑う。もはや初めに教室で会った時とは、口調も目付きも変わっていた。
「しかし、武虎の兄貴がこんなチョロい奴だったとはな」
「俺だって、あんたがこんな人だと思わなかった」
夕方、教室で会った時の朗らかな笑顔なんてどこにもない。俺も、目の前のこの男も。お互い自分の欲望のために相手を利用したのだ。しかも……割と、最低な手段で。
「結局、人は見かけに寄らないってことよ。……だけどお前、こんな時間に公園で、一人で何してたんだ?」
咥えた煙草に火を点ける蒼汰。俺はそれを横からぼんやりと見上げて、「別に、気分転換」とだけ言った。何だか酷く恥ずかしかった。
「翼くん受験生だったっけ」
「違うけど、たまに外出したくなるんだ。夜だと静かで誰もいないし、遠出できないから、ここしか場所がなくて」
「ふうん。よく分かんねえけど、色々溜まってんだな。ただの気分転換なら、もっとストレス発散できるような遊びをしろよ。友達とカラオケ行くだけでも違うんじゃねえの」
「遊んでる時間ないし、……友達もいねえもん」
「まずいこと言っちゃった?」
「別に」
夜空に紫煙を吹きかけて、蒼汰が笑った。
「コッチでは俺も友達いねえから、一緒だな」
「蒼汰先生、こんなことしてる暇あるなら友達作った方が良かったんじゃないの」
気まずそうに蒼汰が苦笑して、短くなった煙草を横の灰皿に落とす。言い過ぎたかもしれない。俺は視線を地面に落とし、両手を擦りながら小さく息をついた。
「いつもこんなことしてる訳じゃねえ。今日はちょっと、な」
「何か、苛々してたとか?」
「まあ色々とな。大人はいつも何かに苛々してんだよ」
「俺も苛々する時あるよ」
「へえ、例えば?」
俺は身を乗り出して膝に頬杖をつき、唇を尖らせた。
「武虎がぐずって風呂に入らない時と、父さんが酔っ払ってリビングで寝る時」
「はは」
「……それから、一日終わって寝る時。今日も昨日と同じだったなって思うと、少し焦るんだ」
「今日は、昨日と違う日になっただろ」
蒼汰の手が俺の肩に触れた。途端にその部分だけが熱くなり、心臓がドクンと音を立てる。
「悪い意味で、だろ」
「厄介事が増えたって顔すんなよ。別にこれを理由に強請ったりしねえし」
「………」
「俺達だけの秘密な。これでも俺、生徒の母親達の間では好青年で通ってるからさ」
「知ってる。俺も騙されかけたよ」
「だから本当の俺を見せたのは、翼くんだけ」
意識せずとも秘密は増え、共犯者としての黒い絆が少しずつ固まって行く。俺は蒼汰の整った横顔を盗み見ながら、この奇妙な関係の始まりに胸をざわつかせていた。背後の闇はそんな俺達をまとめて取り込むかのように濃い。
それは、二人の秘密をたっぷりと含んだ瑞々しくも禍々しい濃さだった。
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