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8.幸福のリミット
それほど遠くない未来に、悲しげな獣の慟哭が聞こえる。
数日前から、何度となく視えたビジョン。
金の鎖に縛られた狼が、炎を纏う剣士に首を落とされる……
未来を示す予知は、いつも抽象的だ。
読み解けなければ、その未来が現実になるまで、何の事か分からない。
いつもは取るに足らない未来ばかりで、放って置いても何の問題も無いが――
今回の予知は嫌な感じがする。
首を切り落とすビジョンは、必ずしも死に直結している訳ではない。
喧嘩や詐欺など、相手を傷付ける事柄ならば、何でも考えられる。
けれど今回のビジョンには、異様に血の臭いが付きまとう。
早く止めなければ、きっと誰かが怪我をする。
いや、下手をすれば、死人が出るかも知れない。
早く何とかしなければと、気ばかりが焦るけれど、何をどうすれば良いか――
深く考え込んでいると、また新しい未来が視えた。
学校にいるハンマーを持つ男と、狼と血の繋がりを持つ巨大な蛇――
☆ ★ ☆
聖ヴァルが運動部に力を入れているというのは、本当らしい。
なにせ学校の敷地内に、剣道や柔道などの部室が付属した、専用の道場があるのだ。
それも、剣道部と柔道部が一緒に練習できるほど、十分に大きい。
志郎は感心を通り越して、少し呆れてしまった。
「すんげぇなぁ……」
「初めて見る人は、みんなそう言います」
剣治も最初はそう思ったのだろうか?
少し苦笑する剣治について、志郎も道場の入口をくぐった。
「あ! 神代先生!」
「神代先生!」
剣治が入口をくぐっただけで、練習をしていた生徒達が我先と集まってくる。
剣治はとても生徒達に慕われているようで……
志郎は嬉しいような、蹴散らしたいような……初めてのモヤモヤする気持ちを味わった。
「みんな、優勝おめでとう。良く頑張ったね。……昨日は、応援できなくて、ごめん」
剣治が本当に申し訳なさそうに頭を下げる。
けれど生徒達はみんなにっこりと笑って、一様に首を振っていた。
そして部長らしい男が、代表して志郎に向き直り、軽く頭を下げる。
「初めまして。北王陣学園剣道部の神野のお兄さんですよね? 新部長の近藤です」
「どうも。――世流の知り合いなのか?」
近藤と名乗った生徒がおおらかに笑う。
「俺はまだ、直接顔を合わせた事はありませんが、後輩達が世話になったそうです。神野さんの弟と、その友達の荒神に」
改めて志郎を見た他の生徒達も、揃って頷く。
「先生が倒れて、少し心細くなった時、荒神と神野が励ましてくれたんです」
「荒神が『先生に胸を張って報告できるように、頑張れ』って」
「全力で正々堂々と戦いたいからって」
「ぷっ……!」
目をキラっキラさせて励ます徹の姿が目に浮かび、思わず志郎は吹き出した。
きっとその後ろで、呆れた顔の世流はため息をついていただろう。
そして単純バカだけど愛しい徹に、自分で苦笑するに違いない。
そんな二人の姿が視えるようだ。
その時……
「あの二人、仲良いですよねぇ」
不意に、一人の生徒が呟いた。
その生徒の言葉に、他の生徒も同意する。
「ホントに、あの二人の間だけ、他と空気が違うと言うか……」
おや?
世流と徹の関係が気付かれているのかと、少しハラハラした志郎が、耳を傾けていると……
「なんか、仲の良い『兄弟』みたい、な……?」
「いや、むしろ……『親子』? みたいな?」
あの二人が兄弟?
それはまだ分かる。
分かるが……
世流と徹が――親子?
その瞬間、志郎の頭の中に、世流の事を「パパ~」と呼ぶ『園児服を着た徹』の姿が――
「ぶはっ!!」
盛大に吹き出した志郎が、神聖な道場にいる事も忘れ、腹を抱えて声の限りに大笑いした。
二人に会った事が無いらしい剣治は、一人取り残されて茫然としている。
「え、えぇと……それで、その二人に言われた通り、全力の良い試合はできましたか?」
一つ咳をした剣治が、話を試合の方へ持っていく。
するとたむろしていた生徒達の中で、部長も含めた五人が「はい!」と返事をした。
おそらく試合に出場したメンバーだろう。
「ですが、副将の神野と、中堅の荒神に負けてしまって……」
「近藤部長が主将戦に勝ってくれなければ、次に勝ち進めませんでした」
そう言って二人はため息をついた。
この二人が、試合で世流と徹に当たったようだ。
「他の試合でも負け越した訳ではないだろう? 次は勝てるように、しっかり練習しよう」
励ます剣治に、少し落ち込んでいた二人の生徒は、しっかりとした声で返事をする。
ここでつまずかず、ちゃんと気持ちを切り替えられたようだから、この二人は強くなるだろう。
それよりも、志郎は部長の事が気になる。
「近藤だっけ? 結構強いようだな」
「いえ、まだまだです。俺の夢は、剣道で世界一になる事ですから」
志郎が軽く口笛を吹く。
「カッケー事、言うじゃねぇの」
自信たっぷりに胸を張った近藤は、誇らしげな顔でにっこりと笑った。
「男たる者、武を極め、高みを求めるのは当然です。俺は、もっとたくさんの強者と戦い、自分の力を伸ばしたいんです」
「お、気ぃ合うじゃねぇか。やっぱ、男なら強くなりてぇよな」
近藤が「はい」と頷き、志郎は感心して頷き返す。
それを見ていた剣治は、急に眉根を寄せ、志郎から顔を背けた。
「……僕だって、右腕さえ動けば――」
剣治がこっそりと呟く。
「ん? 剣治、何か言ったか?」
「いえっ、別に……」
慌てて口元を隠した剣治が、うつむいて頬を赤く染める。
志郎は小さくクスクスと笑った。
「あの、神野さん。神野さんの弟に伝えてください。――いつか機会があれば、友人の荒神共々、試合をしたい、と」
「おう。世流と徹も喜ぶと思うぜ」
少しだけ練習を見学して、志郎と剣治は道場を後にした。
バイクを停めた駐車場に戻り、志郎は軽く剣治の頭を撫でる。
「志郎さん?」
「心配すんな。俺が必ず、お前の腕を動くようにしてやる。だから……そんな落ち込むな」
ハッと目を見開いた剣治が、志郎を見上げる。
「気付いて……いたんですか?」
「まぁな。生徒達の前じゃ、気ぃ張ってたんだろうけど……俺の前では、無理すんなよ」
それだけ言って、志郎はバイクにまたがり、照れくさそうに深くヘルメットを被った。
嬉しそうに微笑んだ剣治は、ヘルメットを被って後ろにまたがり、志郎の背中に寄り添う。
「……ありがとう、ございます」
志郎が小さく「おう」と返した声は、剣治に届いただろうか?
☆ ★ ☆
『見せたい場所がある』
そう言った志郎は少しバイクを走らせ、銀杏並木の見事な通りに入った。
都心から離れたその道は、日曜でも人通りが少なく、閑散としている。
少しして、丘の上に建つ小さな神社の前で、志郎はバイクを停めた。
「神社……ですか?」
少し意外そうな顔をする剣治に、志郎はニヤッとい、短い石段を登って行く。
「こっちだ、こっち」
剣治を手招いた志郎は、古い鳥居をくぐり、拝殿には目もくれず通り過ぎた。
「雨が降りそうだから、急ぐぞ」
「ここに、一体何があるんですか?」
小さな拝殿を囲む、名前も知らない木々が黄色い葉を茂らせ、少し薄暗い。
普段は誰も入らないのだろう、道無き道を進む志郎が、不意に立ち止まった。
「剣治、目ぇ閉じて」
「え? はい……分かりました」
素直に目を閉じた剣治の手を引き、志郎はゆっくりとした歩みで優しく導く。
「ここだ。もう目ぇ開けても良いぞ?」
恐る恐る目を開けた剣治は、眼下に広がる光景に、思わず感嘆の声を上げた。
「凄く、綺麗だ……」
神社の裏手は崖になっていて、剣治達の住む町が一望できる。
建物の合間に色付く黄色や赤の木々が、見慣れた町をいっそう輝かせているようだ。
「天気が良ければ、もっと綺麗なんだけどな。……俺の秘密の場所なんだ」
「そうなんですか? 晴れた日も来てみたいです」
うっとりと景色を眺める剣治に、志郎は大満足して微笑んだ。
どうやら、少し沈んでいた剣治の気持ちは、だいぶ軽くなったらしい。
連れて来て良かった。
しかし、穏やかな時は、わりとすぐに終わりを告げてしまう。
「げっ、もう降ってきやがった……!」
ポツリポツリと落ちる雫が、一瞬後に激しい豪雨となった。
とっさに剣治の左手を握った志郎は、急いで近くの樹の下に引っ張り込む。
枝振りの見事な大木は、完全とまではいかないが、十分に雨を防いでくれる。
志郎は軽く息を吐いた。
「たく、もう少し待ってくれたら良いのによぅ」
急な雨に文句を言った志郎が、犬が濡れた毛皮から水滴を飛ばすように、ブルルッと頭を振った。
「うわっ! ちょっと、志郎さ……あ……」
飛んでくる水に、注意しようとした剣治は、そのまま呆然と言葉を失う。
志郎の長い髪が、首の動きに合わせてふわりと舞い、肩で踊り――
飛ばされた水滴が、キラキラと志郎を彩る。
それは一枚の絵画のように幻想的で……
それでいて、彫刻のような迫力と存在感があり、志郎の魅力を十二分に引き立てている。
(綺麗だ……)
ぼんやりとそう思った剣治の胸が、乙女のように高鳴っていた。
「ん? あ、悪い。掛かったか?」
やっと剣治に気付いた志郎が、慌てて謝ったが――
「――剣治?」
「へあっ!? あ、えっ、ご、ごめん……何?」
ぼ~っとしていた剣治が、急に顔を真っ赤にして、おどおどと視線を泳がす。
志郎はクスリと笑った。
「俺に見惚れてたのか? 『水もしたたる良い男』ってヤツ?」
不敵に微笑んだ志郎が、片手で前髪をサラリと撫で上げる。
その瞬間、剣治はハッと息を飲んだ。
志郎が軽く吐息を漏らし、すぐに「プッ……」と吹き出す。
今の仕草は、よく優人がしている物なのだが――
「なんてな! 親父のマネしてみたけど、やっぱ俺には無理! こっぱずかしいわ!」
志郎は恥ずかしくなって、クスクスと笑う。
その時――
「……本当に……綺麗です……」
ポツリと零れた呟きに、志郎はハッとして剣治を振り返る。
心ここにあらず、と言うようなうっとりとした目で、剣治は真っ直ぐに志郎を見詰めていた。
志郎の鼓動が、ドクンと跳ねる。
――今とても、剣治にキスしたい。
二人の視線が絡み合い、そっと目を細めた志郎は、優しく剣治の頬に触れ軽く顎を持ち上げる。
まだどこかうっとりとしたまま、剣治は吐息を漏らすように軽く口を開いた。
うっすらと濡れた剣治の唇に、志郎はゆっくりと唇を寄せる。
もう少しで、二人の唇が触れ合う。
志郎は目を閉じた。
(やっぱり、ダメだ!)
唇が触れる手前で奥歯を噛み締めた志郎は、そのまま剣治の顔を通り過ぎ、彼の肩に額を押し付ける。
「え……?」
剣治の口から、戸惑いの声が漏れた。
それに気付かないフリをしながら、志郎は自嘲ぎみに薄く笑う。
「……悪い。気持ち悪かったよな?」
「あ……いえ……」
やっと我に返った剣治が、恥ずかしそうにモゴモゴと呟いた。
胸が詰まる。
思わず涙が出そうになった志郎は、唇をギリリと噛み締め、すがるように剣治の服を握った。
「志郎、さん……? ……大丈夫ですか?」
「……もう少し………もう少しだけ……このままで、いさせてくれ」
「……はい」
剣治は何も聞かず、ただ静かに頷いて、そっと志郎の背中を撫でてくれた。
静かに目を閉じた志郎は、軽く息を吐いた。
やはり、剣治が好きだ。
愛しさが溢れそうで、胸が苦しい。
叶うのなら、このまま押し倒して、いつまでも愛し合いたい。
けど――そんな事は、決して許されない。
許されるはずがない。
転生した今でも、チュールの腕を食い千切った感覚が残っている。
口内に広がった血の味を、忘れる事ができない。
いや、むしろ剣治と出会ってから、さらに生々しく思い起こされる。
犯した罪を突き付けるように、苛むように――
剣士の誇りである腕を食い千切った罪を、どうして許せる?
いいや、許されるはずがない。
これはきっと罰なのだ。
「あ……雨、上がりましたね」
「ん……」
もう少しの間、剣治と離れ難かった志郎は、その肩に軽く額を擦り付ける。
しかし、すぐにハッとした志郎は、素早く顔を上げ、辺りを見回す。
(この神力は、あの時の――!)
志郎はとっさに剣治を抱き締め、彼に害が及(オヨ)ばないよう、自分の神力で包み込む。
それでも、今までより強い神力が、志郎の肌に纏(マト)わり付いて来る。
近くにいるのだろうか?
(どこだ――? どこにいる!)
志郎は神力を放つ相手の姿を探して、必死に首を巡らせた。
しかし――
「……グッ、ウウゥッ……!」
「剣治!?」
傍らで聞こえた呻きに振り返ると、左手で頭を鷲掴みにした剣治が、苦痛に顔をしかめていた。
「大丈夫か!? 剣治、しっかりしろ!」
「あぁ……頭、が……グアアッ……!!」
ほとんど悲鳴のような呻き声を上げ、剣治の膝が崩れ落ちる。
「剣治!」
手を伸ばそうとした志郎は、ハッと息を呑んだ。
剣治の髪が、一瞬、燃えるような赤に変わる。
その赤い髪は、志郎の前世の記憶と同じ――
「チュール……?」
すぐ黒に戻った剣治の髪は、また火の赤になり、明滅するように何度も色を変化させた。
「うあ……あぁ……!」
チュールの神力が解き放たれようとしているのか、周辺の木々がザワザワと枝葉を揺する。
頭を振り乱し、叫んで悶え苦しむさまは、まるで前世の神力が剣治を呑み込もうとしているようだった。
『志郎さん……』
志郎の脳裏に、剣治の微笑む顔が浮かぶ。
前世の記憶を持たない剣治は、戦神だったチュールでは無い。
生まれ変わった今、もう前世とは何の関係も無いのに――
なぜ剣治が、前世に蝕まれなければならないのだ!
志郎は唇を噛み締める。
「剣治!」
剣治の右手を強く握った志郎は、その手を額に付け、フェンリルの神力を注ぎ込む。
昨日、医務室で眠る剣治を、何者かの神力から守ったように。
今もまた、剣治が剣治のままでいられるように――
「ク……ウゥ……し……ろぅ……さん……」
「しっかりしろ、剣治」
力強く励ます志郎に、剣治は荒い呼吸を繰り返しながら、弱々しく見上げる。
その瞳は焦点が合わず、ゆらゆらと揺れ惑いながら、すがるように志郎を向いていた。
「タス……ケテ……」
「剣治……大丈夫……大丈夫だ、剣治。俺が……俺が必ず守ってやる」
静かに目を閉じた志郎は、左手で剣治の手を握ったまま、右手で剣治の頭を支え額を合わせる。
そして直接、剣治の中に神力を流し込んだ。
「クッ……グゥゥ……」
力の本流が頭の中で渦巻き、目が回るのだろう。
剣治が苦しそうに目を閉じ、志郎はより強く手を握り締める。
その内、剣治の中から迸(ホトバシ)る神力が収まり初め、剣治の呼吸も穏やかになってきた。
頭の中で渦巻くような感覚が消えていき、剣治はゆっくりと目を開ける。
「今のは……?」
何も分からない。
まだ目をぼんやりさせる剣治が、夢から覚めたように呆然と呟く。
けれど志郎は、それに応える余裕もなく、ふらりと剣治の肩に頭を落とした。
「っ! しっ……志郎さん……!?」
とっさに息を呑んだ剣治が、左手で志郎の肩を揺する。
志郎は「うっ」と呻き声を漏らした。
「剣治……」
「志郎さん! 大丈夫ですか? しっかりしてください」
焦った声を出す剣治に、志郎は弱々しく声を漏らして笑う。
「大丈夫だって……柄にもなく、パニクったかな? 少し……貧血、起こした……だけ……だから……少し……やす……ませ……」
最後まで言いきる前に志郎は意識を失い、剣治の横に倒れた。
「志郎さん!」
青い顔をした志郎の耳に、剣治の声が遠く聞こえた気がする。
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