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第6話

『深月』 最近は夢をよく見る。 青々とした空、暖かい陽だまりの中で、自分の手を引く黒い残像。波打つ青い絨毯。 深月は自分の名だ。誰かが優しい声で何度も呼んでくれている。 それだけの夢なのに、朝起きると胸の辺りがあったかい。ホッとして、何故か涙が溢れる。 「矢千!」 「うわぁっ!」 しかし、目を覚ました先で顔を覗かせたのは昨夜の鬼上司、高科だった。 「何度も呼んでるってのに……。今から十五分で準備、持ち場について」 見慣れた所長室の内装も、朝と夜とでは雰囲気がまるで違った。壁一面に掛けられた賞状が堅苦しい。まったく場違いな空間に入り込んでしまったような気分だった。加えてとても良いタイミングで腹が鳴る。 「うあぁ……お腹空いた……」 「はい」 ちゃっかり所長室の洗面所で整容してると、テーブルの上にテイクアウトらしきコーヒーとホットドックが置かれていた。 「それは五分で食べること」 「高科さんの分は?」 「俺はもう食べた。これから本部の会議に参加しないといけないから、帰りは午後になる。それまでちゃんと仕事するんだよ。いいね?」 ネクタイをしっかり締め直し、高科は鞄を持って矢千の前を通り過ぎる。その際、まだ寝惚けている彼の額にデコピンした。 「行ってきます」 素っ気ない声音。だが、その口元はわずかに笑っていた。 見間違いかもしれないと思って視線で追う。高科は足早に扉の方へむかい、部屋を出て行ってしまった。表情は確認できなかった。 「行ってらっしゃい……」 結局それが言えたのは、部屋にひとり取り残されてからだった。 仕方ないので、テーブル前のソファに座り直し朝食をとった。コーヒーもホットドックもまだ熱々で、何度か火傷しかけた。 「行ってらっしゃい。行ってきます。……か」 何度も反芻し、ぽつりと呟く。一時期は、そんな挨拶を毎日交わしていた気がするけれど。全く思い出せない。 自分は決定的に人と違う部分がある。 何もない。 何も持ってない。 燃料の積んでない機関車が悲鳴を上げ、レールの上をぎりぎりで走っている。自分はその中にいるのだろう。 何の為に生きてる、と訊かれたら答えられない。 どんな人生を送ってきた? と訊かれても答えられない。笑ってしまうほど空虚な人間だ。 矢千深月は二ヶ月前、国立病院のベッド上で目を覚ました。 傍には誰もいなかった。しばらくぼうっとして、窓の外の曇天を眺める時間が続いた。雨も降っていたかもしれない。 それが矢千にとって世界の始まりで、終わりでもあった。 険しい顔の看護師が立ち代わりやってきて、医師と名乗る白衣姿の男性が現状を説明した。その時点では何一つ理解できなかったが、少なくともここが自分の居場所ではないことは分かった。どうやら早く出て行かなければならないようだ。隣のベッドで端座位をとる老婆がどこから来たのか十分毎に訊いてきた。何も答えられず困り果てていると、近くにいた看護師がいいからもう休みましょうと強い口調で老婆を横に寝転がせた。曇りの日が続いて、病室には湿気がこもっていく。そう長い期間滞在したわけでもないのに、消毒液の匂いと、見ず知らずの人の体臭が今でも鼻腔に残っている。 警察と名乗る人が数回来た以外は、面会に来る者はひとりもいない。そのまま退院日を迎えた。しかし退院手続きの途中に、自分を引き取りたいと言って現れた男がいた。それが高科だった。 『矢千深月さん。行くところがないなら俺と一緒に帰りましょう』 視線が交差する。どう返せばいいか分からず戸惑った。しかし拒む理由も思いつかず、差し出された手を恐る恐る取った。 その時だけ、高科はかすかに微笑んだ。その一瞬の笑顔に目を奪われたことを覚えている。

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