9 / 14

第9話

「……ん?」  そんな風にどうにも気分が落ち込んだ状態で会社を出てすぐ。  数段しかない低い階段の端に座り込み、その横の壁に寄りかかって寝ている無防備な影を見つけてため息が洩れた。  てっきり怒って帰ったかと思ったのに、こんな所にいたとは。 「……こんなとこで寝てると、風邪引くぞー」 「お、わ?」  近付き、鞄の角でつついてやるとその体が揺れた。  遅くなると俺が言ったから、その時間までバカ正直にここで待っていたのか。  寝起きの日野はしばし現状把握ができなかったようで、きょろきょろと辺りを見回してからすぐに俺を見つけて。 「卯月さん、終わったんすか?」  まるで飼い主を迎えにきた犬のように俺を嬉しそうに見つめながら立ち上がる日野。……普段がむすっとして恐く見えるのを考えると、ドーベルマンかな。 「まだいたんだ」 「ここで待ってればいつかは来るだろうし」  正直、今まで断り続けていたのがほとんど嘘だったと言うことがバレたというのに、変わらない日野の態度に、気まずい思いをしなくてほっとした部分もある。だけどこの場合、すべての行動を加味すると、熱心だなぁと苦く笑うのが一番合っている気がするわけで。 「なんか食いに行く?」 「それより俺、卯月さんを絶対に連れて行きたい場所があるんです。行ってくれます?」 「それで待ってたわけ?」 「はい」  せめて飯くらいはおごるよ、と歩き出そうとした俺の腕を掴んで、日野が期待で輝かせた瞳を向けてきた。  偶然を装うこともなく、真っ正直にくたびれるまでこんな所で待ってるなんて、愛情表現があまりにもストレートすぎるだろう。世渡りが上手いのか下手なのかわからない。  そしてでかい負い目のある俺に、その誘いを断る選択肢は当然ない。それをわかって誘っているなら、残念ながら日野の方が上手だ。 「わかったわかった。今まで断ってきた分、言うこと聞くよ」 「……素直な卯月さんも可愛いっすね」  降参、と両手を上げて白旗を振る俺に、日野がぼそりと洩らすものだから心底呆れてしまった。 「お前ねぇ、男に向かって可愛いってのは褒め言葉じゃないんだからな?」 「いや、卯月さんは可愛いですし、褒め言葉ですよ」 「嬉しくないよ」 「でも本音だし本当です」  変なところ頑固な日野はまったく譲らず、「可愛いって言われて喜ばない卯月さんも可愛い」とまで言われたらこれ以上返す言葉はない。  年齢、身長、体格に性格。どこをとっても、俺が日野に可愛いと言われる要素は見当たらないけれど、きっとこいつは独特の感性の持ち主なんだろう。  そう無理矢理納得して、俺は日野の後をついて歩き始めた。  明るく誘う飯屋を通り過ぎ、怪しい建物にも近寄らず駅へ向かった日野に連れられるがまま電車に乗り、何駅か行った所で下りる。俺の最寄り駅でもなければあの日迷った日野の家のある駅でもない。いったいどこへ連れていかれるんだろう。  謎の駅からまたしばらく歩けば、街灯も寂しくなり、辺りが静かになってきた。足取りに迷いはないから、慣れた場所なのかもしれない。  いきなり暗がりに連れ込まれたらどうしよう、と何度か乙女な心配が頭の中をよぎったけれど、そのたび長身に育ててくれた両親に感謝して何度か軽く鞄を素ぶりしておいた。酔っ払っている時ならまだしも、いざとなったら走って逃げるくらいはできるだろう。  ただ身長は俺の方が数センチ高いものの日野だって低いわけではなく、体格は日野の方がいい。しかも若い。完全に俺の方が分が悪いことは心しておかないと。  そんなことを考えつつひたすら歩いていたら、日野がここです、と示したのは本気で明かりのなくなった山道だった。とは言っても住宅街にあるものだからそう大きい山ではなく、大きな丘という程度だとは思う。  それにしたって、なんだってこんな夜にこんな真っ暗な所に行かなきゃいけないんだ。さっきからまったく人通りもないし、その上人目にもつかない暗い夜道に入るなんて、本気で襲われに行くようなものじゃないか。 「あ、卯月さんって体力に自信あります?」 「は?」 「ちょっと登るんで。無理そうだったらやめときますけど」 「いけるいける。全然いける。営業マンの体力ナメんなよ」 「じゃあ段差気を付けてください。危なかったら手引くんで」  正直仕事終わりで疲れはしていたけれど、か弱い乙女みたいな扱いをされて黙っていたら男がすたる。  こうなりゃ意地だと自分を奮い立たせて、日野の後を追って申し訳程度に舗装された階段を上り始めた。  丘の上の隠れ家的ラブホテルがないことを祈りながら。

ともだちにシェアしよう!