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4.魔狼の懺悔

絹を裂くような悲鳴に、怒り狂っていた魔狼は、ハッと我に返った。 最初に感じたのは血の味、そして血の臭い。 「っ、んぅぅ……」 かすかな呻き声と、何かが落ちるトサッと言う音に、フェンリルは恐る恐る下を見た。 彼が――チュールが、膝をついている。 勇敢に剣を振るっていた右腕は無くなり、食いちぎられた傷口から滴る血が、チュールを囲み血の海を広げていく。 苦痛に堪えて険しい顔をする彼は、溢れる血もそのままに、ゆっくりとフェンリルを見上げた。 その目は深い悲しみを湛えて、何かを訴えるように、魔狼を映している。 腕を奪ったフェンリルを責めるように―― そしてチュールの唇が、わずかに震える。 「フェン……リル……」 さらに何か言おうと口を開いたチュールは、息を吸うと共に意識を手放し、血の海に身を委ねた。 フェンリルは生まれて初めて畏怖を知った。 そして自分のしてしまった事に、激しく後悔した。   ☆  ★  ☆ ハッと顔を上げた志郎は、何かを振り払うように頭を振った。 いつの間にか、眠っていたらしい。 おそらく、剣治に神力を送った影響だろう。 その剣治は今、病院で検査をしている。 剣道の試合会場である武道館の医務室で、目を覚ました剣治は、なぜか右腕が全く動かなくなっていた。 痛みや熱などは感じるようだが、動かそうとするとどうしても力が入らないらしい。 剣治が同僚の先生に事情を話している間、志郎は近くのバイク屋でヘルメットを購入した。 剣治をバイクで病院に連れて行くためである。 荷台に乗った剣治は、志郎の腰に腕を回し、動かない右腕を左手で掴む。 緊張のためか、少し低い剣治の体温を背中に感じながら、志郎はできるだけ静かにバイクを走らせた。 本当は、病院に着いたら帰って良いと剣治に言われたが―― 『検査が終わるまで、俺も待ってる』 『けど……』 『頼む。……どうしても、気になるんだ』 悩む剣治に、志郎は深く頭を下げた。 『頼む。もう少し……もう少しでも良いから、剣治の側にいさせてくれ』 その誠意に負けたのか、剣治はしぶしぶ、志郎の願いを受け入れてくれた。 とはいえ、検査の間ずっと隣にいる訳にもいかず、今志郎は待合室の一角を占領している。 志郎の口から、ため息が漏れた。 ――剣治は、大丈夫だろうか? 検査の結果は、いつ出るのだろう? 壊れているのではと疑いたくなるほど、時計の針は遅々として進まない。 ただ不安と焦燥だけが志郎にのし掛かる。 唇を噛み締めた志郎は、また盛大にため息をつき、椅子を立った。 気晴らしにコーヒーでも飲もうと売店を探す。 その途中、柱の上部にあった時計を、なんとなく見上げた。 時刻は12時10分。 剣道の試合はどうなっているだろう? 徹と世流が勝ち進んだか、それとも剣治の所属する聖ヴァルか――   ☆  ★  ☆ 「うがぁ~~っ!! 悔しい!!」 「まだ吠えているのか? 徹」 激しく髪を掻き乱す徹に、世流が呆れ混じりのため息をつく。 「だってよぉ……!」 「相手が悪かったんだ。仕方ないだろ」 「うぅ~、もっと、いろんなヤツと試合したかったのに~」 徹はため息をついた。 大将戦にもつれ込んだ試合は、聖ヴァル主将の一本勝ちだった。 「……聖ヴァルの主将、凄かったなぁ……」 「近藤勇気か……」 二人は聖ヴァルとの主将戦に思いを馳せる。 やはり主将戦ともなると、緊迫感は段違いだった。 両者共、中段で竹刀を構えたまま、静かに相手の出方を窺う。 息をする事すら躊躇(タメラ)われる中、両者が少しずつ間合いを詰めて行く。 そして部長が竹刀を振り上げようとした瞬間―― パシィーン! 気付けば聖ヴァルの主将が竹刀を下ろし、部長の隣に並んでいた。 一番近くにいる審判が白い旗を上げ、次に近い審判も遅れて白い旗を上げる。 聖ヴァル側が、一本取ったのだ。 「世流、今の……」 「出ばな面だ。それも凄く速い」 出ばな面―― 相手が技を出そうとした瞬間に、面を叩き付ける技である。 出ばな面には、相手が動作を起こす瞬間を、適格に捉える先天的な勘。 ここぞ! と言う時に踏み込む、思い切りの良さ。 小さな動きで強い攻撃ができる、スナップの利き。 これらの先天的な要素が重要になる。 「一か八かのやま掛けを積み重ね、コツを掴まなければ、普通の人にはなかなかできない」 そしてその流れのまま、ホクオウは一本も取れずに負けた。 思い出した徹は、改めて深いため息をつく。 しかしそのため息は、落ち込んだためではなく、憧れのこもった物だった。 「俺もあんな強い相手と、戦いたいなぁ……」 「ならまずは、俺より強くならないとな」 呆れ口調の世流に、徹はムッと唇を尖らせる。 「別に俺は、世流より弱くない!」 「けど、特に強くもないだろ? 中堅だしな」 軽く肩をすくめる世流に、徹が吠えた。 「中堅って――ジャンケンで決めたじゃねぇか!」 騒ぐ徹を、世流は笑っていなす。 ――傍目には、ただじゃれあっているようにしか見えなかったとか。   ☆  ★  ☆   もう昼をとっくに過ぎた頃、やっと剣治の検査が終わった。 「どう……だった?」 不安げに問う志郎に、剣治は悲しげな顔で、静かに首を振る。 原因は不明。 痛みや熱は感じるし、検査の結果も、特に異常は無かった。 「先生は、精神的な物だろうって言うけど……」 剣治は動かない右腕を、ギュッと握る。 どうすれば良い……? どうすれば、剣治の腕を治せるだろう? 重い沈黙を振り払うように、志郎は強く剣治の肩を掴んだ。 「俺が……俺が剣治の右腕になる」 「え……!?」 すっとんきょうな声を上げた剣治が、驚きに目を丸くして志郎を見詰める。 志郎は真っ直ぐにその目を見詰め返した。 「――頼む」 真剣な面持ちの志郎に、剣治は少し困惑していた。 どうして、こんなにも気にかけてくれるのだろう? そんな剣治の心情が見て取れる。 「あの……ええと……べ、別にそんな……志郎さんが気に病む事は――」 「けど俺は――」 遠慮する剣治を遮った志郎は、しかし何も言葉にできず、苦しげに項垂(ウナダ)れた。 何と言って良いか、分からない。 気付いた時には、無我夢中で訴えていた。 「俺が……ほっとけねぇんだよ! 俺のエゴだってのは、分かってる。けど……けど似てるんだよ。あんたが――俺の、一番大切だった人に」 「志郎さん……」 静かに呼びかけられて、ハッと志郎は我に返った。 後悔、と言うよりも動揺してしまって、志郎は慌てて自分の口元を隠すが、もう遅い。 今――言う積もりの無かった本音まで、全て吐露してしまった。 一度口を衝いて出た言葉は、もう取り消す事などできはしない。 志郎はまた口を開くのが恐ろしくなり、何も言えずにうつむいた。 剣治の顔が見れない。 「志郎さん」 フッと剣治の手が伸び、志郎の髪をくしゃりと優しく撫でた。 志郎が恐る恐る顔を上げると、剣治は少し照れた顔で苦笑している。 「分かりました。……僕は一人暮らしなので、助かります」 「え……?」 剣治の言葉に耳を疑い、志郎は目を見開いた。 「良い……のか……?」 剣治がにっこりと笑う。 「はい……よろしくお願いします」 安堵した志郎は、ふとしたら泣いてしまいそうな、情けない顔で笑った。 気休めとして医者に処方してもらった薬を貰い、そのまま剣治の家に行く。 バイクを走らせている間、ずっと無言だったが、荷台から志郎の腰を抱く剣治に、背中が暖められた。 ――今度こそ、失いたくない。 剣治の腕が動かない原因には、少なからず、あの何者かの神力が関わっているだろう。 剣治を守るという意志を、志郎は改めて固くした。   ☆  ★  ☆ それから数分。 志郎は無事に、剣治の家についた。 剣治の住まいは、5階建てマンションの3階角部屋、1LK。 玄関から入ってすぐ左がキッチン。 短い廊下を真っ直ぐ行けばリビングがあり、一応キッチンとも繋がっている。 さらに奥へ進むと小さな部屋があり、そこを寝室として使っているらしい。 男の一人暮らしとは思えないほど、整理整頓から掃除まで行き届いている。 「僕は普段ベッドに寝ているんですが、寝床はどうしますか?」 「俺は床で良いよ。布団なんか無くても、どこでも寝れっから」 リビングには、一応二人掛け用のソファーもあるが、できれば剣治の近くで寝たい。 剣治に悪夢を見せる神力の事もあるし―― 「誰かを部屋に泊めるなんて、初めてです。どうぞ、くつろいでください」 剣治はどこか嬉しそうに言う。 まだ独身で、自由気ままな一人暮らしとは言え、やっぱり、少し味気ないのかも知れない。 「あのさ、剣治。……一つ聞いて良い?」 「はい。何ですか?」 「……何で、俺の頼み、聞いてくれたんだ?」 一瞬、沈黙が降りた。 無理を言ったのは、志郎も自覚している。 普通なら、今日出会ったばかりの相手を、家に泊めたりなんかしないだろう。 「……あなたが、凄く必死だったから……」 剣治がポツリと呟く。 「――僕も、一つ聞いて良いですか?」 「何を?」 剣治が真っ直ぐに志郎を見詰める。 「僕が誰かに似てるって、言いましたよね? 誰に……似てるんですか?」 目を見張った志郎は、一瞬だけ言葉を失った。 そして、わざとらしくニヤリと笑う。 「……興味ある? 意外に好奇心旺盛なんだ?」 「好奇心……」 少しだけ心外なという顔をして、剣治は頷いた。 「そうかも知れません。志郎さんがあんまり必死なので、その人とどういう関係なのか、気になりました。――すみません」 素直に頭を下げる剣治に、志郎は顔を引き締める。 そしてフッと微笑んだ。 「……昔、世話になった人だよ」 語りだした志郎に、剣治は顔を上げる。 「昔、少し荒れてた俺は、一時的に両親と引き離されたんだ。その時、俺の世話をしてくれたのが、その人だったんだ」 前世の昔――破壊を好む狼として、フェンリルは監視のため、人間界に幽閉された。 志郎は『子供の時の話』というように語る。 「当時、手の付けられない暴れ者だった俺を、その人だけが怖がらず、俺と対等に接してくれた。……俺も、その人だけは、大好きだった」 幸せだった。 神々に恐れられ、針のむしろだったフェンリルにとって、チュールは唯一安らげる相手だった。 ……思い出すだけで、志郎の顔にも、自然と笑みが浮かぶ。 剣治も微笑む。 「本当に、大切な人だったんですね。その人は、今どうして――?」 一瞬だけ息を呑んだ志郎は、静かに目を伏せる。 「……死んだよ。……俺のせいで」 剣治が息を呑んだ。 動揺が見て取れるほど、剣治の瞳が揺れている。 志郎は苦笑した。 「嫌な話を聞かせちまったな。……悪い」 謝る志郎に首を振り、剣治はそっと、志郎を抱き締めた。 志郎の耳元で、剣治が小さな嗚咽を漏らす。 「……何で、剣治が泣くんだよ?」 志郎の声が、少しだけ震えた。 「すみません……でも……どうしても、涙が、止まらないんです」 腕の力を強くした剣治に、志郎も目頭が熱くなり、恐る恐る腕を持ち上げる。 そして躊躇(タメラ)いがちに剣治を抱き返した。 「……ごめん」 謝った相手は、剣治だったのか、それともチュールだったのか―― 何も知らないはずの剣治が、慰めるように志郎の頭を撫でた。 今少しだけ、安らかな時が流れる。   ☆   ★   ☆

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