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9.嵐の前に

今、冷たい風の中に一瞬、彼の声が聞こえた気がして――フェンリルは片耳を揺らす。 いや、そんな事は、ある訳がない。 フェンリルが鎖に繋がれてから、もう終わらない冬が三度来た。 じきに神々の大戦『ラグナロク』が始まる。 魔力を持つ雪で弱くなった鎖など、もう簡単に引きちぎれるだろう。 けれど、もし。 このままフェンリルが参戦しなければ…… きっと『ラグナロク』はオーディン側、神々が勝つだろう。 そうすると、父親であるロキを裏切る事になる。 雄鶏が鳴いた。 もう行かなければ―― しかしチュールのためだったら、父達を裏切ってしまっても、構わないとも少し思う。 ――その場合、オーディンとは誰が戦うだろうか? もしも父であるロキが戦うのなら、ロキもまた、信頼していた相手を傷付けなければならない。 そしたらロキは―― フェンリルと同じ、やるせない気持ちを味わうのだろうか? 『この世界は間違っている。だから、終わらせなければならない』 父の信念には、フェンリルも賛同している。 しかし…… そのために、大切だった者と戦わなければならないのか? フェンリルは決意を固め、雄叫びと共に鎖を引きちぎった。 ――こんな思いをするのは、自分だけで良い。   ☆  ★  ☆ 額に何か触れる感触がして、志郎は小さく呻いた。 「志郎さん……?」 優しい声に呼ばれ、志郎はゆっくりと目を開ける。 しかし、まだちゃんと焦点が合わず、志郎は何度かまばたきを繰り返す。 「志郎さん……大丈夫ですか?」 もう一度呼び掛けられ、やっとはっきりしてきた視界で、心配そうな顔が見下ろしている。 「ぁっ……けん……じ……?」 口がカラカラに渇いて、声が出し難い。 それでも剣治は嬉しそうな顔で、ほぅとゆっくり息を吐いた。 「良かった……ずっとうなされていて……心配したんですよ?」 「悪い……」 素直に謝る志郎の顔を、剣治がそっとハンカチで押さえる。 その感触が気持ち良かった志郎は、また静かに目を閉じ、軽く息を吐いた。 まだ少し、頭がクラクラする。 そう言えば、頭が何か引き締まったものに支えられていて…… 軽く身動げば、剣治の上半身がすぐ近くにある。 どうやら膝枕をされているらしい。 それから剣治の顔を通り越してさらに上を見て、どこかの軒下にいる事が分かった。 「……ここは?」 「拝殿の裏ですよ。雨が上がったばかりで、地面が濡れていましたから」 剣治が志郎のこめかみを撫で、志郎はくすぐったさに軽く目を細める。 気持ち良いけれど、少し照れくさい。 「……剣治が、運んでくれたのか?」 「そうですよ」 少し誇らしげな顔をした剣治が、わざとらしくため息をついて見せる。 「大変だったんですよ? 志郎さんは全然目を覚ましませんし」 志郎は苦笑した。 「俺の事、心配してくれたんだ?」 「当然じゃないですか」 少し唇を尖らせた剣治が、志郎の前髪を掻き上げるように、優しく額に触れてくる。 「本当に……心配したんですからね?」 剣治の手が暖かい。 「ずっと……側にいてくれたのか?」 「そっ、それは……手を……」 「手?」 急に顔を赤く染める剣治に、志郎は不思議そうに首を傾げた。 言い難そうに唇を歪めた剣治は、志郎の視線から逃げるように、フッと目を反らせる。 「……志郎さんが……手を……放して……くれないから……その……」 剣治が少しずつ、つっかえつっかえに答えながら、真っ赤な顔で志郎の腹部を凝視する。 志郎の手が、顔と違って真っ白な手をしっかりと握っていた。 意識など無かったはずなのに、ずっと剣治の手を放さなかったらしい。 「あ……悪い……」 「いえ……別に……」 「………」 「………」 沈黙が恥ずかしい。 けれどやはり何も言えず、志郎は赤みの戻った顔を隠すように、剣治の腹部に額を擦り付けた。 剣治の左手が、優しく志郎の髪をすく。 握っていた手は、なんとなくそのまま…… 穏やかな時間が、ゆっくりと流れて行く。 ……… …………クゥゥ 「「あ」」 不意に剣治のお腹が鳴り、膝枕をされていた志郎には、当然その音がしっかり聞こえていた。 「あ、えっと……」 何とか言い訳しようとする剣治に、志郎はプッと吹き出す。 剣治の腹部に顔を埋めたまま、懸命に笑いを押し殺す志郎の肩が、プルプルと震える。 「……笑い過ぎだよ」 小さく呟いた剣治は、少しブスッと唇を突き出して、笑い続ける志郎の耳を軽く引っ張った。 「ハハ……悪い悪い。もう昼だもんな」 曇っているからまぶしくはないけれど、いつの間にか真上に行った太陽が、雲間にチラチラ覗いている。 だいぶ楽になった志郎は、軽く勢いを付けて起き上がった。 「もう大丈夫なんですか? 志郎さん」 「おう。剣治の膝枕が効いたな」 軽口を叩いてニッと笑う志郎に、剣治が恥ずかしそうに小さく笑う。 「クスッ。あんな事で良かったら、いつでもしてあげますよ」 フッと鼻で笑った志郎が、両手を組んで上に突き出し、グッと背筋を伸ばす。 「腹へったなぁ。どっかメシ行くか?」 「はい」   ☆  ★  ☆ あぁ、どうしよう。 予知が示すまま学校へと来たは良いが、誰に当たれば良いか―― 焦りに後押しされるまま、取り敢えず、宛も無く校内を駆け回る。 予知に視たのは、大きな蛇とハンマーを持つ男。 蛇……と言えば、理科室だろうか? しかしハンマー――金づちと言えば、工作室の可能性もある。 けれど、蛇とハンマー男が一緒にいた事も、少し気にかかった。 一体、誰を示しているのか…… そもそも、今日は日曜日である。 学校に来ているのは、ほとんどが運動部で―― もしもその人物が来ていなかったら、どうしよう? こうしている間にも、予知で視た惨劇の時は、刻一刻と近付いている。 祈るような気持ちで、学校の隅から隅まで走り回っていた。 そして最後に辿り着いたのは、剣道部や柔道部の練習する小さな道場。 ここで見付けられなければ、もう打つ手が無い。 緊張の面持ちで扉に手を掛けた瞬間―― 「あれ? 門神先輩?」 運命が、味方した。 「こんちは、先輩」 「こんにちは。今日は、吹奏楽部の活動はお休みですか?」 振り返ったそこにいたのはおそらく一年生だろう。 剣道の道着を着た背の低い男と、同じく道着を着て、学校で唯一白い髪に赤い目を持つ男。 血塗られた未来を変えてくれるかも知れない、ハンマーを持つ男と蛇が、二人の背後に重なる。   ☆  ★  ☆ 雨上がりの濡れた道を、二人乗りのバイクが駆け抜ける。 安全運転のためばかりでなく、今そのバイクが走る速度は、いつもよりもゆっくりしていた。 バイクを走らせる志郎の腰に回った腕が、不安げに力を込めてくる。 今、後ろに乗っている剣治の顔は見えないが、きっと不安に顔を曇らせているのだろう。 ――近くのファミレスで昼食を取った後。 「俺の親父、呪(マジナ)いが得意でよ……心理学とかも独学でかじってんだ」 もしかしたら、優人ならば剣治の腕を治せるかも知れない。 確証は無いけれど、もしも腕が動かない原因が、前世にあるとしたら――。 優人の魔法でなんとかできるはずだ。 前世や魔法の事は伏せ、物は試しと、志郎は剣治を誘った。 ワラをも掴む気持ちだったのか、剣治は不安げな顔をしつつも、素直に頷く。 幸い優人に連絡をすると、今日は用事も無いからと、すぐに快諾してくれた。 ――けれど、剣治がチュールの転生である事は、言っていない。 会えばすぐに分かってしまう事だが、会ってもいない内から警戒されて、話も聞いてくれなければ困る。 濡れた道でスピードを落としているからだけでなく、走っている時間がとても長く感じられた。   ☆  ★  ☆   「僕と血の繋がった……狼のような人?」 少し戸惑いながら確認する世流に、門神先輩ははっきりと頷く。 「見た目とは限らないけど……性格とか、誰か思い当たる人はいない?」 いる。 思い当たるどころか、物凄く合致する人がいる。 「……いますが、その人が何か?」 世流が訝しげに首を傾げると、門神先輩は一瞬パアッと顔を明るくして、またすぐ苦しそうに曇らせた。 「門神先輩?」 「……急にこんな事を言われても、信じてもらえないと思うけど」 門神先輩の長い前髪に隠れて、鳶色の瞳が不安げに揺れる。 緊張からか、ゴクリと唾を呑み込み、やっと口を開いた。 「僕は昔から、未来に起こる事を視る時があって……この間……狼が『剣士に首を落とされる』――そんな未来を視た」 世流と徹は同時に息を呑んだ。 「もちろん、本当に首を落とされるとは……」 「それはいつです!?」 必死な世流に詰め寄られ、門神先輩は言葉を詰まらせる。 「命がかかってるかも知んないんだろう!? 早く教えてください!」 徹までが慌てていて、門神先輩の胸ぐらを掴む勢いだ。 予知を信じてもらう事が初めてで、二人の勢いに門神先輩は目を白黒させた。 「門神先輩!」 「先輩、早く!」 二人に呼ばれ、門神先輩はハッと我に返り、首を横に振る。 「正確な日時は、分からない。けど……君達が駆け付けるのが視えたから、おそらく今日――」 「場所は!?」 「場所はどこなんですか!?」 矢継ぎ早の質問に、門神先輩は戸惑う。 「場所は……」 門神先輩は、また首を振った。 抽象的な予知で、場所など分かるはずがない。 けれど、ほとんど初対面に近い二人が、予知を信じてくれた。 二人に応えたい。 門神先輩は静かに目を閉じて、予知で視た未来を強く頭に思い浮かべた。 少しでも、場所の手がかりになる予知を―― 「っ……!」 その時、門神先輩の脳裏に、文字通りひらめいた。 「公園だ! 近くに、大きな銀杏の樹がある……」 不意に門神先輩の体が傾ぎ、その場に座り込む。 「先輩!?」 「どうしました?」 驚いた二人が、傍らに膝をつき、門神先輩の肩を支えた。 「はぁ、はぁ……だ、大丈夫だ……自分から意識して、予知を視たのは初めてで……少しめまいが……」 門神先輩は荒い息を吐きながら、真っ直ぐに二人を見詰める。 「僕の事は良いから、早く行け……! 絶対に、間に合ってくれ……」 しっかりと頷いた世流と徹は、道場内の生徒を呼び出し、門神先輩を任せた。 「ハンマーを忘れるな」 別れる瞬間、門神先輩は徹に言う。 前世の事は覚えていないようだが、おそらくミョルニルの事を言っているのだろう。 徹はしっかりと頷き、世流と一緒に、学校を飛び出した。 鞄などは後で取りにくれば良い。 それよりも志郎の事が心配だ。 間に合ってくれ――   ☆   ★   ☆  

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