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3.動きだした悪夢

異変が起きたのは、試合が始まって少し経った頃。 医務室の担当者が所用で部屋を空け、その間志郎は、静かに眠る男をじっと見詰めていた。 試合直前に聖ヴァルの剣道部部長が医務室を訪ね、男の名前が『神代剣治(カミシロ ケンジ)』だと知った。 最近眠れていないと言っていた剣治は、まだ少し青い顔をして、深く眠り続けている。 「……こんな所で会えるなんて、な」 誰よりも会いたかった。 けれど、誰よりも会いたくなかった。 志郎は唇を噛み締める。 剣治は……志郎の前世に、全く気付いていないようだった。 つまり、剣治に前世の記憶がないのだろう。 それが自然の姿なのだ。 ――わざわざ、前世の事を思い出させる必要など、ない。 志郎は我知らずため息をついた。 自分は生まれ変わったチュールに会って、どうしたかったのだろう? ずっと心の隅で会いたいと思いながら、どんな顔をすれば良いのか、志郎には分からない。 恋しいと思う度、罪悪感がその心を引き裂く。 思い掛けない遭遇に、思わず引き止めてしまったが、やはり会わなければ良かったのだろうか…… 志郎が手を掴んだ時のあの反応―― チュールはやはり、志郎を――フェンリルを憎んでいるのかも知れない。 そうは思っても……やはりどうしても気になって、気になって…… ――側にいたい。 せめて、眠っている間だけでも―― 「っ!?」 不意にどこからか漂い始めた神力に、志郎はハッと息を呑む。 この濃厚な神力は、世流のモノでも、徹のモノでもない。 けれど――志郎は確かに知っている。 フェンリルが鎖に繋がれた時、側にいた神々の中の一人だ。 しかし、名前が思い出せない。 親兄弟とチュールの他は、フェンリルにとってその他大勢でしかなかった。 志郎は舌打ちする。 「どこだ……? どこにいる!」 神力の元を突き止めようと気配を探る志郎は、突然聞こえた呻き声に、ハッと緊張した。 「剣治!」 今まで静かに眠っていた剣治が、苦悶の表情を浮かべて、苦しみ喘いでいる。 「どうした、剣治。しっかりしろ!」 荒く呼吸する剣治が、小さく何かを呟く。 「や、めろ……来るな……うぅっ……」 「剣治!」 尋常ではない苦しみ方に、志郎は焦った。 「待ってろ。すぐに医者を――っ!?」 医者を呼びに行こうとした志郎の裾を、剣治の左手が強く掴む。 ――行くな、と訴えるように。 「たす……けて……」 剣治の呻きに目を見開いた志郎は、息をする事さえも一瞬忘れた。 「剣治……」 剣治の手を裾から離してしっかりと握り、志郎は椅子に座り直す。 (考えろ! どうすれば、剣治を助けられる?) 緊張し早鐘を鳴らす心臓を無理矢理落ち着け、志郎は剣治の手を強く握る。 ――剣治が苦しみ始めたのは、神力を感じたすぐ後だった。 もしかしたら、この神力が原因なのかも知れない。 「一か八か……」 一度深呼吸をした志郎が、握り締める剣治の手に額を当て、自分の神力を慎重に送り込む。 志郎の神力が剣治の左手に流れ込み、左右の足を通って右手に伝わり、頭まですっぽりと包む。 志郎の神力が全身に行き渡ると、苦しんでいた剣治の体から力が抜けた。 ぐったりとベッドに沈む剣治は、脂汗を浮かべているが、苦痛はもう無くなったらしい。 穏やかな寝息をたてる剣治に安堵し、志郎はホッと息を吐いた。 けれど敵の神力の気配はまだ消えず、志郎は自分の神力を剣治に送り続ける。 守りたい。 その一心を神力に込め、志郎は剣治の手を強く握り続けた。 前世で大好きだった手。 憤りのままに奪ってしまった温もり。 「チュール……」 志郎がひっそり呼ぶと、眠り続けている剣治が、不意に「フフッ」と小さく笑った。 その寝顔を見れば、さっきまで苦しそうだった顔が、優しく微笑んでいる。 志郎の胸がドクンと鳴り響いた。 愛しさが募って溢れて、胸が苦しくなるほど激しく、ドキドキと脈打つ。 今、どんな夢を見ているのだろう? わずかに開いた剣治の唇が艶めいて見え、志郎は無性にキスしたい衝動に駆られた。 少しだけ…… ゴクリと生唾を飲み込んだ志郎は、ゆっくりと剣治の唇に顔を寄せる。   ☆  ★  ☆ パシーンッ パシッ……パシン! 竹刀のぶつかり合う音が響く会場で、世流と徹は不意にハッとした。 何者かの神力を感じる。 どこからか、場所ははっきりとしないが、それほど遠くではない。 徹と世流は防具面の隙間越しに顔を見合せる。 今は次鋒戦。 この次に徹の中堅戦、続いて世流の副将戦がある。 一試合は4分と決まっているが、その後の大将戦も含め、早く見積っても16分は掛かるだろう。 延長戦となれば、さらに何分か―― まだまだ試合は終わりそうにない。 試合を放棄する訳にもいかず、徹と世流は焦った。 今仕掛けられたら、試合がめちゃくちゃになってしまう。 しかしその時、会場の一角から良く知った神力を感じた。 志郎の力だ。 戦闘とは違うようだが、その波動を敬遠してか、ほどなくして何者かの神力は消えた。 志郎の神力も、次第に弱くなっていく。 徹と世流はほっと息を吐いた。 何がどうなったか分からないが、取り敢えずは、事無きを得たらしい。 パシィーン ほぼ同時に、次鋒戦も終わったらしい。 結果は、聖ヴァルの二本先取による、負け。 体調不良を起こした先生のために、と意気込んでいたせいか、先鋒戦でも聖ヴァルに一本取られてる。 改めて世流と目を合わせた徹は、言外に「行ってくる」と頷き、その場を立って規定の位置に行く。 聖ヴァルの中堅は佐藤と言うらしい。 聖ヴァルは、入れ替わりが激しいと噂されるだけに、いつも誰が選手に入るか分からない。 この佐藤も、どんな戦い方をするか―― 中堅に伸し上がってきただけに、油断はできない。 胸がドキドキする。 軽く息を吐いた徹は、前に二歩進み、相手の佐藤と礼を交わした。 さらに三歩進んで、背筋を真っ直ぐに伸ばした徹は、膝を折って腰を落とす。 この姿勢を蹲踞(ソンキョ)と言う。 「始め」 審判の合図と同時に踏み出した徹は、相手の佐藤に向かい力強く竹刀を振る。 「メン! メン! メェーンッ!」 一直線に面を狙った徹が、佐藤と竹刀を打ち合う。 連続して繰り出した攻撃を全て防がれ、徹は一度、後ろに下がった。 やはり佐藤は強い。 高揚感で震えそうになるのを抑え、徹は真っ直ぐに佐藤を見詰める。 さて、どうするか―― 「ヤアッ!」 徹が次の手を思いあぐねていると、佐藤が気合いの声も猛々しく、竹刀を振り上げた。 勢い良く降り下ろされた竹刀が、徹の防具面に当たる間際。 「ッ――!」 ギリッと歯を噛み締めた徹は、素早く相手の竹刀を打ち、寸での所で起動を反らせた。 勢いに乗せられた相手の竹刀が、とっさに戻す事もできず、徹の真横に落ちて行く。 その一瞬で自分の竹刀を振り上げた徹は、力強い一刀を相手の額に叩き込む。 バシィーン!! 勢いのまま相手の横に並んだ徹が、その場で審判の判定を待つ。 審判の二人が、さっと赤旗を上げた。 徹の『面打ち落とし面』が決まった。 ガッツポーズを取りそうになった徹は、必死にそれを堪える。 剣道では、例え技が決まっても、喜びを表現してはいけない。 改めて佐藤と向かい合った徹は、その後、鍔迫り合い(ツバゼリアイ)で押しきり、二本目を打ち取った。 次は世流の副将戦。 聖ヴァルの副将は高橋。 去年から副将の座を維持しているらしい、やはり強者である。 所定の位置まで行った世流は、前に二歩進み、高橋と礼を交わす。 形式通り三歩進み出た世流は、背筋を伸ばしたまま膝を折り、凛々しい蹲踞の姿勢を取る。 そして竹刀を握る手に力を入れた瞬間、世流の瞳が鋭さを増し、相手の高橋がわずかに震えた。 まさしく獲物を狙う蛇のような世流の目。 防具面で顔がほとんど見えなかろうと、殺気を放つような鋭い睨みに、対抗できる者はいない。 恋人となった徹でさえ、恐怖を感じてしまう。 けれど同時に、体がゾクゾクして、とても愛惜しく感じる。 防具面の下で、徹がうっとりと見詰めている事は、誰も知らない。 「始め」 審判の合図と同時に二人が踏み出し、竹刀を打ち合わせる。 積極的に攻める高橋の竹刀を、世流は小さな動きで防いでいた。 その間も世流は、真っ直ぐ高橋を見据え、決して目を離さない。 何度か打ち合いを繰り返して、ラチが明かないと思ったか、高橋がさっと飛び退いて距離を取る。 そして改めて体の正面(中段)に竹刀を構え直した高橋は、間合いを取りながら、摺り足で世流の周囲を回った。 同じく中段に構え直す世流も、高橋に合わせて回りながら、真っ直ぐに竹刀の先を据える。 世流の体が完全に左を向いた頃―― 「メェーン!」 相手が勢い良く竹刀を振り上げた。 その瞬間、竹刀の先を斜めに下ろした世流が、素早く踏み込み相手の竹刀をかわす。 そしてすれ違いざま、世流の竹刀が相手の胴を打ち払う。 パシン! 相手を後ろに残し、世流は判定を待った。 審判の上げた旗は赤。 当然、世流の勝ちだ。 これで同点――   ☆  ★  ☆   「ん……んぅ……」 小さな呻き声を漏らして、剣治は目を覚ました。 「あ――もう、起きたのか――気分は、どうだ?」 顔を覗き込む志郎に、剣治は穏やかな微笑みを浮かべる。 「久しぶりに良く眠れたようで、だいぶ楽になりました」 「……そりゃ良かった」 ずいぶん顔色の良くなった剣治に、志郎も安堵の笑みを浮かべた。 どうやら、何者かの神力について、何も気付いてないらしい。 「……あのう、もしかして、ずっとここにいてくれたんですか?」 「あぁ、まあ……その……暇だったし……気になったから、な……」 さりげなく視線を外した志郎は、こっそりとため息をついた。 剣治が目覚める少し前。 穏やかな剣治の寝顔に欲情し、志郎はキスしたい衝動に駆られた。 うっすらと開いた唇に、唇を寄せたものの…… 目を閉じれば、片腕を失ったチュールの姿が、志郎の脳裏に浮かぶ。 「っ――……!!」 ハッと息を呑んだ志郎は、感電したような勢いで立ち上がり、思わず剣治の手を離した。 忘れていた訳じゃない。 けれどチュールの腕を奪っておきながら、愛する事など―― ましてや欲情するなど、許されるはずがない。 例え、生まれ変わったとは言え、これはフェンリルの――志郎の負うべき罪。 立ち尽くす志郎の体が、後悔に震える。 もう志郎には、神力を送る余裕もない。 幸い、何者かの神力の気配は消えて、剣治も穏やかな顔をしていた。 そして目覚めた剣治は、何も知らず、志郎に微笑み掛けてくれる。 ただ志郎の胸だけが、苦しさを増した。 ――どうすれば、罪を償えるのだろう? 「……あ、あれ……?」 不意に剣治が変な声を出して、志郎はハッと我に返った。 柄にもなく、物思いにふけっていたらしい。 「……どうした?」 「――右腕が……動かない……」 剣治の声が震え、志郎も言葉を失った。 起き上がろうとしているのか、動かないと言う右腕を必死に動かそうとしているのか、力む剣治の肩が震えている。 しかし、布団に隠れた右腕が、動く様子はない。 「どうして……」 驚愕する剣治の顔から、血の気が引いていく。   ☆   ★   ☆

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