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第3話 日、月、暇なし

 日曜日、午後三時。 サッカークラブの練習から帰った武虎を風呂に入れてから、俺達は電車に乗って隣町のディスカウントストアに出掛けた。父さんが休みだから車を出してもらおうかと思ったが、テレビのゴルフ中継があるとかで頼むことができなかった。代わりに夕飯の材料を買う金と、その他に余分に小遣いをもらっている。 「アイス食べよう、つばさ。棒のじゃなくて、コーンのやつ」 「いいけど、寒くないか? 武虎、電車の中では足バタバタするな」 「サッカーしてたから暑い。おれ今日がんばったから、アイスとかのご褒美が必要なんだよ」  子供のサッカー人気が低下しているのか、それとも単に少子化のなせる業なのか。とにかく武虎が入っているサッカークラブは子供が少なく、毎週必ず試合ができるといった状況ではないらしい。ポジションも特にこれと決まっている訳ではなく、キーパーも交代でやっている。  今日の武虎は自分で言っていた通りキーパーを任されていたらしく、誇らしげに鼻血を垂らしながら帰って来たのだった。 「サッカー楽しいか?」 「楽しいよ」 「英語の教室とどっちが楽しい?」 「どっちも好き。コーチも面白いし、蒼汰先生もかっこいい」  蒼汰の名前が出てきて一瞬言葉に詰まり、何とかそれを咳で誤魔化す。 「………」  例の件はお互い秘密であることは約束したものの、俺は次の金曜、どんな顔をして武虎の迎えに行けば良いのだろう。今更何事もなかったかのように、「先生と保護者」として蒼汰と接することができるだろうか。 「つばさ? 駅、着いたって」 「あ、ああ。降りるぞ、寒いからパーカー着て」 「切符ちょうだい。無くしてない?」 「無くすもんか」  改札前で預かっていた切符を武虎に渡し、はぐれないよう手を繋いで駅を出る。夕刻前でも流石に日曜日なだけあって、周りはカップルや家族連れが多い。 「あ! 見て、すごい!」  ディスカウントストアには、予想通り多くのハロウィングッズが並んでいた。沢山のカボチャや幽霊を見た武虎の目がきらきらと輝き出す。 「つばさ、おれ、コレとコレ! あとコレも」  早速お菓子を見つけた武虎が、両手いっぱいに飴やグミを持って俺を見上げる。それらは確かに俺にとっても魅力的だったが、今日はお菓子でなく衣装を買いにきたのだ。俺は何とか武虎にそれを戻させ、別の売場に移動した。 「見ろ武虎。ドラキュラと悪魔、海賊の服もあるぞ。意外に残ってるもんなんだな」 「この中だったら、おれコレがいい」  武虎が指した衣装は、縞模様のツナギと帽子のセットだった。 「……囚人……」 「シマシマ好き。コレにしよう、つばさ」 「これは泥棒とか悪いことをした人が着る服だぞ。本当にこれでいいのか?」 「だって、ハロウィンは泥棒とか悪いことする日だろ?」 「全然違う。死んだ人をお迎えする日だ」 「じゃあなんでお菓子もらうの? なんでイタズラもするの」 「な、なんでだろ?」  答えが分からず困っていると、武虎が「あっ」と小さく声をあげた。横からやって来た別の子供が、残り一つだった囚人の衣装を持って母親の元へ行ってしまったからだ。 「……武虎、こっちにすれば? これの方がかっこいいじゃん」 囚人を別の子に取られて唇を噛んでいる武虎に、俺はしどろもどろになりながらオオカミ男の衣装を見せた。 「オオカミ男って、満月を見て変身するんだぞ。すごい強いんだ、超かっこいい。耳と尻尾も付いてるし、爪が生えた手袋もある。みんなびっくりするぞ」  無言で頷いた武虎が、衣装の袋を持って俺の手を握る。どうしたものかと思ったその時、視界の隅に、白い布の束のようなものがちらりと映った。  慌ててそれを手に取り、俯いた武虎の顔の前に差し出す。 「ミイラあった! 武虎、見ろ!」 「え……」  布の束ではない。クラシックミイラ・キッズ用――確かに袋にはそう書いてある。 背中がファスナー式になっているツナギタイプで、全身を覆う包帯もしっかりと縫い付けてあるから解けたり破れる心配もない。ところどころで包帯が垂れ下がり、シンプルながらもかなりそれっぽい造りになっていた。 「ミイラ!」  オオカミ男を元の場所に戻し、武虎がミイラの袋を抱きしめる。よほど興奮しているのか、頬が真っ赤になっていた。 「まさか本当にあるなんてな。武虎、来て良かっただろ」 「うん!」  機嫌の良くなった武虎を更に喜ばせたくて、俺はさっき武虎に戻させたお菓子入りのカボチャを再びその手に持たせてやった。 「夕飯の後で食べろよ。それから、算数の勉強も頑張るんだぞ」 「分かった! つばさ、ありがとう!」  単純というか、聞き分けの良い奴だ。このまま成長してくれれば、もう俺は何も言うことはない。 「じゃあ、夕飯の買い物して帰ろう」 「夕飯なに? ハンバーグ?」 「魚だ」 「魚か……」  その後も食料品売り場で魚や惣菜を選んだり、お菓子コーナーに行く武虎を引き留めたり、迷子になりかけた武虎に人混みの中で大声で名前を叫ばれたり、始めの約束をしっかり覚えていた武虎にアイスを買ってやったり、色々あってやっと地元の駅まで戻って来ることができた。 「ああ、疲れた。本当に疲れた、荷物重いし……」 「つばさ平気か? 荷物、おれが持った方がいい?」 「大丈夫。武虎はミイラしっかり持っとけ」  駅の駐輪場に停めておいた自転車に荷物を乗せ、ようやく安堵の息が洩れる。やはり駅まで自転車で来て良かった。 「おれも早く自転車ほしいな。つばさ、クリスマスには自転車買ってくれる?」 「そうだなぁ。武虎が良い子だったら、それよりもう少し早く買ってもらえるかもな」 「やった! やった、やった!」 「楽しみだな」  この先もずっと、武虎には楽しいことが山ほど待っている。未来は希望に満ち溢れ、これから何でもできるし、何にでもなれる。少しだけ羨ましく思いながら、俺は自転車を押して家路を急いだ。 「あぁっ!」  横断歩道を渡ったところで、突然、武虎が前方を指して大声を上げた。 「蒼汰先生だ!」 「えっ、嘘?」  見ると、丁度コンビニから出てきたらしい蒼汰が灰皿の前で煙草を咥えている。猛然と走り出した武虎の後を慌てて追うと、向こうも俺達に気付いて片手を挙げた。 「先生!」 「おっ、武虎……どうした、お兄ちゃんとお出掛けか?」 「あの、おれ、あのな! ミイラの服買ってもらって、それで……!」  興奮した武虎が袋を地面に置き、説明するより早いと中から取り出したミイラの衣装を蒼汰に見せる。 「おお、すごいかっこいいじゃん。それ着てくるの、楽しみにしてるからな」 「こ、こんにちは」  心臓が破裂しそうなほど高鳴っているものの、俺は蒼汰に向かってできるだけ自然に笑ってみせた。赤くなった頬は今にも火を噴きそうだ。 そんな俺とは反対に、蒼汰は相変わらずの人の良さそうな笑みを浮かべてこちらを見ている。 「こんにちは、お兄さん」 「蒼汰……先生は、今日休みなんですか?」 「ああ。ハロウィンで配るお菓子売ってるかなって思って来たんだけど、やっぱ大型のスーパーまで行かないと無理だな。もうこんな時間だし、横着するんじゃなかった」 「電車で三駅行ったところにディスカウントストアがあるんだけど、お菓子とかいろんなの売ってたぞ。俺達も今そこ行って来たんだ」 「そうか、じゃあ次の休みの日こそ行かねえと。ありがと、翼くん」  ふと下に目を向けると、俺と蒼汰の間で武虎が怪訝な顔をしていた。 「つばさと蒼汰先生、何で急にそんな仲良しになったの」  その言葉にギクリとしたが、すかさず蒼汰が身を屈めて武虎の頭を撫で、言った。 「武虎と先生は超仲良しだろ。それなら武虎のお兄ちゃんとも、仲良くしなきゃ」  そっか、とよく分かっていない様子で武虎が笑う。蒼汰の笑みが一瞬邪悪なものに感じられたのは気のせいか。 俺は自転車と武虎の背中を押し、蒼汰に向かって軽く頭を下げた。 「それじゃ、また」 「先生またな!」  手を振る蒼汰に背を向けて、夕暮れの中、俺達はゆっくりと歩き出した。上手くやり過ごせたと思ったが、ハンドルを握る手は見た目にも分かるほど震えている。 「家帰ったら、おれちょっとだけミイラ着てみようかな?」 「それなら、トイレでこっそり着替えて父さんを脅かしてやろうよ」 「それいい! 父さんびっくりして転ぶかもな!」  武虎の笑顔に、思わず俺の頬も綻ぶ。  どうってことない。蒼汰とは今みたいに接すればいいんだ。  この笑顔が崩れることに比べたら、俺の不安や焦りなんてどうってことない。 *  月曜日の朝は時間との戦いだ。  六時、朝食を作るついでに弁当箱に炊き立ての白飯を詰める。昨夜夕飯で出した鮭が残っていたからそれを入れて、ポテトサラダと唐揚げを適当に詰め込む。味噌汁の味見をして問題がないのを確認し、それを保温機能付きの水筒に注ぐ。 「おはよう翼、今朝は目玉焼きトーストか。美味そうだ」 「おはよう父さん。昨日はごめん」 「まだ打ったところが痛いよ」  父さんは昨夜、武虎のミイラ姿に腰を抜かして本当に転んでしまったのだ。体格に似合わず幽霊モノが苦手で、心臓が止まるかと思うほど驚いたらしい。 「味噌汁まだあるから飲む? パンには合わないかもだけど」 「飲む、飲む。今朝は寒いから温かいものなら何でもいい」 「何か急に冷えてきたな。昨日はまだ暖かかったのに」  父さんと一緒に朝食を済ませ、少し休憩してから今度は武虎の朝食作りに取り掛かる。昨日買っておいたウィンナーの袋を開けてフライパンに並べ、耳を切った食パンにピーナツバターを塗ってサンドイッチを作った。それとは別にもう一つ、これにはハムと卵を挟んだ。 「何だ、父さんもサンドイッチが良かったぞ。武虎ばっかりいいな」 「子供みたいなこと言うなよ」  七時、父さんを見送ってから、今度は二階に上がって武虎の部屋をノックした。当然、返事はない。 「起きろ武虎。学校だぞ」 「んん……」  布団に包まって呻る武虎の肩を軽く揺すり、カーテンを開ける。太陽の光がいっぱいに注がれるが、外はやはり寒そうだ。 「朝だぞ。顔洗って歯磨かないと」 「あと五分だけ……眠いから、少しだけ」 「武虎。昨日、父さんがびっくりして転んでたな」 「……ふふ」  目を閉じてもしっかり笑っている。その勢いで武虎の体をグッと抱き上げ、布団の上に立たせた。 「おはようつばさ。ロンメル、イスに座らせて」 「はいよ」  毎晩一緒に寝ているトラのぬいぐるみを武虎の椅子に座らせ、部屋を出た武虎が洗面所へ向かったのを見届けてから、俺は一階に降りて再び台所に立った。 「歯磨いた。お腹空いた」 「サンドイッチとウィンナーがあるから、食べろ」  椅子に座って牛乳に口をつける武虎の横で、今日学校へ持って行かせる体操着を畳む。紅白帽が見つからず洗濯物の山を探っていると、武虎が背後から「つばさ」と俺を呼んだ。 「どうした?」 「サンドイッチ美味しい。たくさん食べる」 「うん、足りなかったら作るから言え」  手元に視線を戻して紅白帽を見つけ、体操着と一緒に袋の中に入れる。袋の名札が取れかかっているのに気付いたが今はどうすることもできず、そのままランドセルのフックにかける。 「ごちそうさまでした」 「ん。今日ちょっと寒いからトレーナー着て、長ズボン穿いた方がいいかも」 「長いズボン今年初めてだ」  新しいジーンズを出すと、武虎が椅子に座ったまま両脚を持ち上げた。 「穿かして、つばさ」 「何だよ、今日はずいぶん甘ったれだな」  普段は黙って朝食を食べたり一人で着替えたりするはずが、今朝は何故か俺の気を引こうとしているらしい。訝しく思いながらもジーンズを穿かせてやり、ついでにトレーナーも着せてやった。 「行ってきます! つばさ、留守番よろしくな」 「任せろ」  家を出た武虎が角を折れて見えなくなるまで、俺は玄関の前で手を振り続けた。  八時、これからしばらくは一人きりだが、まだまだやることは山程残っている。食器を洗った後で洗濯機を回し、一階のリビングと台所、六畳の和室、それから二階の父さんの部屋と武虎の部屋、俺の部屋。それら全てに掃除機をかけなければならない。  武虎の部屋は布団が崩れていることを別にすれば、すっきりと綺麗に片付いていた。隅には僅かばかりのオモチャがあって、ベッドの横には網に入ったサッカーボールが下がっている。 小さな本棚にはきちんと漫画や図鑑が揃っているし、武虎のお気に入りのベンガルトラ「ロンメル」も椅子の上で行儀よく座っている。 「大きくなったら、ベッドの下にエロ本とか隠すようになるのかな」  独り言ちて窓を開けると、冷たい風が入ってきた。確実に冬は近付いて来ているのだ。そろそろ冬物の寝具や上着を納戸から出しておいた方がいいかもしれない。 「よう、早いな翼くん」 「え?」  声がした方へ顔を落とした俺は、一瞬、我が目を疑った。どういう訳か、家の前の道端に桜井蒼汰が立っていたのだ。咥え煙草で片手に携帯を持ち、眠そうな顔をしている。 「……な、何でそんなとこにいるんだよっ?」 「朝の散歩。翼の家、住所録で見たらこの辺かなって思って」 「こっ、このストーカー!」  動揺する姿を見られたくない。赤くなった顔を見られたくない。咄嗟に窓を閉めて逃げようと思ったが、俺は一つ深呼吸をしてそれを堪えた。 「翼くん、今何してんの?」 「……掃除。そっちは?」 「だから散歩」 「今日、仕事は?」 「あるよ、三時半からな。でもその前に教室行ってハロウィンの飾り付けだ」  そうなんだ、頑張れ、と小さく呟いたが、蒼汰の耳には届いていなかったらしい。俺の顔をじろじろ見上げるその目を見れば、何か良からぬことを考えているのは明白だ。 「翼くん、手伝ってよ。今度はちゃんとしたバイト代出してやるから」 「む、無理だよ。俺だってまだやることあるし」 「ここで待ってるから掃除終わったら来いよ。来なかったら俺、ショックで口が滑るかもしれねえぞ」 「………」  何て性格の悪い奴。  俺は窓を閉め、手にしていた掃除機を乱暴な手付きで元の場所へと戻した。  溜息をつきながら玄関まで行き、上着を羽織ってブーツに足を突っ込む。鍵を閉めて蒼汰のいる所まで行くと、メットを被った蒼汰が大きなスクーターに跨って俺を待っていた。 「今日は寒いな。そんな薄着でいいのか?」 「……教室まで、スクーターで行くの?」 「いや、始めに材料買わねえと。翼が昨日言ってたディスカウントストアに寄って、それからだ」 「その段階から? 面倒臭いよ」 「後席にメット入ってるから被れ」  渋々取り出したメットを被ると、蒼汰が体を捻って俺の顎紐を調節した。少し上目に覗き込むような視線を間近で見て、不覚にも体が硬直する。金曜の夜のことを思い出してしまったからだ。 「被ったら乗って、俺の腰に掴まれ」 「これ大丈夫なのか? 普通に乗ればいい? 頭フラフラする」 「大丈夫だ。吹っ飛ばされないようにしっかり掴まれ」  今まで一度としてスクーターに乗ったことのない人間の多くがそうであるように、俺もまた不安で一杯だった。自転車とはタイヤの大きさもスピードも不安定さもリスクも、全てが桁違いなのだ。一瞬でもバランスを崩せばあっという間に大事故になる。 姉貴のこともあって、俺はそこに跨るのが怖かった。 「もっと、ぎゅっとしろ」 「こう」  蒼汰の背中に胸をくっつけ、何があっても振り落とされないようしっかりと腰に腕を巻き付かせる。後ろから抱きしめている恰好だ。恥ずかしくて堪らないが、命には代えられない。 「よし、行くぞ」 「ゆっくりだぞ、ゆっくり……」  エンジンがかかり、車体が小刻みに、だけど激しく揺れ始める。俺は唇を噛んで覚悟を決め、蒼汰の背中に全てを委ねることにした。 「わっ、……!」  走り出したスクーターが、徐々にスピードを上げて行く。頬にあたる風が痛い。満足に目を開けてもいられない。俺は蒼汰の背中に顔を押し付け、どうか事故に遭いませんようにと必死で祈り続けた。 「蒼汰! もっとゆっくり……!」 「これ以上スピード落としたら、逆に危ねえって!」  こんなもの、自ら寿命を削っているのと同じだ。例え事故に遭って死ぬとしても、絶対にこいつを道連れにしてやる――。 「大丈夫かい」  三駅分走ってようやくディスカウントストアの地下駐車場に着いた時、まるで乱暴された後のような状態になっている俺を見て蒼汰が言った。 「……大丈夫」  ボサボサになった髪を手で整えながら、取り敢えずは無事で良かったと溜息をつく。 「普通のバイクと比べたらでかい分安定してるし、乗り易いんだけどな」 「それはもともと慣れてるから言えるんだろ。初心者にとってはバイクもスクーターも変わらない」 「ビッグスクーターだ」 「どっちでもいい」  とにかく地に足がつかないふわふわとした感覚が続き、俺はよろめきながら蒼汰と一緒にストアのエレベーターに乗り込んだ。  行き先はやはり四階のパーティーグッズ売場だった。ハロウィンまであと五日しかないからか、武虎と来た時よりも品数は少なくなっている。 「買う物、決まってんの」 「どうせカボチャとクモの巣だろ」 「そんな漠然とした感じ?」 「いいんだよ何だって、それっぽくなれば。翼もちゃんと選べよ、武虎が喜びそうなやつって考えれば簡単だろ」 「そう言われてもな。武虎って、他の子供と感覚が違うから……」  カボチャやコウモリなどが一本の麻紐で繋がった飾りは使えそうだ。それから「ハッピーハロウィン」のアルファベットガーランド。これは教室の入口か、外に飾っても目立って良いかもしれない。  ……なるべく良いものをと真剣に選んでいるのは、決して蒼汰のためじゃない。あくまでも武虎や他の子供達のためだ。 「個人的には、この骸骨かゾンビのマスクが欲しいな。翼、どう思う」 「子供が泣くだろ。俺だって怖い」 「色々あって迷うな。取り敢えず俺、あっち側見てくるから。決まった物はこのカートに入れとけ」 「可愛いやつを選べよ。可愛いやつだぞ」 「分かってる」  どうにも信用ならないが、俺は俺で装飾選びに夢中になっていた。  黒とオレンジ、それから紫色。なるべく統一されたテイストで、なるべく多くのキャラクターが入るように。一つ一つ手に取って見ているうち、次第にわくわくしてきた。クリスマスの飾り選びも好きだが、ハロウィンは俺にとって初めてだから、新鮮な気分だった。  俺が子供の頃はハロウィンなんて行事はなかったと思う。外国でそういう日があるということは知っていたが、ただ単にカボチャを飾る、程度の知識しかなかった。今でも具体的に何をするのかよく分かっていない。武虎の質問にも答えられなかったし、蒼汰に聞けば分かるだろうか。 「なあ、蒼汰。ハロウィンて日本のお盆みたいなものだっけ」  反対側の通路でしゃがみ込んでいた蒼汰の元へ行くと、蒼汰は案の定、全く子供向けとは言えないゾンビのマスクを興味深げに眺めていた。少しして俺が来たのに気付き、慌てて立ち上がる。 「ああ、ある意味では盆だな。先祖とか死者を迎える日」 「それがどうして、トリックオアトリートなんだ?」 「死者と一緒に悪霊が来る場合もあるんだよ。だから逆に悪霊を追い払うために、こっちも悪霊の格好をしてビビらせる、それが子供達の役目なんだってよ。でもって、悪霊に扮した子供達を家に入れないため、大人達はお菓子を用意して待ってるってとこか。カボチャのランタンを飾るのも悪霊を払うためだ」 「悪霊ばっかりじゃん」 「他の説もあるけど、どっちにしろ日本では馴染みのない祭りだよな。子供らより、若い奴らが単に仮装して騒いでる。大っぴらにコスプレしても非難されない日っていう印象なのかもな」  なるほど、と俺は蒼汰が見ていたゾンビのマスクに視線を落とした。 「まさかそれ被るつもりじゃないだろうな」 「これ被って翼に夜這いかけたら、どうなるかなって思って」 「別にどうもしない。それで、一応色々選んだんだけどチェックしてくれるか」  カートの中を覗きながら、蒼汰がスマホで金額の計算をする。多少予算をオーバーしていたらしく、結局余分な金は蒼汰が自腹で出すことになった。 「これ大事に取っておけば、来年もまた使えるからな」  全ての買い物が済んでから、俺はまた不安を噛みしめつつスクーターの後ろに跨る羽目になった。だけど来た時よりは体も慣れたのか、幾分か恐怖は和らいでいた。  ともあれ無事「トイ・グラウンド」に到着した俺達は、大急ぎで買った握り飯を食べて早速飾り付けに取り掛かった。 「俺、子供らの絵飾るから。翼は持前のセンスでどんどん飾っちゃってくれ」  ただの手伝いなのに大変な作業を割り当てられてしまったが、文句を言っても時間を無駄にするだけだ。俺は用意された脚立に乗って、真新しいクモの巣を天井に貼り付けた。 「こんな感じ?」 「ああ、もっと垂れ下がっててもいいんじゃねえの」  俺の足元で、蒼汰がコルクボードの壁に絵を貼っている。お化けの絵が大半だが中には何を勘違いしたのか、アニメのキャラクターや自画像と思わしき絵もあった。 「武虎の絵もあるのか」 「ああ。これだ、よく描けてる」  蒼汰が掲げた絵にはトラが描かれていた。武虎の大好きなベンガルトラだ。魔女のような帽子を被り、周りをカボチャに囲まれてにこにこと笑っている。その発想も絵のタッチも堪らなく愛らしくて、俺は脚立に座ったまま感嘆の溜息を吐いた。 「武虎はトラが好きなんだってな。教室でも、いつもトラの話してるぞ」  壁にその絵を貼る蒼汰を見下ろしながら、思わず苦笑する。 「それ、昔父さんに買ってもらったぬいぐるみなんだ。毎晩一緒に寝てて、日中は武虎の椅子に座らせてる。たまに風呂も一緒に入って、シャンプーしたりしてるんだ。可愛いだろ」 「男子でぬいぐるみって珍しいな。それとも、何かのキャラクターなのか」  不思議そうに絵を眺めている蒼汰に、俺はそのトラ「ロンメル」のルーツを説明した。 「……その話、俺が考えたんだ。小学六年の時に卒業記念で作った絵本のキャラクターなんだよ」 「へえ」 「丁度その頃に武虎が産まれて……0歳の時から毎晩、自作の絵本を読んでやってたんだ。そしたらすっかり気に入ったらしくて、今でも大人気」  画用紙で作った絵本は流石にボロボロになっていて、今は俺の机の引き出しの奥で眠っている。たまに武虎が寝る前になって「ロンメルの話して」とせがんでくることはあるが、何しろ自分で考えた話なのだ。わざわざページを捲らなくても、始めから最後までそらで話してやれる。 「どんな話なんだ?」 「簡単に言えば迷子のトラが、家族を見つける話。自分では凄い大冒険のつもりだったけど、今思うとかなり単純でありがちな物語だな。多分、当時見てたアニメの影響とかも入ってるんだろうけど」 「ふうん。今度俺にも見せろよ。簡単な話なら、英訳して授業で使うから」 「ぜ、絶対やだ」  喋りながらも作業を続けていると、始めてから二時間が経つ頃には教室中がハロウィンのそれっぽい雰囲気に包まれていた。 入口にもガーランドを取り付けたし、ランタンも飾った。壁中にお化けやコウモリの切り絵を貼り、生徒達の絵もいっぱいに貼った。どこから見てもハロウィンだ。胸を張って生徒を迎えられる。 「生徒が来るの楽しみだな。早く武虎にも見せたい」 「ああ、助かったよ翼くん。ありがとうな」  脚立を肩に担いだ蒼汰が片手で俺の頭を撫で回す。咄嗟にその手を跳ね除けたが、普段褒められ慣れていないからか、腹が立つのと同じくらい気恥ずかしくもあった。 「何だよ。手伝ってくれたご褒美だろ」 「そんなの要らな、……あっ」  唇を押し付けられた頬が瞬時にして赤くなる。 たったそれだけのことで体が動かなくなり、一切の言葉も出なくなった。 「中学生みたいな反応だな」  呆けた俺の目の前で、蒼汰が肩を揺らしてくすくすと笑っている。 「ふ、ふざけんなよ本当に……!」 「そういう反応されると逆にもっと悪戯したくなるんだって。学べよ、お前は」  にじり寄ってくる蒼汰を必死に両手で押し退けながら、俺は壁の時計に目をやった。午後二時。もうそろそろ帰らないと、俺も蒼汰もこの後の予定がある。 「子供達が勉強する場所で……こういうこと、するなって」 「背徳的で堪らねえか」 「そんなこと言ってないっ、……」  蒼汰が俺の後頭部に片手を添え、引き寄せた。 「あ、う……」  唇が塞がれるよりも先に舌が触れる。有無を言わさず絡めとられた俺の舌が、蒼汰の唇によって激しく吸われる。背中を反らせて逃げようとすれば、蒼汰が上体を曲げて俺を追う。 駄目だと頭で分かっているのに。体の力が抜けて、拒むことができなかった。 「ん、……ん、ぅ」  そうしているうちに、蒼汰の膝が俺の脚の間へと入ってきた。軽く刺激されて声が洩れ、腰の一点がむずむずして震えてしまう。 「や、あ……。やめろ、あっ、……」  ぐいぐいと押し付けられる膝頭。あの夜はもっと際どいことをされたのに、ここが教室だと思うと恥ずかしさに体中が熱くなった。その熱が期待なのか不安なのか分からない。ただもう何も考えられなくなって、本能を揺さぶる刺激に涙を滲ませるだけだ。 「……はぁ」  俺の口から舌を抜いた蒼汰が、俺の頭を胸に抱いて溜息をつく。 「流石にこれ以上は時間的に無理か。失敗した」 「………」 「また秘密が増えたな」 何だか翻弄されている気分だった。繰り返し緊張と緩和が与えられているような感覚に、気持ちが追い付いていかない。 俺は俯き、脚立を奥の事務室へ運ぼうとしている蒼汰の背中に質問した。 「……何であんたは、俺に拘るんだ?」 「翼に興味があるから」 「………」  脚立を戻した蒼汰が戻ってきて、下を向いたままの俺の肩に手を置いた。 「お前みたいな奴、今まで一人も周りにいなかったからな。純粋に知りたいんだ、翼がどんな奴なのかって」  何と反応したら良いのか分からないが、肩に置かれた蒼汰の手はどっしりと重い。まるで体が地面に埋まってしまいそうだ。 「翼も俺を見定めてる最中だろ。でも完全に俺を拒まないってことは、少なくとも悪い感情は持ってねえ訳だ。俺ら互いに探ってる状態で、そこから何かが始まるってこと」  何を根拠に言っているのだろう。どうしてそんなに自信があるんだろう。俺は狭い脳内に疑問符をまき散らしながら、不敵な笑みを浮かべる蒼汰の顔をただ茫然と見つめ続けた。 「そう固く考えずに。気楽に付き合って行こうぜ、翼くん。それから今日のバイト代な、武虎にお菓子でも買ってやれ」  俺の手のひらに、五百円硬貨が落とされた。グッズを買った時の釣り銭だ。 「そうだ。翼くんも金曜日の教室に参加しないか。武虎がお菓子作るの上手いって言ってたから、子供らに何か作ってきてほしいんだけど。これ、一応当日のスケジュール。生徒の人数とかも書いてあるから」  棚の上にあったプリント用紙を差し出す蒼汰は、友達に軽い頼み事をするような笑顔を浮かべている。自信に満ちた笑顔だ。こちらが断るなんて微塵も想像していない顔だ。 やるしかないんだろな、と思う。決意というよりは、諦めに近い。  蒼汰の頭上、天井からぶらさがったカボチャもまた笑っていた。

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