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第7話 武虎の異変

一夜明けて月曜、火曜から水曜、これまで何事もなく平和な毎日は続いていたのに、木曜の夜になってから、突然、武虎の元気がなくなった。 いつもは引っ切り無しに喋っている夕食時も、何故か黙ったままだ。今日は好物のカレーなのに、おかわりもしていない。 「具合悪いのか?」 訊けば、首を左右に振る。一応熱も測ったが、いたって普通の三十六度。 先生に怒られたのかと訊いても、友達と喧嘩したのかと訊いても、違うと言う。もしかしたら風邪をひく前兆かなと、念のために子供用の風邪薬を飲ませて今日は早めに寝かせた。  翌日。 「学校どうする? 行けるか?」 「行ける。今日は体育と図工だし、給食はグラタンだから」 昨夜よりも幾らか元気になって、武虎がいつも通りの時間に家を出て行った。 「薬が効いたか」 それに、今日は金曜だ。武虎にとっても俺にとっても楽しみな、蒼汰に会える金曜日。 ……の、はずなのに。学校から帰って来た武虎はまた元気がなく、今度ははっきり「具合が悪い」と口に出して言った。 「どうしたんだよ。大丈夫か?」 「ちょっと頭痛い」 仕方なく英会話教室は休ませることにして、蒼汰にそれをメールで伝えた。普段は超が付くほど元気な武虎だから、たまにこうして体調を崩されると焦ってしまう。 しかしそれが風邪でも頭痛でも何でもなかったことは、すぐに分かった。 何故なら、翌週も翌々週も、金曜の放課後になると決まって武虎の「具合が悪くなった」からだ。他の曜日は普通なのに。明らかに、英会話教室に行くのを拒んでいる。 「何かあったのか? ちゃんと聞くから、言ってみろ」 立て続けに二週休ませて、三週目の今日。もう授業の時間は間に合わない。武虎の部屋でベッドに並んで座り、俺は尋ねた。 「……具合悪いの」 「だって、金曜だけ具合悪くなるなんて変だろ。学校とサッカーは休まないで行ってるのに。英語嫌いになったのか?」 「ううん」 「じゃあ、嫌いな友達がいるとか?」 「いないよ」 「じゃあ、………」 俺は嫌な予感に捕らわれ、恐る恐るそれを訊いた。 「蒼汰先生が嫌なのか?」 「………」 「何で。動物園の時はあんなに楽しそうだったのに」 「蒼汰先生のことは大好き」 武虎が、真っ赤になった顔で呟いた。 「でも、蒼汰先生に会いたくない」 「………」 「会いたくないの……」 何が武虎にそう言わせるのか全く分からず、俺の方が動揺してしまう。 「な、何で。好きなのに会いたくないなんて、理由があるはずだろ」 「分かんない。けど、会いたくない」 何を訊いても首を振り、ただ「会いたくない」としか言わない武虎。訳が分からず、俺は途方に暮れてしまった。 「じゃあ、英語教室辞めるか?」 「……辞めたくない」 「飯島先生の授業の曜日に変える?」 「金曜日がいい」 これじゃあお手上げだ。ついに俺は冷たい声で言ってしまった。 「一体、どうしたいって言うんだ」 「……分かんない……」 「言わなきゃ、俺だって分かんないだろ」 みるみる泣き顔になる武虎に、溜息をつく。 「蒼汰先生のこと、大好きだったじゃないか。武虎も自分で言ってただろ。先生はかっこよくて、面白くて優しいし――」 「つばさのバカ!」 突然叫ばれ、混乱よりも先に怒りがきた。 「っ、……!」 咄嗟にあげかけた手を何とか堪え、代わりに、「勝手にしろ」と吐き捨てて部屋を出る。 力任せに閉めてしまったドアの向こうで、武虎が声を上げて泣き出した。申し訳なさに耳を塞ぎたくなるほどの大きな声だった。 * 〈それで、今日はちゃんと英語教室行ったのか〉 「うん。まだ色々と納得してなかったみたいだけど、一応。俺に悪いと思ったのかな。先週、怒っちゃったから」  この件は父さんにも報告していて、父さんも武虎の変化を心配していた。今日の様子はどうだったのか、それを聞くためにわざわざ会社から電話をかけてきている。  それとなく父さんも理由を聞いてくれたのだが、武虎は頑なに口を閉ざしていたらしい。元々、変に頑固なのだ。突然の反発もこれが初めてじゃないし、今までもちょっとしたことで武虎を叱ったことは数え切れないほどにある。  ただ今回は、理由が全く分からないのだ。蒼汰に会いたくない理由があるなら、ちゃんと聞いて一緒に悩んでやりたかった。 〈もしかしたら、翼と蒼汰先生の仲が良過ぎて嫉妬してるのかもしれないぞ〉 「え? でも別に、そんな風に蒼汰と接してるつもりはないけど。動物園の時だって普通だったし」  俺は受話器を耳にあてたまま、これまでのことを思い返した。蒼汰と俺は表面上はただの友達で、特別に仲が良い素振りなんて全く見せていない。武虎や父さんにはもちろん、二人で会って歩いている時も、それなりに人目を気にして距離を保っている。  動物園での時も含め、三人でいる時はむしろ武虎が蒼汰を独占していた。蒼汰に構って欲しくて纏わりついて、俺のことなど二の次といった状態だった。もしも蒼汰のことが好き過ぎて嫉妬しているとしたら、会いたくないのは「つばさ」の方だろう。  だけど……もし本当に、俺を蒼汰に取られたくないと思っているとしたら。それなら、蒼汰に会いたくない気持ちも何となくだが納得できる。  例えば、初めての弟妹ができて、母親の関心がそちらに行ってしまった時の長男長女の気持ち。或いは、仲の良い兄に恋人ができて、嫉妬する妹の気持ち。それに似ているのかもしれない。  ――馬鹿だな。  俺は受話器を置いてから小さく微笑んだ。そんな心配しなくても、俺はいつだって武虎を第一優先にしているのに。今後はこれまで以上に構ってやって、嫉妬なんてする間もないほど安心させてやるべきか。  早速武虎の好きなお菓子を買って、そのまま徒歩で教室へ向かった。五時半、辺りは既に真っ暗だ。それでも徒歩を選んだのは、たまには手を繋いで夜道をゆっくり歩くのもいいと思ったからだった。  開いた教室のドアから、子供達が次々に出てくる。俺は電柱の前でコートのポケットに手を突っ込み、武虎が出てくるのを待った。  が――。 「………」  いつもは一番最初でなくても、元気に飛び出してくるのに。  武虎が、出てこない。  まさかと思って教室に駆け寄ると、丁度蒼汰が出てきて俺と目が合った。 「あ、……」  蒼汰の目が見開かれる。俺は既に泣きそうになっていた。 「た、武虎は……?」 「来てねえよ。先週まで休んでたから、今日も休みかと思って。今、お前に電話しようと思ってたところだ」 「ど、どうしよう。蒼汰。どうしよう。今日は行くって、時間通りに家出たのに」 「落ち着け。親父さんは家にいるのか?」 「八時頃まで帰ってこない。鍵も閉めてきたし、武虎は鍵持ってないし」  足に力が入らず、その場にへたり込みそうになる。蒼汰が俺の腕を掴んで支え、片方の手に握っていたスマホでどこかへかけ始めた。 「トイ・グラウンドの桜井と申しますが。小学一年の男児、そちらで保護してませんか」  どうやら最寄りの交番か何かにかけているらしい。俺も慌てて取り出したスマホで父さんに電話をかけ、武虎がいなくなったことを知らせた。  通話口の向こうで、父さんも慌てている。すぐに帰ると言ってくれたが、どう頑張っても会社からここまで一時間以上はかかる距離だ。 「そうですか、分かりました。……翼、今日の武虎の服装、覚えてるか?」 「い、いつもの青いキャップと、上着は黒で、下は長いジーンズ、黄色い鞄」  蒼汰が冷静に、相手の警官にそれを伝える。 「探しに行かなきゃ。公園とか学校とか、河川敷とか」 「いや、お前は家で待ってた方がいい。もしかしたら帰ってくるかもしれないだろ」 「そ、そっか。でも、……」 「六時過ぎても帰ってこなかったら連絡してくれ」  動転しているせいで頭が全く働かない。  俺は蒼汰に指示されるまま来た道を走って戻り、それでも途中、児童公園にあるブランコやジャングルジムに目を凝らした。そうしなければ見えないほどに暗いのだ。遊具の輪郭は闇に溶け、武虎の姿も見当たらない。 「武虎……」  家の鍵は閉まったままで、帰ってきた痕跡はない。俺はふらつく足取りでリビングへ向かい、電話帳に記入していた武虎の友人宅へと片っ端から電話をかけた。手がかりはない。みんな放課後は武虎に会っていないと言う。次に、学校。運よく担任の先生がまだ残っていて、これから他の先生達と探しに行くと言ってくれた。  反抗心からの家出や、単なる迷子ならまだいい。だけどもし、何らかの事故に巻き込まれていたり、誘拐されたりしていたとしたら。  酷いことをされていないか。怪我をしたり、泣いているんじゃないか。――思っただけで気がおかしくなりそうだった。 「俺が叱ったから……」  じわじわと溢れてくる涙と後悔の念を乱暴な手で拭い、いま自分にできることを必死に考える。蒼汰や近所の警官、学校の先生達までもが動いてくれている中、やはり俺だけ家でじっとしている訳にはいかなかった。 「すいません」  俺は家を出て、隣の葉山さん宅の呼び鈴を鳴らした。 「あら、翼くん。どうしたの」  葉山さんの奥さんはエプロン姿で、家の中からは夕食のいい匂いがしている。俺はその温かさに何故だか泣きそうになり、声を詰まらせながらお願いした。 「あの、うちの武虎が、帰って来なくて……。俺も今から探しに行くので、その間にもし武虎が帰ってきたら、葉山さんのお宅で、預かっててもらえないでしょうか」  奥さんが口に手をあて、目を丸くさせる。 「大変じゃない。警察には知らせたの?」 「はい……今、探しに」 「分かった、帰って来たらうちで保護するわ。連絡先教えてちょうだい」  俺は奥さんに自分の番号を告げ、念のために父さんの番号も控えてもらって、一度家に戻った。  帰って来たらお隣に行くようにと書いたメモを玄関に貼り付け、再び夜道を走り始める。公園、河川敷、駅前――どこから探せばいいのか、右を行くべきか左を選ぶべきかも分からない。俺はただ闇雲に走り続け、そして、武虎の名前を叫び続けた。 「翼! 帰ってきたか?」 「蒼汰!」  毎週末サッカーをするために行っている河川敷は、昼間見るそれと違って異様に濃く、途方もないほど広かった。 「まだ帰ってない。隣の家に、武虎が帰ったら保護してもらうように言ってある」  蒼汰が懐中電灯で辺りを照らしながら、ぶるぶると頭を振った。 「……一応。本当に一応、だけどな。川の中も……」 「………」 「もう少ししたら、警察が本格的に捜索を」  そんな大事になってしまっているなんて、どうしても実感が湧いてこない。  だって、そんなことが起きる訳がない。想像もできない。 「武虎は無事だ。必ず帰る、大丈夫だ」  蒼汰が俺の頬を手のひらで撫でる。その時になって初めて、俺は自分が泣いていることに気付いた。 「だから泣くな。お前がしっかりしないとだろ」 「………」 「あいつは今、お前に一番会いたいはずなんだ」 「……うん」  蒼汰の厳しい声と眼差しは、すぐに俺の涙を止めてくれた。代わりに熱い気持ちが込み上がってきて、何が何でも、見つかるまで一秒だって休まずに探してやるという気になってくる。 「警察も探してくれてる。駅とバス停では、子供の目撃情報はなかったそうだ」 「武虎は切符の買い方も分からないし、一人で電車もバスも乗れないから」 「あと、公園か。俺達が始めに会ったあの公園も、今手分けして探してる」 「他は――」  移動するとしたら徒歩しかないから、武虎一人ならそう遠くまでは行けないはずだ。金を持っていないから店にも入れない。腹だって減っているだろうし、案外、どこか見つかりにくい場所で眠りこけているとか、……あるはずだ。 「俺、市の公園の方に行ってみる。広いから、まだ探してない場所もあるかもしれない」 「そうだな、俺も別の場所を探そう。だけど翼、お前も気を付けろよ。危険なことだけはするな」  蒼汰が俺の頭を撫で、冷たくなった額に唇を押し付ける。  何故だか心強かった。一人でも一人じゃないという気持ちになれた。蒼汰だけじゃない。みんな、武虎のために全力を尽くしてくれている。 「武虎」  風も空気も冷たいのに、走れば汗が止まらない。湿った服がすぐに冷えて体中が凍えたが、構わず俺は走り続けた。途中、何度足がもつれて転んだだろう。公園の芝生で、噴水広場で、たった三段しかない階段で。  額の汗を拭った時、それが汗ではなく雨であることに気付いた。 「武虎ーっ!」  雨も汗も同じだ。拭ったって拭い切れないなら、気にしてなんかいられない。  こども広場。野球場。犬の散歩コース。アスレチック広場。テニスコートにプール。何だって、この公園はこんなに広いんだ。 「まだ見つかりませんね。大変申し上げにくいのですが……」  雨の中、公園内を探していた警官の一人がやって来て、額に手を翳しながら言った。 「連れ去りなどの可能性もあるかもしれません。その場合、相手側から自宅に電話がかかってくるかもしれない。お兄さんは一度家に戻って――」 「………」  警官の声が雨音にかき消されていく。そんなに強い雨じゃないのに、声が耳に届かない。  現実として受け止められないのだ。武虎が誘拐されたなんて。 「お願いします……」  俺は自分でも無意識のまま、警官の制服に縋りついた。 「武虎を、……見つけてください。お願いします……」 「もちろんです。我々も全力で……」 「お願いだから。……武虎。……俺はどうなってもいいから。お願い……武虎、戻ってきてくれ」  お兄さん。警官が叫んだ。大丈夫ですか。しっかりしてください。  雨にぬかるんだ芝生が、俺から足場を奪い始める。警官の制服を掴んでいた手がゆっくりと離れ、何かを叫ぶその警官の顔も、雨のせいなのか次第に霞んで、消えてゆく。  武虎――。 「……ええ、はい。分かりました。ええ、……お兄さんは今、ここに。了解です」  芝生に膝をついた俺の頭上で、警官が声を張り上げた。 「お兄さん、見つかりましたよ! たった今保護しました!」 *  駅前交番のドアを勢いよく開くと、そこには既に蒼汰がいた。連絡をもらって、俺より一足先に来ていたのだ。  武虎は蒼汰の隣の椅子に座り、毛布に包まれてべそをかいていた。顔も手も服も泥だらけだ。武虎を発見したのは、ここから二駅離れた公園を捜索していた警官だった。テントウムシ型の遊具の中から子供の泣き声が聞こえ、覗いてみると武虎が蹲っていたらしい。  時刻は九時近い。武虎は四時間近く遊具の中で震えていたのだった。 「武虎、お前……」 「つばさ……」  俺の顔を見て、武虎が叫ぶ。 「ごめんなさい!」 「………」  怒られるのを覚悟してか、武虎が泣きながら泥だらけの手で顔を覆った。俺はふらつく足を何とか引きずり、そちらへと近付いて行く。  蒼汰が武虎の背中を摩って俺に苦笑を向け、俺もそれに苦笑で返す。 「武虎」  そして床に膝をつき、俺はその小さな体を抱きしめた。 「無事で良かった……!」 「つばさ……。ごめ、なさい……。ごめんなさ、い……」  滅茶苦茶に頭を撫で回し、涙に濡れた顔に何度も頬擦りする。  それから警官の人達に心からの礼を言って、蒼汰に何度も頭を下げ、俺達三人は交番を出た。当然父さんにも連絡はいっていて、今は学校の先生や武虎の友人宅へ、無事だったという報告と迷惑をかけたことを詫びるための電話をかけてくれている。 「ただいま、父さん」  家に入ると、リビングから物凄い足音が聞こえてきた。  框までやって来た父さんが、何も言わずに俺達三人の顔を見る。最後に武虎の目を真っ直ぐに見て、それから―― 「っ……!」  父さんが、武虎の頭に拳骨を落とした。 「と、父さん」  初めて見る父さんの「怒り」に、思わず俺まで竦みあがってしまう。武虎は両手で頭を押さえてポカンとしていたが、その顔が次第に赤くなり、しわくちゃの泣き顔に変わっていった。 「うあぁぁ、あぁ……!」  大声で泣く武虎に、父さんがもう一度右手を振りかざす。 「父さん、何もそんな……」  言い終わらないうちに父さんが左手で俺の腕を掴み、引き寄せた。右手は武虎の肩に置かれ、同じように引き寄せられている。  俺と武虎は、父さんに強く抱きしめられる恰好となっていた。 「……俺はな」  武虎の嗚咽を間近に感じながら、俺は父さんの震える声を聞いた。 「俺はもう二度と、……絶対に、家族を失いたくないんだ」 「父さ、……」  父さんは叱らなければならない。武虎の心の内にどんな理由があったのだとしても、「父親」として「息子」の取った行動がどれほどの人を心配させたか、身を持って教えなければならない。  武虎は初めての拳骨による体罰よりも、初めて見る父さんの涙に堪えたようだった。やはり、兄貴よりも父親の存在の方が大きいのだろう。  泣き疲れてやがて眠ってしまった武虎は、ヒクヒクと鼻を鳴らしながらも父さんに抱き付いていた。

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