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第3話

事務員の崎はいつの間にか事務室に戻って電話の対応に追われている。取り残されたのは床に膝をつく矢千と、その前で仁王立ちする青年だけだ。 「あちゃー……高科さん、週末まで出張じゃありませんでしたっけ」 「こっちで急用が入ったから代理に任せて帰ってきたんだ。それよりさっきは何をしようと?」 「えぇ。今の方はちょっと、こう……精神が不安定なお客様だったんです。一旦落ち着いてもらおうと思って言葉を選んでいたら、突然高科さんが俺の頭をはたいてきたんです」 不満げに答えて乱れた髪を整える。高科と呼ばれた青年は含みのある笑みでその場に屈み、矢千の顎を掴んだ。 「一日二日構ってやらないだけで欲求不満か。発情期のワンちゃんは目が離せなくて本当に困るよ」 「え、犬? どこに?」 もちろんそれが“誰”のことを指しているのか分かっていたが、わざとらしく周りを見る。その瞬間に唇を強引に奪われた。塞がれるだけではなく、中に柔らかい舌が侵入してくる。躾のなってないペットに仕置きするような強引っぷりだ。 ようやく離されたものの、宙に光る糸を引いてしまった。 それを見せつけるように高科は自身の口元を指で拭う。たったそれだけのことに、顔から火が出そうなほどの羞恥心に襲われた。高科の顔は絶対的な自信と確信に満ちている。結局こうして欲しかったんだろう、と暗に言っているような表情だ。それが悔しいし、惨めさが一層増す。 「仕事が終わったら俺の部屋に来るように」 高科はさっと立ち上がると、未だ床に座り込んでいる矢千を置いてさっさと奥の部屋に行ってしまった。 こんな姿を見られたら何があったのだと質問攻めに合う。慌てて上体を起こし、膝についた埃を手で払った。また、キスされた拍子に長椅子に打ち付けた背中を軽くさする。 滑稽だ。悩みを抱えて泣きながら飛び込んでくる客より、自分の方がよっぽど惨めで醜いかもしれない。拳を握り、独りため息をついた。 『へぇー、その歳で一度も経験ないの?』 昼休憩中に見たドラマの何気ないワンシーンに目を奪われた。役者の言葉は柔らかいケーキにフォークを刺すようなノリだったが、確実に矢千の心の深いところをぐりぐりと抉った。脳内映像では既に大量の血が噴き出し、紅い海をつくりだしている。 恋愛や性交の経験がない者を嘲笑する言葉はフィクションであっても痛手だ。深刻に受け止めてへこんでしまう。 世の中は残酷だ。同情されたり驚かれるだけならいいが、臆病だと呆れられたり、そんなに貞操が大事なのかと揶揄されることもある。 しかしほとんどの者がそんなつもりはないだろう。“たまたま”なのだ。たまたま、好きな人と巡り会わなかっただけ。ここへやってくる相談者達の話を聞くと、それ以外考えられなかった。 「矢千、お腹空いてない?」 時計の針は夜の二十一時半を回っていた。事務所の営業自体は二十時に終了するが、一日の報告書を作成しているといつもこの時間になる。 まだこの会社の正確な支給額が分からない。来月が記念すべき初給料だ。 支払うのは社長だが、ボーナス等の査定をするのは直属の上司、ここの所長。今目の前にいる青年、[[rb:高科要 > たかしなかなめ]]だ。 端正な顔立ちで見た目は繊細そうだが、中身はブルドーザーのような荒々しさも秘めている。 「腹は減ってません。さっき真っ赤なカップラーメン食べながら仕事してたんで」 「またインスタントか。栄養失調になりそうで心配だな」 小声で呟くと、高科は苦笑して矢千の腕を引いた。扉の前で立ち尽くしていた彼を奥のソファに寝かせ、柔らかい髪を手ぐしで梳かす。 「仕事はどう。慣れた?」 「狂ったお客様に引っぱたかれたり、髪を掴まれる以外は天国です。あ、あと上司のセクハラを除いて」 二人は無言で見つめ合った。もう職員は退勤し、社内は静まり返っている。二人が所在する所長室だけが明るく照らされ、テレビの音で賑やかな空間をつくっていた。 先に会話の沈黙を破ったのは高科だった。 「でも、やっぱり向いてるんだね。君が対応した客は皆大満足で帰ってる。勇気を出して来て良かった、次も矢千さんに話を聴いてもらいたい。ってね」 ソファに寝転がる矢千の隣に腰掛け、高科はネクタイを緩める。 「恋愛コンサルタントじゃなくて、これからも肩書きはカウンセラーでいこうか」 「男性専門の、ですよね。LGBTQに特化した資格とかあるんですか? もしあるなら、俺って犯罪者じゃありません?」 「大丈夫。持ってないのに所有者だと偽って働かせてる会社はたくさん知ってる」 矢千は内心舌を出した。合法的に、と言ったのはどこの誰だか。極めて悪質である。経営側に回る人間は金儲けさえできれば良いのか。 喉元まで出かかったが、多少の不満はコーヒーと一緒に飲み込む。矢千は高科に借りがあった。ひとつは、現代でも特殊な同性専門コンサルタントとして雇ってもらっていること。もうひとつは身の回りの生活費全般を高科が引き受け、このオフィスで寝泊まりしてよい、という権利を与えられていること。 矢千は高科に徹底的に私生活を管理され、外出すら彼の了承を得ないといけない。そんな缶詰め状態でも、インドアな矢千はそれほど苦ではなかった。おまけに三食昼寝付きとくれば、こんな高待遇の就職先はない。 高科は自分の家があるにも関わらず、矢千と同じでよくこのオフィスに寝泊まりしている。仕事を家に持ち帰るのが嫌なのかもしれないが、仕事一筋の人間に違いなかった。

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