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7.近くて遠い朝

「フェンリル!」 あぁ、また彼が来た。 「フェンリル! 話を聞いてくれ」 ……うるさい。 話なんか聞きたくない。 右腕を失ったチュールは、三日も高熱が続き、生死をさまよった。 そして快復した後、チュールは何度も岩場に来る。 忌々しい鎖に繋がれたフェンリルが、いくら唸って威嚇しようとも、何度も何度も…… 「フェンリル……僕は……」 聞きたくない! 鎖のせいであまり開かない口で吠え、フェンリルは大きな前足を振り、チュールを無造作に弾き飛ばす。 「うあっ!」 岩に叩き付けられたチュールが、苦痛に呻きながらもまた、フェンリルに近付いて来る。 その度にフェンリルは、何度も前足や尻尾でチュールを弾き飛ばす。 それなのにチュールは、何度岩に叩き付けられようとも、フェンリルの側に来ようとする。 何度も、何度も…… 「フェン……リル……」 もうやめてくれ。 チュールが近くに来る度、フェンリルの胸が苦しくなる。 その感情が怒りなのか、苦しみなのか、もはやフェンリルにさえ分からない。   ☆  ★  ☆   剣治の近くにいるせいか、昨日から前世の夢をよく見る。 そして目を覚ました時、決まって感じるのは懐かしさなどではなく、苦い悲しみばかり。 志郎は重く息を吐いた。 過去は過去と割り切っていた積もりで、実際には後悔ばかりが心を締め付けてくる。 体は人間に生まれ変わろうとも、魔狼の心は解放されないらしい。 「うっ……ううっ……ふぅっ……」 不意に志郎は、剣治の異変に気付き、ハッと耳を澄ませた。 剣治が……泣いている? 静かに上体を起こした志郎は、そっと剣治の顔を覗き込んだ。 「ひっく……う……」 まだ眠っているらしい剣治は、その閉じた目から大粒の涙を流し、低い嗚咽の声を漏らしている。 何か、悲しい夢を見ているのだろうか? 「おい……剣治……?」 このままにもしておけず、志郎は剣治の肩を揺さぶって、はっきりとした声を掛けた。 「くぅ、う……志郎……さん……?」 目を覚ました剣治は、不思議そうに志郎を見上げ、戸惑ったように濡れた頬を拭う。 「あぁ……僕は……泣いて……?」 「大丈夫か? 剣治。嫌な夢でも見たのか?」 優しく問い掛ける志郎に、剣治は静かに首を振る。 「いいえ……いつもと同じ……狼の、夢です……」 夢の内容を思い出すように、剣治は虚空を見上げて呟き始めた。 「右腕を失った僕は、狼と話をしようとして……けれど狼は……僕を、追い払おうとするんです」 それはまるで、志郎が見ていた夢と同じ―― 剣治は新たな涙を溢しながら、ふっと悲しそうに目を閉じた。 「何度、話掛けようとしても……その狼は……どうしても、聞いてくれなくて……それが悲しくて……」 すすり泣く剣治は、左腕で目元を拭う。 「なぜ……こんなに、悲しいのか……僕にも、分かりません……けど……どうしても……っ」 言葉が見付からない。 何も言えない志郎は、剣治が泣きやむまで、そっと彼の手を握っていた。 ――何も、言わないで欲しい。 初めは、最も大切に思っていたチュールから、罵られるのが怖かった。 チュールにまで罵倒されれば、フェンリルは二度裏切られる事になる。 腕を噛みちぎっておきながら、フェンリルはそれが嫌だった。 たった一人の、大切な存在だったから。 親よりも…… けれど、だからといって、謝って欲しくもない。 謝られたら、きっとフェンリルは、チュールを許してしまうから。 そして許してしまったら、チュールの腕を噛みちぎった自分を、フェンリルは許せなくなる。 チュールに優しくされる事が、怖くなってしまう。 魔狼を拘束する鎖グレイプニルよりも、チュールの存在の方が、フェンリルの――志郎の心をがんじがらめにする。 裏切られ、何度も憎もうとして、けれどやはり愛しくて…… もう失いたくない。 志郎は強く、剣治の手を握り締めた。   ☆  ★  ☆ 「……フェンリル……」 何気ない剣治の呟きに、志郎は危うく飲み掛けのコーヒーを落とす所だった。 「……急に、何だ?」 志郎は努めて平然と返すが、カップを持ち直した手はわずかに震えてしまう。 それに気付かない剣治は、少しだけ遠くを見詰め、寂しそうに笑う。 「いつも夢に見る狼の名前です。……今朝の夢で、初めて名前を呼びました」 それまでは、知らなかったらしい。 事情を知っている志郎からすれば、剣治は「覚えていなかった」と、言うのが正しいか―― 剣治が小さくため息をついた。 「フェンリル……」 どこか愛しそうに、切なそうに、剣治が繰り返す。 その度に志郎の心はくすぐられ、答えてやりたいとさえ思う。 しかし、やはりフェンリルの記憶は過去の遺物。 生まれ変わった志郎が答える事は、少しだけはばかられる。 答えてしまったら、この関係も終わってしまうような気がして―― 「……あの……志郎さん……?」 「――何だ?」 急に声を掛けてきた剣治に、志郎はぎこちなくならないよう軽く首を傾げた。 剣治が少し迷うように、視線をさまよわせる。 「……なんで、フェンリルは、僕の腕を――」 どう言って良いか迷うように、一つ一つ言葉を区切りながら、剣治の瞳が悲しく揺れた。 「―――」 志郎は黙り込む。 答えられる訳がない。 「あっ……すみません、急に……」 戸惑った様子の剣治が、慌てて声を上げる。 「……初めて……だったんです。誰かに、夢の話をしたのは……」 言葉が尻すぼみになり、うつむいてしまった剣治に、志郎はため息をついた。 そんな泣きそうな顔をしないでくれ。 全て――打ち明けてしまいたくなる。 前世の事を話したら、剣治はどうするだろう? フェンリルを――志郎を憎むだろうか? 志郎は唇を噛み締める。 けど、もしかしたら…… 「志郎さん?」 急に黙り込んだ志郎を、剣治が不安そうな顔で覗き込む。 何も知らない剣治。 ――今ならば、話せるだろうか? フェンリルが恐れて、遠ざけていた気持ちを。 志郎はゴクリと唾を飲み、恐る恐る口を開いた。 「……北欧神話って、知ってるか?」 「え? いえ……」 突然の問い掛けに、剣治が首を傾ける。 「……北欧の神々の話だ。……神々の住む国に、大きな狼がいた」 淡々と語り出す志郎の話が、あの狼――フェンリルに関わる事だと気付き、剣治は静かに耳を済ませた。 狼が太陽を呑み込むと言う予言。 怖がる神々の中で、一人だけ狼を世話した青年。 そして―― 「魔法の鎖を掛けられ……騙されたと気付いた、狼は……青年の腕を、食いちぎった……」 なるべく客観的に、気持ちを押し付けないように。 志郎は語り終えた。 胸が苦しい。 チュールに裏切られた思いが、まざまざと思い起こされる。 信じて、いたのに…… 志郎は軽く息を吐いた。 「勝手だよな……体がでかいからって、怖がって……予言までこじつけてよ」 実際、あの時のフェンリルには、予言などどうでも良かった。 「けど……体が大きければ、それだけ力も強いから、怖がられても無理は無いと思います」 「剣治は? 剣治も……怖かったのか?」 少し考えた剣治は、静かに首を振った。 「いいえ。初めて見た時は、牙を剥き出しにして、怒っていて……なぜ怒っているのかも分からなくて、怖かったです。でも昨日、夢で世話をしていた時は、凄く暖かくて、その狼が大好きでした」 志郎は息を呑んだ。 狼の事を『大好き』と言う剣治が、嬉しくて仕方がない。 志郎は思わずカアッと顔を赤くした。 「志郎さん? どうかしたんですか?」 「いや……何でもない」 志郎は照れ隠しのように首を振る。 「……さっきの、続きですが……」 「ん?」 また、剣治がうつむく。 「……僕には、フェンリルは暖かい存在でしたが、知らない人からしたら……やっぱり、怖かったと、思います」 志郎は小さく頷いた。 少し前だったら、見た目だけで恐れる神々に、憤りを感じていただろう。 けれど、剣治が受け入れてくれているなら、もうどうでも良い。 「だから青年は……フェンリルに鎖を掛ける事を、止められなかったんじゃないですか? 多勢に無勢、と言うか……」 「多勢に無勢ねぇ……」 確かに、それはあったかも知れない。 「それに……あまり考えたくないですが……もしも鎖を掛けられる前に、フェンリルが気付いていたら――きっと、怒ったフェンリルは、たくさんの神々を攻撃しますよね」 「たぶん、な」 フェンリルは、何度も神々に鎖を掛けられかけた。 ただの鎖なら引きちぎってやれるが、魔法を使われたら、無理矢理に自由を奪われる。 チュールがフェンリルの出した条件を呑み、口に手を入れなければ――きっと、神々に襲いかかっていただろう。 「仕方……なかった、ですよね……」 「剣治?」 剣治の声が震えている。 志郎がその顔を覗き込むと、また剣治は静かに涙を流していた。 「あぁ……あれ……? 僕、また……」 剣治は涙が止まらないと言う様子で、何度も何度も袖で目を拭う。 「剣治……大丈夫か?」 「はい。でも……フェンリルは、きっと辛かったですよね……世話をしてくれた青年に、騙されて……その青年を、恨んでいますよね……」 志郎は、剣治に何も言えなかった。 何度もチュールを恨もうとして―― 志郎は黙って剣治を抱き締めた。 「志郎さん……?」 志郎は何も答えられず、ただただ強く、剣治を抱き締める。 やっぱり、チュールを恨む事なんて――できない。 恨まれるべきは、きっと―― 志郎はこっそりと唇を噛み締めた。 口内に、血の味が蘇る。 「志郎さん? どうしたんですか? ……大丈夫、ですか?」 心配した剣治が、左手でそっと、志郎の頭を撫でてくれた。 その手の温もりが、凄く懐かしい。 志郎は剣治の肩で、ゆっくりと深呼吸をした。 剣治の匂いがする…… それは当然、チュールとは違う物だけれど、とても心が落ち着く。 「ワリぃ。もう、大丈夫だから……」 「志郎さん……」 剣治はまだ何か言いたそうにしていたが、志郎はそっとその肩を離し、にっこりと笑って見せた。 「大丈夫だって。それより、部活に行くんだろ? 早く準備しようぜ」 少しの間、志郎を見詰めていた剣治は、言葉を呑み込むように一つ頷く。 そして、優しく志郎の頭頂部に手を置いた。 「辛い事があったら、いつでも言ってくださいね。……僕だって、あなたのために、何かしたいんです」 「剣治……」 真っ直ぐに見詰めてくる剣治に、志郎はふっと笑って、彼の額を軽く指先で弾いた。 「イタ……!」 額を押さえた剣治が、少しだけ唇を尖らせ、志郎を睨む。 (どっちが歳上か、分かんねぇな……) とか、しみじみ思った志郎は、くすぐったい気持ちに苦笑する。 「その気持ちだけで、十分だっつの。……何かあったら、また慰めてちょ」 「……はい」 剣治はまだ少し納得できないようだったが、それでもどこかほっとした顔で微笑んだ。 それから少しして、揃いのヘルメットを被った志郎と剣治は、親しみを込めて笑いながら家を出た。 しかしすでに、崩壊の足音はすぐ近くにまで迫って来ている。 それほど遠くない所で、悲しげな獣の慟哭が聞こえていた。   ☆   ★   ☆

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