5 / 17
4.魔狼の懺悔
絹を裂くような悲鳴に、怒り狂っていた魔狼は、ハッと我に返った。
最初に感じたのは血の味、そして血の臭い。
「っ、んぅぅ……」
かすかな呻き声と、何かが落ちるトサッと言う音に、フェンリルは恐る恐る下を見た。
彼が――チュールが、膝をついている。
勇敢に剣を振るっていた右腕は無くなり、食いちぎられた傷口から滴る血が、チュールを囲み血の海を広げていく。
苦痛に堪えて険しい顔をする彼は、溢れる血もそのままに、ゆっくりとフェンリルを見上げた。
その目は深い悲しみを湛えて、何かを訴えるように、魔狼を映している。
腕を奪ったフェンリルを責めるように――
そしてチュールの唇が、わずかに震える。
「フェン……リル……」
さらに何か言おうと口を開いたチュールは、息を吸うと共に意識を手放し、血の海に身を委ねた。
フェンリルは生まれて初めて畏怖を知った。
そして自分のしてしまった事に、激しく後悔した。
☆ ★ ☆
ハッと顔を上げた志郎は、何かを振り払うように頭を振った。
いつの間にか、眠っていたらしい。
おそらく、剣治に神力を送った影響だろう。
その剣治は今、病院で検査をしている。
剣道の試合会場である武道館の医務室で、目を覚ました剣治は、なぜか右腕が全く動かなくなっていた。
痛みや熱などは感じるようだが、動かそうとするとどうしても力が入らないらしい。
剣治が同僚の先生に事情を話している間、志郎は近くのバイク屋でヘルメットを購入した。
剣治をバイクで病院に連れて行くためである。
荷台に乗った剣治は、志郎の腰に腕を回し、動かない右腕を左手で掴む。
緊張のためか、少し低い剣治の体温を背中に感じながら、志郎はできるだけ静かにバイクを走らせた。
本当は、病院に着いたら帰って良いと剣治に言われたが――
『検査が終わるまで、俺も待ってる』
『けど……』
『頼む。……どうしても、気になるんだ』
悩む剣治に、志郎は深く頭を下げた。
『頼む。もう少し……もう少しでも良いから、剣治の側にいさせてくれ』
その誠意に負けたのか、剣治はしぶしぶ、志郎の願いを受け入れてくれた。
とはいえ、検査の間ずっと隣にいる訳にもいかず、今志郎は待合室の一角を占領している。
志郎の口から、ため息が漏れた。
――剣治は、大丈夫だろうか?
検査の結果は、いつ出るのだろう?
壊れているのではと疑いたくなるほど、時計の針は遅々として進まない。
ただ不安と焦燥だけが志郎にのし掛かる。
唇を噛み締めた志郎は、また盛大にため息をつき、椅子を立った。
気晴らしにコーヒーでも飲もうと売店を探す。
その途中、柱の上部にあった時計を、なんとなく見上げた。
時刻は12時10分。
剣道の試合はどうなっているだろう?
徹と世流が勝ち進んだか、それとも剣治の所属する聖ヴァルか――
☆ ★ ☆
「うがぁ~~っ!! 悔しい!!」
「まだ吠えているのか? 徹」
激しく髪を掻き乱す徹に、世流が呆れ混じりのため息をつく。
「だってよぉ……!」
「相手が悪かったんだ。仕方ないだろ」
「うぅ~、もっと、いろんなヤツと試合したかったのに~」
徹はため息をついた。
大将戦にもつれ込んだ試合は、聖ヴァル主将の一本勝ちだった。
「……聖ヴァルの主将、凄かったなぁ……」
「近藤勇気か……」
二人は聖ヴァルとの主将戦に思いを馳せる。
やはり主将戦ともなると、緊迫感は段違いだった。
両者共、中段で竹刀を構えたまま、静かに相手の出方を窺う。
息をする事すら躊躇(タメラ)われる中、両者が少しずつ間合いを詰めて行く。
そして部長が竹刀を振り上げようとした瞬間――
パシィーン!
気付けば聖ヴァルの主将が竹刀を下ろし、部長の隣に並んでいた。
一番近くにいる審判が白い旗を上げ、次に近い審判も遅れて白い旗を上げる。
聖ヴァル側が、一本取ったのだ。
「世流、今の……」
「出ばな面だ。それも凄く速い」
出ばな面――
相手が技を出そうとした瞬間に、面を叩き付ける技である。
出ばな面には、相手が動作を起こす瞬間を、適格に捉える先天的な勘。
ここぞ! と言う時に踏み込む、思い切りの良さ。
小さな動きで強い攻撃ができる、スナップの利き。
これらの先天的な要素が重要になる。
「一か八かのやま掛けを積み重ね、コツを掴まなければ、普通の人にはなかなかできない」
そしてその流れのまま、ホクオウは一本も取れずに負けた。
思い出した徹は、改めて深いため息をつく。
しかしそのため息は、落ち込んだためではなく、憧れのこもった物だった。
「俺もあんな強い相手と、戦いたいなぁ……」
「ならまずは、俺より強くならないとな」
呆れ口調の世流に、徹はムッと唇を尖らせる。
「別に俺は、世流より弱くない!」
「けど、特に強くもないだろ? 中堅だしな」
軽く肩をすくめる世流に、徹が吠えた。
「中堅って――ジャンケンで決めたじゃねぇか!」
騒ぐ徹を、世流は笑っていなす。
――傍目には、ただじゃれあっているようにしか見えなかったとか。
☆ ★ ☆
もう昼をとっくに過ぎた頃、やっと剣治の検査が終わった。
「どう……だった?」
不安げに問う志郎に、剣治は悲しげな顔で、静かに首を振る。
原因は不明。
痛みや熱は感じるし、検査の結果も、特に異常は無かった。
「先生は、精神的な物だろうって言うけど……」
剣治は動かない右腕を、ギュッと握る。
どうすれば良い……?
どうすれば、剣治の腕を治せるだろう?
重い沈黙を振り払うように、志郎は強く剣治の肩を掴んだ。
「俺が……俺が剣治の右腕になる」
「え……!?」
すっとんきょうな声を上げた剣治が、驚きに目を丸くして志郎を見詰める。
志郎は真っ直ぐにその目を見詰め返した。
「――頼む」
真剣な面持ちの志郎に、剣治は少し困惑していた。
どうして、こんなにも気にかけてくれるのだろう?
そんな剣治の心情が見て取れる。
「あの……ええと……べ、別にそんな……志郎さんが気に病む事は――」
「けど俺は――」
遠慮する剣治を遮った志郎は、しかし何も言葉にできず、苦しげに項垂(ウナダ)れた。
何と言って良いか、分からない。
気付いた時には、無我夢中で訴えていた。
「俺が……ほっとけねぇんだよ! 俺のエゴだってのは、分かってる。けど……けど似てるんだよ。あんたが――俺の、一番大切だった人に」
「志郎さん……」
静かに呼びかけられて、ハッと志郎は我に返った。
後悔、と言うよりも動揺してしまって、志郎は慌てて自分の口元を隠すが、もう遅い。
今――言う積もりの無かった本音まで、全て吐露してしまった。
一度口を衝いて出た言葉は、もう取り消す事などできはしない。
志郎はまた口を開くのが恐ろしくなり、何も言えずにうつむいた。
剣治の顔が見れない。
「志郎さん」
フッと剣治の手が伸び、志郎の髪をくしゃりと優しく撫でた。
志郎が恐る恐る顔を上げると、剣治は少し照れた顔で苦笑している。
「分かりました。……僕は一人暮らしなので、助かります」
「え……?」
剣治の言葉に耳を疑い、志郎は目を見開いた。
「良い……のか……?」
剣治がにっこりと笑う。
「はい……よろしくお願いします」
安堵した志郎は、ふとしたら泣いてしまいそうな、情けない顔で笑った。
気休めとして医者に処方してもらった薬を貰い、そのまま剣治の家に行く。
バイクを走らせている間、ずっと無言だったが、荷台から志郎の腰を抱く剣治に、背中が暖められた。
――今度こそ、失いたくない。
剣治の腕が動かない原因には、少なからず、あの何者かの神力が関わっているだろう。
剣治を守るという意志を、志郎は改めて固くした。
☆ ★ ☆
それから数分。
志郎は無事に、剣治の家についた。
剣治の住まいは、5階建てマンションの3階角部屋、1LK。
玄関から入ってすぐ左がキッチン。
短い廊下を真っ直ぐ行けばリビングがあり、一応キッチンとも繋がっている。
さらに奥へ進むと小さな部屋があり、そこを寝室として使っているらしい。
男の一人暮らしとは思えないほど、整理整頓から掃除まで行き届いている。
「僕は普段ベッドに寝ているんですが、寝床はどうしますか?」
「俺は床で良いよ。布団なんか無くても、どこでも寝れっから」
リビングには、一応二人掛け用のソファーもあるが、できれば剣治の近くで寝たい。
剣治に悪夢を見せる神力の事もあるし――
「誰かを部屋に泊めるなんて、初めてです。どうぞ、くつろいでください」
剣治はどこか嬉しそうに言う。
まだ独身で、自由気ままな一人暮らしとは言え、やっぱり、少し味気ないのかも知れない。
「あのさ、剣治。……一つ聞いて良い?」
「はい。何ですか?」
「……何で、俺の頼み、聞いてくれたんだ?」
一瞬、沈黙が降りた。
無理を言ったのは、志郎も自覚している。
普通なら、今日出会ったばかりの相手を、家に泊めたりなんかしないだろう。
「……あなたが、凄く必死だったから……」
剣治がポツリと呟く。
「――僕も、一つ聞いて良いですか?」
「何を?」
剣治が真っ直ぐに志郎を見詰める。
「僕が誰かに似てるって、言いましたよね? 誰に……似てるんですか?」
目を見張った志郎は、一瞬だけ言葉を失った。
そして、わざとらしくニヤリと笑う。
「……興味ある? 意外に好奇心旺盛なんだ?」
「好奇心……」
少しだけ心外なという顔をして、剣治は頷いた。
「そうかも知れません。志郎さんがあんまり必死なので、その人とどういう関係なのか、気になりました。――すみません」
素直に頭を下げる剣治に、志郎は顔を引き締める。
そしてフッと微笑んだ。
「……昔、世話になった人だよ」
語りだした志郎に、剣治は顔を上げる。
「昔、少し荒れてた俺は、一時的に両親と引き離されたんだ。その時、俺の世話をしてくれたのが、その人だったんだ」
前世の昔――破壊を好む狼として、フェンリルは監視のため、人間界に幽閉された。
志郎は『子供の時の話』というように語る。
「当時、手の付けられない暴れ者だった俺を、その人だけが怖がらず、俺と対等に接してくれた。……俺も、その人だけは、大好きだった」
幸せだった。
神々に恐れられ、針のむしろだったフェンリルにとって、チュールは唯一安らげる相手だった。
……思い出すだけで、志郎の顔にも、自然と笑みが浮かぶ。
剣治も微笑む。
「本当に、大切な人だったんですね。その人は、今どうして――?」
一瞬だけ息を呑んだ志郎は、静かに目を伏せる。
「……死んだよ。……俺のせいで」
剣治が息を呑んだ。
動揺が見て取れるほど、剣治の瞳が揺れている。
志郎は苦笑した。
「嫌な話を聞かせちまったな。……悪い」
謝る志郎に首を振り、剣治はそっと、志郎を抱き締めた。
志郎の耳元で、剣治が小さな嗚咽を漏らす。
「……何で、剣治が泣くんだよ?」
志郎の声が、少しだけ震えた。
「すみません……でも……どうしても、涙が、止まらないんです」
腕の力を強くした剣治に、志郎も目頭が熱くなり、恐る恐る腕を持ち上げる。
そして躊躇(タメラ)いがちに剣治を抱き返した。
「……ごめん」
謝った相手は、剣治だったのか、それともチュールだったのか――
何も知らないはずの剣治が、慰めるように志郎の頭を撫でた。
今少しだけ、安らかな時が流れる。
☆
★
☆
ともだちにシェアしよう!