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10.最後の審判
一陣の風が吹き、この公園を象徴するような大銀杏が、さらさらと黄色い葉を揺らす。
志郎は腕時計を見た。
そろそろ、父の優人が来るはずだ。
父にどう相談しよう?
剣治に薦めたのは志郎だが、やっぱり、父に治せるのだろうか?
ここまで連れて来ておきながら、剣治を失望させてしまったらどうしよう……
不安を振り払うように、志郎は頭を振った。
余計な事を考えるな。
志郎が心配していては、当の剣治まで不安にさせてしまう。
志郎は元気付けるように剣治の左手を握り、優人が来るのを待っていた。
それから待つ事、数分後――
公園の入口に来た優人が、志郎の姿を見付けて軽く手を振る。
志郎も少し手を上げて返した。
「先に、少し親父と話してくっから。もうちょい待ってろな」
剣治にそう言いおいて、志郎は先に優人の所へ駆け寄る。
剣治が覚えていない前世の事を、まずは優人に話しておきたい。
『見付けた……』
志郎の背中を見送っていた剣治は、不意にハッと息を呑んだ。
なぜか異様に胸がドキドキとして、次第に呼吸が苦しくなり、意識が遠くなって行く。
「し……ろ……」
急にビクッと反応した志郎は、とっさに剣治を振り返った。
それと同時に、熱い炎のような神力が爆発し、剣治を中心に激しく渦巻く。
「剣治!」
志郎が呼び掛けても、返事は返って来ない。
とっさに駆け寄ろうとすると、どこからか飛んで来た二本の鎖が、志郎と優人を拘束する。
鎖が一連に繋がったとたん、とんでもない重みに優人の体が沈む。
鍛えている志郎さえ、その重圧に膝をつく。
「この鎖は……まさか、ドミロ!?」
志郎を拘束する鎖から、かつてフェンリルが引きちぎった鎖、ドミロと同じ神気を感じた。
おそらく優人を拘束する鎖も、前世でフェンリルが最初に引きちぎった鎖、レージングだろう。
「剣治!」
志郎は渦巻く神力の中心を振り仰ぐ。
半分閉じた瞳は光を失い、彼の黒い髪が赤く変わっている。
どこかぼんやりとしていて、剣治の意識はどこにも感じられない。
「剣治! しっかりしろ、剣治!」
志郎が叫んでいると、不意にどこからか、蔑(サゲス)むような下卑た笑い声が響き渡った。
『ついに見付けたぞ。憎きロキの転生と、我ら小人族をコケにした魔狼!』
志郎と優人は声の主を探して、鋭い視線を巡らせるが、その姿はどこにも見えない。
おそらくどこかに隠れているのだろうが……
志郎はギリリと奥歯を噛み締める。
「姿を現せ、卑怯者!」
「アースガルドで最も硬い鎖まで使って、僕達を拘束しておきながら、自分は高見の見物か? 小人族のブロック!」
姿の見えない敵は、悔しそうな呻き声を漏らす。
名前は『ブロック』で間違いないらしい。
「どうした、ブロック? 悔しいなら、出て来たらどうだい?」
優人が挑発する。
拘束されて動けないのに、よくもそんな余裕があると、志郎は我が父ながら感心してしまった。
『黙れ、黙れ! この減らず口が!』
ブロックの声が息巻き、地団駄(ジダンダ)を踏む気配はするが、姿を見せる様子は無い。
『この時のために、前々からずっと準備を進めて来たのだ。お前の企みには、乗らんぞ!』
「剣治に悪夢を見せていたのも貴様か!」
志郎はどことも分からない虚空を睨む。
『そうよ。お前に制裁を与えるために、あのお方が力を貸してくださった!』
この声の主ブロックが、剣治に悪夢を見せ、ずっと剣治を苦しめていた。
『あのお方の力で、この男に前世の恨みと恐怖を思い出させてやったのだ!』
コイツのせいで、剣治は――
怒りで腸(ハラワタ)が煮え繰り返り、志郎は獣のような唸り声を発して、自分の体を拘束する鎖をガチャガチャと震わせる。
「貴様だけは許さねぇ」
『ほざけ! お前が前世で犯した罪、その身で思い知るが良い!』
ブロックの叫びと共に、剣治の周りで渦巻いていた神力が、さらに力を増していく。
志郎は顔色を変えた。
前世の事を覚えていなかった剣治が、急に神力を操れるはずがない。
おそらくブロックに操られて、無理やり力を引き出されているのだろう。
このままでは、剣治の身が危ない。
「やめろ!! ――剣治を巻き込むな!」
『もう遅い!』
剣治が左手を軽く前に突き出す。
「ツルギヨ……」
剣治が小さく呟くと、前に伸ばした左手の中に抜き身の剣が出現した。
柄(ツカ)をしっかりと握った剣治が、風で切れ味を確かめるように剣を一振りし、左手一本で構える。
「……テキ……ヲ……キル……」
感情の表れない剣治の言葉に、志郎はハッと息を呑んだ。
このままでは、父の優人まで――
「やめろっ!! 俺が憎いなら、俺を殺せ!」
「志郎!」
聞き咎めようとする優人を振り返り、志郎は静かに首を振る。
「父上は手を出さないでくれ。――前世の事とは言え、俺は恨まれても仕方のない事をした」
前に向き直った志郎は、真っ直ぐに剣治を――チュールを見詰めた。
「俺を殺して気が済むのなら、俺はお前に殺されても構わない。けど――」
一度言葉を切った志郎は、強い意識を持って剣治を睨み付け、はっきりと言い放つ。
「けど! 俺を殺すなら、お前の意志で殺せ!」
剣の切っ先がわずかに揺れた。
「……オレ、ノ……イシ……?」
「そうだ。操られてるお前なんか……チュールでも、剣治でもない!」
剣治の瞳が揺れる。
「俺の知ってる剣治は、どんな事があっても、自分の足で立てる男だ。自分を見失うな! 正気に戻ってくれ、剣治!」
「し……ろ……」
剣治の声が震える。
操りの効果が弱まってきたのか、構えていた剣先も、少しずつ下がっていく。
しかしブロックの声が、それを許さない。
『何をしてるんだ! 早くロキと魔狼を切れ!』
力の抜けかけていた剣治の手が、カチャリと剣を握り直す。
「剣治!」
もう志郎の声が聞こえないのか、剣治は罪人の首を切り落とす断罪者のように、ゆっくりと歩き出した。
志郎の前で止まった剣治が、感情の見えない顔で志郎を見下ろす。
「剣治……」
経緯は気に入らないが、チュールに断罪されるのなら――
最後まで守ってやれなかった事を、心の中で剣治に謝りつつ、志郎は静かに目を閉じた。
断罪の剣が、静かに振り上げられる。
優人は息を呑んだ。
「ダメ……だ……」
絞り出すような声が、剣治の口から漏れた。
ハッと志郎が顔を上げると、無表情だった剣治の顔が苦しげに歪み、掲げられた剣がガチャガチャと震えている。
「剣治……?」
志郎の静かな呟きに、剣治の瞳が揺れた。
「フェンリルは……志郎は傷付けさせない!」
剣治が叫んだその時――
剣治の右腕が弾かれたように動き、剣を握る左手を捕まえた。
今までずっと動かなかった剣治の右手が、志郎を切ろうとする左手を押さえ付け、ブルブルと震える。
『何をしてるんだ! 早くそいつらを切れ。――魔狼に喰われた、右腕の恨みを晴らせ!!』
「恨んでなんかいない!!」
剣治が絶叫した。
「チュールは、フェンリルを恨んでなんかいない! チュールはずっと……仕方なかったとは言え、フェンリルを裏切った事を悲しんでいた」
思わず息を呑んだ志郎は、自分の耳を疑い、剣治を凝視する。
チュールは、フェンリルを恨んでいなかった。
その言葉だけで、罪の意識が消える訳ではないが、志郎の心は安らいだ。
もう……思い残す事は何も無い。
『世迷い言を言うな! いいから早く切れ!』
ブロックの命令と同時に、剣治に向けられる神力が急に強くなった。
剣治が苦痛に呻く。
「剣治!」
神力に抵抗しきれないのか、剣治の腕が、ゆっくりと剣を持ち上げる。
けれど、一線に踏みとどまる剣治の意志が、剣を振り下ろさせない。
まだちゃんと覚醒していない、ただの人間である剣治が、神力に抵抗するのは凄まじい苦しみだろうに。
このままでは、剣治の心が壊れてしまうのでは――
「やめろ、剣治っ! もういい! 俺を切れ!」
「嫌だ!」
剣治の右手が、無理やり剣を逆手に握らせる。
「剣治……何を……」
驚愕で固まる志郎に、剣治がうっすらと微笑む。
「ごめん、志郎……けど、志郎を傷付けるくらいなら、僕は――!」
剣治がフラフラと後ろに下がり、志郎から離れる。
志郎から反れた剣の切っ先は、剣治の首を狙う。
目を見開く志郎が、声の限りに悲鳴を上げた。
「やめろぉぉぉおおおおっっっ!!」
爆発的に放出された志郎の神力が、神の鎖を引きちぎる。
けれど、剣治の首を貫こうとする切っ先を止められない。
「ごめんね、志郎……」
――手が届かない。
「剣治ぃいいっっっ!」
その時。
高速で飛ぶ何かが、絶叫する志郎の手を追い越す。
そして切っ先が喉に触れる寸前、剣治の手から剣を弾き飛ばした。
突然、何があったのか分からない剣治は、呆然として動かない。
志郎は全力で剣治の頬を殴った。
まともに拳を受けた剣治は、反動で体が浮き上がり、なすすべもなく倒れ落ちる。
「兄さん!」
「志郎!」
丁度そこに、世流と徹が駆け付けた。
先ほど飛んで来て、剣治の剣を弾き飛ばしたのは、徹の持つ武器、ミョルニルハンマーだったらしい。
けれど、今はそんな事、どうでも良い!
志郎は容赦なく剣治の襟元を掴み、その上体を引き起こした。
「この馬鹿野郎! なんでお前は、自分を傷付けようとするんだ」
「志郎……」
悔しそうに唇を噛んだ志郎は、熱い目元を隠すように剣治の肩に押し当てる。
「俺は――チュールにも、剣治にも、傷付いて欲しくないのに……!」
喉が裂けるような志郎の叫びに、剣治は熱い涙を流した。
「ごめん、志郎……」
志郎を抱き締めようとした剣治の手は、しかし、触れる事もできずに震えた。
「クゥ……しろ……逃げ、ウゥッ……!」
「剣治!?」
志郎が顔を上げると、剣治の表情が苦痛に歪み、ギリリッと歯を噛み締めている。
操りの力が、また剣治を支配しようとしているのだろう。
持ち上げられた剣治の左手に、万年筆のように小さな短剣が握られる。
志郎を狙ってブルブル震える左手を、剣治の右手が必死に押さえ込んだ。
苦痛に歪む顔と、その短剣のサイズが、剣治の疲労を表しているようで――
「……もう、いい」
穏やかな顔をした志郎が、優しく剣治の手を握り、自分の首筋に導く。
「兄さん!」
「志郎! お前、何やってんだよ!」
志郎の行動を見咎める世流と徹に、一度だけ振り返った。
「悪いな、世流。徹。……止めないでくれ」
そして最後に、志郎は剣治に向き直り、優しくにっこりと笑う。
「俺の命なんか、くれてやる。……だから、もう苦しまないでくれ」
剣治は必死に首を振る。
「やめ、て……いっ、嫌だ……!」
志郎は少し困った顔で笑いながら、それでもゆっくりと剣治の手を引き、短剣を自分の首に持って行く。
刃が皮膚に触れる寸前、志郎は静かに目を閉じた。
剣治が悲鳴を上げる。
「しろおおおおぉぉぉッ!!」
その瞬間、剣治の神力が爆発した。
志郎の手が止まる。
「剣治……?」
志郎が目を開けて見ると、ブロックに操られていた時とは比べ物にならない力が放出され、剣治の髪を逆立てた。
その姿はまさしく――
「チュール……」
不意に、あれほど渦巻いていた神力が収まった。
ハッと気付いた志郎が、剣治の手を放し、自分の首筋に触れる。
皮膚が少し切れて、血はにじんでいるが、大事にはいたらない。
剣治の手に握られていた短剣も、いつの間にか消えていた。
チュールが――剣治がにっこりと微笑む。
志郎は信じられない思いで、剣治を見詰めた。
「心配をかけて、ごめん。志郎……」
剣治が志郎の首筋に顔を寄せ、傷口をペロペロと優しく舐める。
これは夢か幻だろうか?
しかし、少しピリピリと痛む傷が、これは現実だと告げている。
「僕はまた、フェンリルを……志郎を傷付けてしまったね……」
剣治が傷に触れながら、悲しげに目を細める。
間違いない。
「剣治……まさか、チュールの記憶が……」
戸惑いつつ問いかける志郎に、剣治は穏やかな微笑みを浮かべ、静かに頷く。
「僕は、もう二度と志郎を傷付けない。だから」
剣治の手が志郎の首筋に触れる。
「もう……自分から傷付くのは、やめてくれ……」
「剣治……」
おそるおそる剣治の頬に触れた志郎は、しっかりとその体を抱き締めた。
剣治も力強く、志郎を抱き返す。
その後ろで、優人が「アツッ……」と声を漏らし、世流と徹から「静かに!」と注意されていても、今の志郎には関係無い。
やっと、剣治を取り戻せたのだから。
剣治が無事ならば、それで良い。
しかし、喜んでばかりもいられなかった。
「ッ! 伏せろ!」
急にハッとした志郎が、とっさに剣治を突飛ばす。
同時に、絹糸のように細い鎖が飛んで来た。
見た目は柔らかそうな鎖が、生き物のように志郎の体を走り、瞬く間に全身を拘束して行く。
「ぎゃああああぁぁぁぁぁ!!」
志郎は絶叫した。
突然の事に、全員が息を呑む。
「うっ、ぐ……がぁ、あぁ……」
志郎は苦痛に目を見開き、閉じる事を忘れた口が声にならない呻きを漏らす。
「志郎!?」
「来るな……! うっ、ぐぅう………」
絞り出すような上擦った声で、志郎は剣治を拒む。
すると同時に、志郎の頭に白い尖った耳が浮かび上がった。
魔法の鎖グレイプニルの魔力に反応した、フェンリルの神力が、幻となって顕現したのだ。
その神力が無ければ、すぐにでも志郎は命を落としていただろう。
しかし、いくら神力を持っていようと、志郎はただの人間だ。
それは優人をはじめ、他の誰でも同じ事。
うかつに手を出せば、命に関わる。
それ以上に、鎖から放出する魔力が、他者が近付く事を拒む。
しかしこの拘束が長引けば、志郎はいずれ――
「くぅっ……!」
志郎の膝が崩れ落ち、獣のような四つん這いになって、やっと体を支える。
その四肢が小刻みに震え、頭上に現れていた耳も、消えてしまった。
「志郎!」
悲痛な声を上げた剣治が、とっさに志郎の側に駆け寄り、その体に絡み付く鎖を掴む。
妨害を拒む魔力がその手を赤く焼き、剣治は痛みに顔を歪めた。
「やめ……ろ……手……放せ……!」
「んく……い、嫌だっ! 絶対……助け、る……から……」
鎖を掴む剣治の手から煙が出始め、肉の焦げるような臭いが、志郎の鼻にまとわりつく。
それでも剣治は絶対に手を放さず、なんとかして鎖を外そうと、必死に引っ張った。
「くぅ、うぅ……んうっ……!」
「剣治……!」
志郎は朦朧(モウロウ)とし始めた意識の中、ゆっくりと肘を曲げ、頭を低くする。
そして渾身の力を振り絞り、肩で剣治を突飛ばす。
「うわっ!」
操りの魔法から解放されたばかりで、疲労しきっていた剣治は、突然の事になすすべもなく鎖から手を放してしまう。
剣治が尻餅をつくのと同時に、体中の力を使い果たした志郎も、突飛ばした体勢のまま倒れた。
もう、目を開けている気力も無い。
「志郎!」
「兄さん!」
優人と世流が声を上げ、ブロックは甲高い声音で笑った。
『これでもう、魔狼を恐れる事はない! やはり、我ら小人の作る物は最高なのだ!』
ブロックの高笑いが、暗い空に響き渡る。
優人はブリージングの鎖から逃れようともがき、徹が引きちぎろうとするが、鎖はびくともしない。
「クソォ……」
優人はうなだれた。
真っ暗に曇った空で、雷がゴロゴロと唸る。
不意に優人はハッと顔を上げた。
「この神力は、まさか――っ!」
ゴロゴロゴロ、ピッシャアアアアァァァン!!
突然、天上から飛来した雷が、横たわる志郎の上に落ちた。
「シロオオオォォォ!」
剣治が悲鳴を上げる。
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