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エピローグ

痛いほど激しく降る大粒の雨の中。 志郎は雨宿りする積もりも無く、ずぶ濡れになったまま、濡れて霧けぶる町並みを眺めていた。 『凄く、綺麗だ……』 この秘密の場所に剣治を連れて来た時の言葉が、今もまだ耳に残っている。 あの日、まだ雨が降る前に、剣治と交わした会話が、忘れられない。 『天気が良ければ、もっと綺麗なんだけどな。……俺の秘密の場所なんだ』 『そうなんですか? 晴れた日も来てみたいです』 志郎は唇を噛み締める。 守ると決めたのに―― 巻き込まないために、剣治との繋がりを絶ったのは、自分なのに―― 剣治は、もうあの日の事を覚えていない。 消したのは志郎だ。 後悔はしていない。 前世で腕を食いちぎってしまったチュールに、償う意味も含めて、これで良かったのだ。 それなのに―― すがっても虚しいだけだと、分かっているのに―― 剣治の姿が、声が、頭から離れない。 後ろの方で、ガサガサと音がする。 こんな雨の日に、ここへ来る者などいないから、風の音だろう。 志郎はため息をついた。 雨に濡れながら、自分は何をしているのだろう。 「志郎!」 耳に飛び込んで来た声に、志郎は息が止まりそうになった。 彼が、こんな所にいるはず無い。 彼の記憶は消したのだ。 「志郎!」 声が近付いて来る。 志郎はおそるおそる振り返った。 「けん……じ……?」 息が詰まって、うまく言葉にならない。 どうしてここに来た? 都合の良い幻を見ているのか? そこにいるはずの無い剣治は、泥と雨に濡れた背広を着て、肩で息を弾ませている。 これが幻? 剣治が真っ直ぐに志郎を見詰める。 「やっと見付けた……」 いや、あの力強く芯の通った眼差しが、幻であるはずは無い。 「どう……して……」 「忘れたくなかったんだ。どうしても」 剣治が、ゆっくりと志郎に近付いて来る。 息を詰めた志郎は、体を緊張させた。 「くっ、来るな……!」 三メートルと離れていない所で、剣治の足がピタッと止まる。 「志郎……」 「頼む……こっちに来ないでくれ……」 剣治の目から逃れるように、志郎は腕を上げ、顔を隠したまま背けた。 今さら、どんな顔で会えば良いのか分からない。 「志郎……前世の僕を――チュールを、許さなくても良い」 志郎はハッと息を呑み、おそるおそる剣治を振り返った。 「僕は――チュールはフェンリルを裏切った。右腕は当然の対価だ。むしろ安過ぎるくらいだよ」 志郎は目を見開く。 チュールへの罪悪感を、見抜かれている? 剣治は優しく微笑んだ。   ☆  ★  ☆ 『もう志郎には会わないでくれ』 ロキに――優人にそう言われた剣治は、一瞬言葉を失った。 優人は続ける。 『君の存在は、志郎を苦しめる。だからもう、志郎に会わないでくれ』 速度を落としたバスが、停留所に入って行く。 雷とともに降り始めた雨が顔に当たり、剣治はハッと我に返った。 「ど……どうして! どうして僕がいると、志郎が苦しむんだ!」 『志郎が、チュールを好きだったからだよ』 剣治は言葉を失った。 志郎が――チュールを好きだった? ずっと、裏切ってしまった事を、恨んでいると思っていたのに―― 思考が停止してしまい、どしゃ降りの雨音すら、剣治の耳には入らない。 『すぐに家族と引き離されたフェンリルにとって、チュールはたった一人の家族だった』 優人の言葉に、剣治はハッと思い出す。 『昔、少し荒れてた俺は、一時的に両親と引き離されたんだ』 志郎が子供の時の話だと思っていた。 『――似てるんだよ。あんたが――俺の、一番大切だった人に』 似ているはずだ。 剣治とチュールは――魂が同じなのだから。 『手の付けられない暴れ者だった俺を、その人だけが怖がらず、俺と対等に接してくれた』 志郎の言っていた『その人』とは、チュールの事だったのだ。 『……俺も、その人だけは、大好きだった』 家族のように、好意を持ってくれていたフェンリルを、チュールは―― 剣治はいつの間にか、涙を流していた。 どうしよう…… どうすれば、フェンリルに――志郎に償える? 進み出す気力を無くした剣治は、その場に膝をついてしまった。 償う方法が分からない。 電話口から、優人の声が淡々と響く。 『もし、志郎に会わないと言うのなら、もう一度君の記憶を消してあげよう。……志郎も、それを望んでいる』 志郎の望み…… その言葉に、剣治の心はグラついた。 それが志郎の望みならば、叶えた方が良いのかも知れない。 志郎のために、志郎を忘れる…… それで本当に良いのか? 胸がズキズキと痛み、剣治はYシャツの胸元を握り締める。 忘れたくない。 けど―― 『あ、そうだ』 不意に優人の声が言う。 『剣治君の記憶を消したら、ついでに志郎の記憶も消してしまおう』 その言葉に、剣治はハッと息を呑んだ。 志郎が――剣治の事を忘れる? 『大切な人を傷付けた記憶なんて、あっても辛いだけだからね。無くなってしまった方が、二人とも楽で良いだろう?』 無くなってしまった方が楽―― その言葉に、剣治は引っ掛かりを覚えた。 確かに、剣治の――チュールの事を忘れてしまえば、志郎は楽になるだろう。 けれど剣治は? 剣治も忘れてしまったら、チュールの犯した罪を、誰が償う? 償いもしないまま、志郎の事も忘れてしまうのか? 『……死んだよ。……俺のせいで』 志郎の――フェンリルのせいなんかじゃない。 それなのに志郎は、前世の自分を責めて、今まで背負ってきたのに―― 「……忘れて良いはずが無い」 目に力が戻った剣治は、立ち上がるのももどかしく、弾けるように走り出す。 そして、今にも発車しようとしていたバスの前で、大きく手を振った。 「乗ります!」 ギリギリでバスに乗り込んだ剣治は、空いているバスの奥へ向かい、吊り輪を掴んだ。 服が濡れているのに、座席を汚す訳にはいかない。 ゆっくりと息を吐き出し、剣治は繋がったままの携帯に耳を当てる。 「ロキ……いいえ、志郎のお父さん。申し訳ありませんが、僕は志郎を忘れる積もりはありません」 『………それで?』 優人の声音が、氷のように冷たい。 剣治は気圧されそうになる喉を叱咤して、深く息を吸い込み、言葉を続ける。 「元々、フェンリルを裏切ってしまったのは、僕なんです。僕は自分の罪を、償わなければいけません。それに――」 剣治は、優人が目の前にいるように前を見詰め、挑むように言い放つ。 「僕は、何があっても、志郎を忘れたくない!」 ほんの短い間でも、志郎の事を知る度に、剣治の心は惹かれていった。 「例え、志郎が僕にしてくれた優しさが、チュールへの償いだったとしても……前世なんか関係ありません!」 志郎に抱かれたあの日、剣治は自覚したのだ。 「僕は志郎が好きです。心の底から、愛しているんです」 『はい、合格~♪』 急に明るい声を出した優人が、電話越しにパチパチパチパチっと、盛大に拍手をする。 剣治は面食らった。 「え……?」 『いや~剣治君が志郎を好きになってくれて、本当に良かった』 さんざん『もう志郎に会うな』と言っていたのに、剣治が志郎を好きだと言ったら『良かった』? 「えっと、ロキ……じゃなくて、優人さん……?」 『はいはい?』 「その……良いんですか? これから志郎に、会いに行っても……」 剣治がおずおずとお伺いを立てたら、優人は電話の向こうで大笑いした。 『良いも何も、君は僕が止めても聞かないだろう? 志郎を忘れたくないなら、志郎を説得するんだね』 「……あなたは、何を考えているんですか?」 優人の考えが、計りきれない。 『もちろん、志郎の幸せだよ』 ――優人が言うと、なぜか嘘臭い。 『いいかい? 志郎は今、チュールへの罪悪感という『見えない鎖』で縛られている。その鎖を解く事ができるのは、剣治君だけだろうね』 剣治は表情を引き締め、静かに頷いた。 どこまで本気か分からないが、言っている事に間違いはない。 『剣治君は今『前世は関係ない』と言ったね。なら、それを証明しておくれ』 「分かりました」 剣治は頷く。 『志郎の事……よろしく頼むよ』 優人の声が今、本当に父親らしい、優しく力強い響きだった。 「はい」 そして力強く頷いた剣治は、今志郎の前に対峙している。 「僕は――チュールは、フェンリルを裏切ってしまった。チュールの右腕は、当然の代償だよ。だから、痛み分けにしよう?」 「痛み……分け……」 志郎がゆっくりと言葉を噛み締め、呑み込み切れない顔でうつむく。 志郎は何年も、前世の自分が、チュールを傷付けたと思っていたのだ。 フェンリルは悪くないと、いくら剣治が言っても、なかなか受け入れられないだろう。 「志郎……僕の言葉を聞いてくれ」 「剣治……」 剣治は真っ直ぐに志郎を見詰める。 「志郎……僕は志郎が好きなんだ。前世は関係無く、志郎だから好き」 志郎は目を見開いた。 「な……ん……」 「もしも志郎が、チュールへの罪悪感で僕を助けてくれたんだとしても――僕はこれからも、志郎と一緒にいたい」 剣治の言葉が信じられないのか、志郎は戸惑った顔で目線を迷わせ、片手で口元を隠す。 剣治は微笑みを浮かべ、ゆっくりと志郎の前に歩み寄る。 まだ迷いの残る志郎が、揺れる瞳で剣治を見た。 「愛してるよ、志郎……だから、フェンリルとチュールのわだかまりは、もう終わりにしよう? 僕も志郎も生まれ変わって、こうして会えたんだから」 うつむいた志郎は、一度、ゆっくりと目を閉じる。 剣治の言葉が志郎の胸中に浸透し、今までずっとわだかまっていた物が、ゆっくりと融解していく。 少しぎこちない微笑みを浮かべた志郎は、どこかイタズラっ子のような顔で剣治を見た。 「男同士だぞ? 意外と物好きだったんだな?」 剣治は一瞬、戸惑った顔をする。 「そう言えば――そう、だね」 必死に平常心を装いながらも、隠しきれない動揺に剣治の目が泳ぐ。 「えっと……志郎は嫌……なの?」 「まさか!」 志郎が苦笑する。 「俺も、けっこう物好きだよ……けど、欲張りでもある」 「欲張り?」 「欲しい物……がある」 どこか照れた顔をする志郎に、剣治は必死に取りすがった。 「欲しい物って何だい? 志郎の欲しい物で、僕のあげられる物なら、何でもあげる。だから――」 「全部だ」 なおも言い募ろうとした剣治を遮り、志郎が泣きそうな、けれど嬉しそうな顔で微笑む。 志郎のその目に、迷いは消えた。 「俺は、お前の全てが欲しい。腕も足も、身体も声も……剣治の全部。――俺の側にいてくれ」 剣治は晴れやかな顔で微笑み、しっかりと頷く。 「良いよ。全部あげる。僕の心も全て――最初から、志郎の物だから」 何も言えずに黙って頷いた志郎は、その存在を確かめるように、恐る恐ると剣治を抱き締めた。 それを受け止める剣治も、志郎の背中に手を伸ばし、宥めるように優しくその背を撫でる。 「剣治……好きだ。この世界の誰より、愛してる」 「僕も……志郎を愛しているよ」 やっと鎖が解けた。 感極まった志郎は、静かに涙を流し、剣治の肩に額を押し付ける。 志郎のかすかな嗚咽が耳に伝わり、剣治はそっと静かに、空を見上げた。 あれほど降り続いていた雨空から、地上に光が射し込んでいる。 まだ薄雲は少し残っている物の、志郎が泣き止む頃には、それもすぐに晴れ渡るだろう。 剣治は強くしっかりと、志郎を抱き締めた。 やっと繋がり合えた心を、遠く時を超えて取り戻せたぬくもりを、二度と手放しはしない。 ……END.

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