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6.1日の終わり
「ケ~ンジ~? まだスネてんのか……?」
「………別に、スネてなんかいません」
そう言いながら、剣治はずっと浴槽の隅で膝を抱えている。
最近多い寝そべるタイプの浴槽ではなく、水槽のような箱型だから、一応その体勢でも湯に浸かっていられるが――。
「その体勢、窮屈じゃないか?」
「だ、大丈夫です!」
顔すら上げない剣治に、志郎は頭を洗う手を止め、少し大袈裟(オオゲサ)にため息をついた。
「男同士で……そんな、見られて困るもんなんかねぇだろ?」
「そう言う事じゃなくて……!」
一度声を上げた剣治は、けれど何も言わず、鼻下までお湯に入りブクブクと泡を出す。
志郎はもう一度ため息をつき、まだ洗いかけだった頭をシャワーで流した。
剣治が不思議そうに顔を上げる。
「――分かったよ。そんなに俺と風呂に入ンのが嫌なら、俺はもう出っから。頭とか体洗う時に呼べよ」
「あ――!」
剣治の顔も見ず、さっさと風呂場から出て行こうとした志郎に、剣治が慌てて立つ。
「まっ、待ってください!」
剣治の左手が伸び、志郎の手首を掴む。
足を止めた志郎は、振り向かず、目線だけを剣治に向けた。
「えっと、その……志郎さんとお風呂に入るのが、嫌な訳じゃなくて……ただ、あの……二人きりになるのが、恥ずかしくて……」
言葉に迷いながら、つっかえつっかえに呟く剣治が、カアッと赤くなる顔でうつむく。
「誰かと二人きりでいるのは、初めてですし……それに……お、お、おひ、お姫、様、だ、だ、抱っこ、とか――」
その単語を口にする事すら恥ずかしい、と言わんばかりに、剣治が耳まで顔を赤くした。
羞恥に体が震えている。
志郎は思わず「プッ」と笑った。
「志郎、さん……?」
「いや、悪(ワリ)ィ……なんか今の剣治、すンげぇ可愛い……」
「な、かわ……!?」
言葉を無くした剣治は、開いた口が塞がらないと言うように、アワアワしている。
クスクスと笑っていた志郎は、ゆっくりと剣治の肩を押して誘導し、また湯船に浸からせた。
「体、冷えちまったろ? もう少し浸かってな」
いっぱいいっぱいになり過ぎて、逆に素直になった剣治が、コクリと頷く。
そしてやっと我に返ったのか、軽くうつむいた剣治はポツリと呟いた。
「――可愛くなんか、ありません」
今さらだろう。
だが志郎は敢えて突っ込まず、必死に笑いを噛み殺していた。
そして長い髪を適当にまとめ上げ、落ちないようにタオルで縛る。
少し恨めしげに見上げていた剣治は、そんな些細な動作でも無駄無く動く志郎の筋肉に見惚れた。
筋肉ムキムキのマッチョマンではないが、無駄な肉も無く、しなやかで引き締まってる。
「綺麗な筋肉が付いていますね……」
思わず呟いた剣治に、志郎はさもおかしそうに、クスクスと笑った。
「自分の体を見られンのは嫌でも、人の体を見るのは好きなのか?」
「っ――! ち、違いますよ……! 僕は、ただその……」
言い訳が思い浮かばなかったのか、閉口した剣治は、またうつむいてしまう。
いじめ過ぎたかと少し反省した志郎は、気にしてないからと優しく微笑んだ。
「一応、趣味でボクシングやってたんだ。最近はバイクでかっとばす方が、多いけどな」
志郎は頭にタオルを巻いたまま、ボディビルダーの真似をして、いくつかポーズを取る。
そのたくましい動きに、茫然と見詰めていた剣治は、ホゥ……と感嘆のため息をついた。
「惚れた?」
志郎がニッとイタズラっぽく笑う。
「なっ、ちっ、違いますよ!」
大慌てで否定する剣治に、志郎は声を上げて快活に笑った。
「冗談だって!」
腹を抱えて笑う志郎に、剣治がムスッと唇を尖らせる。
その顔が可愛いと言うのに――
まだ少し肩を震わせていた志郎は、それ以上からかったりせず、スポンジにボディソープを付け体を洗い始めた。
鼻歌でも歌い出しそうな志郎を、剣治は恨めしげに睨んでいたが――
「――あれ? 志郎さん、その腕の痣(アザ)はどうしたんですか?」
一瞬、志郎の体がビクリと反応した。
志郎の両手首と両足首をそれぞれ一周する、細い紐のような浅黒い線。
動揺しないよう、気構えていたハズなのに――
志郎は痛みを孕(ハラ)んだ顔で、ゆっくりと目を閉じた。
胸がドクドクと鳴って苦しい。
「志郎さん……?」
表情を曇らせた剣治が、不安の滲(ニジ)む声で聞いてくる。
志郎は深く深呼吸した。
「……ただの痣だよ。――生まれつきなんだ」
それは前世で、フェンリルが嵌められた鎖の痕。
犯してしまった罪を思い出させる烙印。
大きく「はぁ~」と息を吐いた志郎は、止めていた手を動かし、無言のまま体を洗い終えた。
悪い事を言ってしまったかと、剣治も口をつぐんだまま、静かに志郎を見詰めている。
「次は剣治の頭を洗わないとな。嫌だとは言わせ……剣治?」
何事も無かったように志郎が振り返ると、剣治は痣を見詰めたまま、静かに涙を流していた。
「剣治……?」
「っ! あ、あれ……? 何で、涙なんか――」
戸惑う剣治は必死に目元を擦るが、どうしても溢れて、零れ落ちて――
「すみません……すみません……」
何度も謝りながら、剣治は涙を拭く。
それを静かに見詰めていた志郎は、救いを求めるようにそっと手を伸ばし、剣治の頭に触れた。
「志郎……?」
「……ごめん。こんな時、何て言ったら良いか、俺には分かんねぇ……」
志郎は真っ直ぐに剣治を見詰める。
その眼差しにハッと息を呑んだ剣治が、どこか安心したような、穏やかな顔で微笑んだ。
「ありがとう……」
「いや……髪洗おうぜ? のぼせちまう」
「はい……」
素直に頷いた剣治は、タオルで股間を隠しながら、浴槽から上がった。
「今さら……」と言う言葉を呑み込み、剣治を座らせた志郎は、シャンプーを手に髪を洗い始める。
一本一本が細いわりに、少し硬い髪質。
指の間をスルリと抜ける感触が気持ち良い。
「痒いトコねぇか?」
「はい……凄く、気持ち良いです」
ほんのり顔を赤くしながら恍惚とまどろむ剣治に、志郎は少し笑った。
「昔、よく弟の髪を洗ってたからな」
「弟がいるんですか?」
「おう。アルビノで、兎みてぇな白い髪に、赤い目のイケメンだよ」
志郎の誇らしげな語り口に、剣治は「へぇ~」と感嘆の声を漏らす。
「志郎さんは弟の事が、本当に好きなんですね」
「まぁな。外面が良くて、その実、恋人には容赦(ヨウシャ)なく毒を吐くヤツで。嫌いなのかと思ったら、ベタぼれのベタ甘で、いっつもイチャイチャしてんだぜ? 見てるこっちが恥ずかしいっての」
きっと世流は今頃、くしゃみをしているだろう。
剣治が面白そうにクスクスと笑う。
「楽しそうで羨ましい。僕は一人っ子で、よく兄弟に憧れてました」
「そっか」
二人で笑いあっている時、不意に剣治の体がビクンッと震えた。
「どうした? 剣治?」
「なぁ、何でも……ありません」
そう言いながら、剣治の顔が、みるみる真っ赤に染まっていく。
けれど、例の神力は感じられない。
(……俺、剣治に何かしたっけ?)
首を傾げた志郎が、とりあえず剣治の頭の付け根を洗うと、また剣治の体がビクリと震えた。
「…………」
剣治をジッと見ていた志郎は、剣治の頭の付け根を、そっと指先で掻く。
「ン……」
剣治の息が鼻から抜け、うっすらとピンク色に染まった身体を、ピクピクと震わせている。
――どうやら、剣治の良いポイントを見付けてしまったらしい。
志郎はゴクリと生唾を呑み込んだ。
けれど、イタズラしたい衝動を抑え付け、手早く丁寧に髪を洗い終える。
そして志郎は、おもむろにスポンジをボディソープで泡立てた。
さて、ここで問題。
右手を使えない人が、一人で洗えない部分はどこだろうか?
その答えは――
「ほれ、左手出せぇ~」
スポンジを持ったままでは、持ち手は洗えない。
大人しく水平に上げられた左手を、志郎は優しく支え持ち、丁寧に洗いだす。
「背中も洗ってやるよ」
「……お願いします」
志郎はニヤリと笑った。
始めは丁寧に背中を擦り、首元に差し掛かると――
「っ――!」
剣治の体が、ビクッと震えた。
「どうした?」
「な、何でも……ありません」
強がらなければ良かったのに――
「ンン……ふぅ……」
志郎が首筋を洗う度に、引き結ばれた剣治の口から、艶かしい息が漏れる。
それに気付かないフリをして、志郎は剣治の首筋に手を置き、剣治の脇の下を洗いにかかった。
体をスポンジで擦る度、志郎の左手が揺れて剣治の首筋を刺激する。
剣治の身体がビクビクと震えた。
それほど日に焼けていない白い肌が、うっすらとピンク色に染まって行く。
左手で首筋を刺激したまま、志郎の持つスポンジがお尻に差し掛かると――
「ン……はぁ、あっ!」
剣治が背中を仰け反らせ、堪らず声を上げた。
志郎はゴクリと生唾を呑み込む。
ハッと我に返った剣治が、恥ずかしそうに左手で口元を覆った。
真っ赤になった顔を、志郎から反らす。
「……よし。後は、自分で洗えるだろ?」
「え……あぁ、は、はい……」
何もなかったようにスポンジを渡す志郎に、剣治はたどたどしく頷いた。
「んじゃ、お先」
さっさと手を洗った志郎が、そのまま風呂から出て行く。
閉められた風呂場の中から、安堵するような剣治のため息が聞こえた。
下だけ穿いた志郎は、自然に見えるようにゆっくりとキッチンへ行き、コップを拝借して水を飲む。
「はぁ……あ、危なかった……」
大きく息を吐いた志郎は、邪念を振り払うように、前髪を掻き上げる。
「クソッ……!」
今、性感帯を刺激されて嬌声を上げた剣治に、激しく欲情した。
もう少しあの場にいたら、剣治を押し倒してしまったかも知れない。
現に今も、放出されなかった熱が、志郎の中心でくすぶっている。
なぜだ?
今の彼は、人間の『神代剣治』であって、北欧の神『チュール』ではない。
それは分かっている。
それなのに、なぜ『剣治』の事が頭から離れない?
『剣治』に欲情するのはなぜだ?
自分の気持ちが、よく分からない。
彼の魂が『チュール』の物だったからなのか?
だから気になって、放っとけなくて――
最初の理由は、本当にそれだけだった。
そして、フェンリルが傷付けてしまった相手だから、生まれ変わった彼に償うために、剣治を守る。
「それ以外に――剣治の側にいる理由など、無い」
志郎は自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
――けれど、本当にそれだけなのか?
軽く頭を振った志郎は、深くため息をついた。
考えるのはやめよう。
疲れるだけだ。
全ては、剣治を守る事――それだけで良い。
それに、まずは――
(この熱、どうしろってんだよ……)
志郎が悶々と考えている間も、中心に集合した熱は引く事を知らず、今だにパンツの下で戦闘体勢を維持していやがる。
自分に呆れてため息をついた志郎は、ふっと剣治の事が気になった。
少し遅くないか?
とは言うものの、その理由はすでに、何となく検討が付いている。
それは志郎が手を洗っていた時――
剣治が少しだけもぞもぞとして、さりげなく前屈みになった。
その時、剣治の腰に掛けられていたタオルが、わずかに盛り上がって――
「あ、ヤベ……鼻血」
逆上せてしまった鼻と、さらに上がった熱共々、志郎はティッシュのお世話になった。
☆ ★ ☆
その後しばらくして――
やっと風呂から上がって、パジャマを着た剣治と共に、志郎は上半身裸のまま寝室に入った。
夏場なら、下も穿きたくないくらいなのだが、人様の家では仕方ない。
剣治がベッドを勧めるのを断り、志郎はさっさと床に寝転がる。
「寒くありませんか?」
「暑がりだからヘーキ」
実際に、一応タオルケットは敷いているが、ヒンヤリとしたフローリングの床は、火照っている体に気持ち良い。
常体温が元々高いのだ。
「剣治――明日の予定、聞いてい?」
「明日は、部活に顔を出したいです。……あんな事があって、生徒達にも迷惑を掛けてしまったので」
そう言ってベッドに横になった剣治は、困惑げに眉を寄せ、唇を引き結ぶ。
――あの時の事を、考えているのだろう。
志郎が腕を掴んだ時、なぜ悲鳴を上げて発狂したのか、きっと剣治にはその理由が分からない。
志郎はそっと上体を起こして、少し高い所にある剣治の頭を軽く撫でた。
「あんま思い詰めんなよ。お前が落ち込んでたら、お前の生徒達が、また心配すんだろ?」
分からないままで良い。
腕は……優人と光にも相談してみよう。
「……大丈夫だ。俺の知り合いにも聞いてみっから。――きっと、俺がなんとかしてしてやる」
決意を込めた志郎の言葉に安心したのか、やっと剣治が穏やかに微笑んだ。
「……ありがとうございます、志郎さん」
剣治が髪に触れる志郎の手を取り、ギュッと握る。
「僕の方が歳上なのに、情けないですね……けど……志郎さんの手、凄く、安心します……」
一瞬胸がドキッとした志郎は、剣治の手を優しく握り返した。
剣治がゆっくりと目を閉じる。
「剣治……俺……」
何を言おうというのか、言葉に詰まった志郎は、また小さくため息をついた。
何の反応も示さない剣治は、穏やかな顔で浅く呼吸していて、もう眠ってしまったらしい。
その安心しきった寝顔を眺めていた志郎は、自分でもあり得ないほど自然に、優しく微笑んだ。
そして、その寝顔を見ながら、なんとなく志郎は自覚してしまった。
剣治を守りたい。
チュールの生まれ変わりとかは関係なく、剣治だから――
志郎は誓いを立てる騎士のように、恭(ウヤウヤ)しく剣治の手を取り、そっと薬指の付け根に唇で触れる。
「……おやすみ、剣治」
優しく剣治の手を掛け布団の中に入れ、もう一度剣治の髪を撫でてから、やっと志郎は横になった。
少しして寝返りを打ち、志郎に背を向けた剣治が、その顔を真っ赤に染めていた事は誰も知らない。
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